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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『祈り』 ~section8:観測の完了と、放置される聖域~

 三十本の太い竹串によって、冷たく湿った泥濘の大地へと完全に縫い留められた分厚いキャッチャーミット。

 時速百四十三キロのストレートという、二度と投げることのできない幻の剛速球の軌道を物理的に再現し、相棒との完璧な捕球の瞬間を永遠の座標として固定しようとした、孤独な天才投手の祈り。


 如月瑠璃の『情動の視座』によって解き明かされたその重すぎる情念の質量は、僕たちの周囲の空間から一切の音を奪い去っていた。

 分厚いテント生地の向こう側から絶え間なく響いてくるはずの、来月の文化祭に向けた生徒たちの喧騒も、鉄パイプを打ち据えるハンマーの音も、今の僕の鼓膜には全く届いていない。ただ、懐中電灯の鋭い光の円の中に浮かび上がる、あの無惨で、しかし圧倒的に純粋な祈りの彫刻だけが、世界のすべてを支配しているかのように網膜に焼き付いていた。


 点と線は繋がり、学園全体を使った巨大なダイヤモンドの謎は解けた。

 そして、この泥濘の特異点に込められた物理的エネルギーと、その奥底に沈む動機も、彼女の観測によって完全に白日の下に晒された。

 僕の手元にあるタブレット端末のデータと照らし合わせれば、この常軌を逸した見立てを実行した『エース投手』の具体的な名前やクラスなど、もはや一瞬で特定できる状態だった。


「……如月さん」


 僕は、渇ききった喉を微かに動かし、泥濘の中に静かに佇む彼女の横顔に向かって声を絞り出した。


「見立ての図面も、このミットの物理的な意味も、すべて解き明かされました。……犯人は、間違いなくあの旧校舎の屋上にブルペンの痕跡を残した、今の野球部のエース投手です。彼の名前は——」


「口にするな、サクタロウ」


 僕がその固有名詞を発音するよりも早く、如月さんの凛とした、しかし絶対的な冷徹さを孕んだ声が、暗いテントの裏側の空気を鋭く切り裂いた。

 僕は弾かれたように口をつぐみ、彼女の顔を見上げた。

 如月さんは、足元に縫い留められたミットを見下ろしていた視線をゆっくりと上げ、その深いアメジストの瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。

 そこに、事件の全貌を解き明かした探偵特有の誇らしげな感情や、犯人を追い詰めるための正義感、あるいは彼を哀れむような感情は微塵も存在していなかった。あるのはただ、対象の質量を完全に観測し終えた精密機器のような、極めて静謐(せいひつ)で揺るぎない絶対零度の光だけだった。


「……えっ?」


 僕は、彼女の意図が読み取れず、間抜けな声を漏らした。


「口にするなって……でも、もう実行犯は誰なのか、完全に特定できたじゃないですか。なら、彼を探し出して——」


「探し出して、どうするのじゃ?」


 如月さんの薄い唇から紡がれたその冷ややかな問いかけに、僕は息を詰まらせた。


「実行犯の個人の名前を特定し、彼の元へ乗り込んで、この狂気的な所業を糾弾するとでも言うのか。あるいは、文化祭の実行委員会や教師どもに報告し、グラウンドの土を荒らした器物損壊の罪で彼を裁きにかけるか。……それとも、過去に囚われている哀れな天才投手を『救済』するために、お説教でも垂れてやろうとでも思っておるのか?」


「それは……」


 僕は言い淀んだ。

 確かに、犯人が分かったからといって、僕はどうするつもりだったのだろうか。警察を呼ぶような事件ではない。だが、学園の敷地内に勝手にバットや滑車を配置し、文化祭の資材置き場の裏でミットを串刺しにするという行為は、明らかに異常であり、見過ごしていい問題ではない。普通の人間であれば、教師に報告するか、本人を問い詰めてやめさせるのが『正しい』行動のはずだ。


 しかし、如月瑠璃という孤高の令嬢は、僕のその凡庸で常識的な『正しさ』を、鼻で(わら)うことすらしなかった。

 彼女はただ、純白のシルク手袋に包まれた両手をブレザーのポケットに静かに収め、完璧な姿勢のまま、泥濘の上のミットへと再び視線を落とした。


「サクタロウ。わしの目的は常にただ一つ。ありえない場所に置かれた、ありえないモノ。その背後に隠された純粋な『ルーツ』を探り、対象の質量を正確に観測することのみじゃ」


 彼女の声は、この暗闇の中で最も美しい物理法則を語るかのように、滑らかで、そして厳かだった。


「わしは、正義を振りかざして社会の秩序を守る警察官でもなければ、迷える羊を導く聖職者でもない。他者の個人的な悲劇に介入し、安っぽい言葉で彼らの人生を『救済』してやるような、傲慢な趣味も持ち合わせてはいない。わしが用いる『情動の視座』は、対象の感情の動きを理解し、その行動の動機を物理現象として客観的に解読するための分析器に過ぎぬ。……彼と同じ悲しみを共有し、彼のために涙を流してやるような『共感』など、わしの観測においては最も不要な不純物じゃ」


 その言葉は、一見するとひどく冷酷な響きを持っている。しかし、彼女の眼差しは、誰よりも対象の『真実』に対して誠実であった。


「考えてもみよ。もし我々がここで彼の名を声高に口にし、このミットの存在を白日の下に晒せば、どうなるか」


 如月さんのアメジストの瞳が、僅かに細められる。


「教師や一般の生徒たちは、この三十本の竹串が時速百四十三キロのストレートの軌道であることなど、決して理解できぬ。彼らの濁った眼には、これがただの『文化祭に対する陰湿な嫌がらせ』や、『不気味な悪戯』としてしか映らない。彼の魂を削るような祈りの結晶は、無理解な大人たちによってただのゴミとして引き抜かれ、彼は単なる『グラウンドを汚した問題児』として安っぽい説教を受けることになるじゃろう」


 僕は、身をすくませた。

 如月さんの言う通りだ。事情を知らない人間がこの串刺しのミットを見れば、そこに込められた重厚な祈りになど絶対に気づかない。ただの猟奇的な破壊行動として、彼を軽蔑し、排除しようとするだけだ。


「彼は、誰かに見つけてほしくて、誰かに理解してほしくてこの巨大な図面を描いたわけではない。これは、彼が彼自身の精神を保つためだけに、この世界に一人で構築した、完全に閉ざされた『聖域』なのじゃ」


 如月さんは、ミットの表面から放射状に突き出している竹串のシルエットを、まるで美術館に展示された最高傑作の彫刻を鑑賞するかのように、静かに、そして敬意すら滲ませる視線で見つめた。


「彼が竹串に込めた百十五ジュールの運動エネルギー。そして、永遠に時を止めておきたいという、不器用で狂気的な情念の質量。……それらはすべて、わしのこの眼と脳髄によって、寸分の狂いもなく完全に計測され、観測された」


 彼女は、そこで言葉を区切り、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「鑑定は、終了じゃ」


 その一言は、いかなる反論も許さない、絶対的な終戦の宣告だった。


「この狂気の質量を、我々がこれ以上暴き立てる必要はない。彼の孤独な儀式は、誰にも知られることなく、この暗闇の中で永遠の祈りとして完結するべきものじゃ。……実行犯の正体を名指しし、彼の聖域に土足で踏み込んで説教を垂れることなど、彼の放った時速百四十三キロのストレートに対する、最大の侮辱でしかない」


 如月瑠璃はそう言い捨てると、泥濘に縫い留められたミットに指一本触れることなく、一切の未練を見せずにクルリと背を向けた。

 スカートの裾が、夜の重い空気を切り裂いて滑らかに翻る。最高級の革で仕立てられた靴は、泥水で汚れきっていたが、その歩みにはいかなる躊躇いも、後悔の念も存在していなかった。

 対象のルーツを完全に解明し、その重厚な祈りをそのままの形でこの泥濘に残しておくこと。

 それこそが、他者に共感しない孤高の令嬢が示す、唯一にして最大の『理解』の形だった。


「行くぞ、サクタロウ。我々の観測の任務はすべて完了した。ここにはもう、我々が解き明かすべき謎は何一つ残されてはおらん」


 彼女は、懐中電灯の光が届かないテントの裏側の暗闇に向かって、迷いのない足取りで気高く歩き出した。

 そして僕は、ただ一人、無惨なミットと彼女の遠ざかる背中の間に取り残された。



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