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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『祈り』 ~section3:白いテントと、縫い付けられたミット~

 月見坂市の高度なネットワークが制御する無機質なLED街灯の光も、文化祭の準備のために持ち込まれた巨大なバルーン投光器の暴力的なまでの白々しい光も、この場所だけには届いていなかった。


 僕と如月さんが足を踏み入れたのは、中央グラウンドの最も南西の端。

 クラスの出し物や部活動の模擬店がひしめき合うメインストリートから完全に外れ、文化祭実行委員会がパイプ椅子や予備のブルーシート、あるいは足場用の鉄パイプなどを無造作に積み上げるためだけに設営した、巨大な『資材置き場用テント』の、さらにその裏側だった。


 見上げるほど高くそびえ立つ真っ白な合成樹脂の天幕が、まるで世界の境界線を引く巨大な城壁のように、グラウンドの喧騒と眩い光を完全に遮断している。

 テントの裏側に回り込んだ瞬間、僕たちの周囲の空気は、数歩前までの熱気と活力が嘘のように、ひんやりと冷たく、そして不気味なほどの静寂に包まれた。

 遠くから聞こえてくる生徒たちの笑い声や、鉄パイプを叩く金属音は、分厚いテントのキャンバス生地に吸収され、まるで水底から水面の音を聞いているかのようにくぐもって聞こえる。


 ここは、文化祭という華やかな非日常のノイズから完全に見放された、暗く冷たい死角だった。

 だが、如月瑠璃の舌と僕のタブレットが弾き出した座標の交差点は、間違いなくこの薄暗いテントの裏側——ぬかるんだ黒土の上の、このピンポイントの空間を指し示していた。

 かつてこのグラウンドが野球部にとっての神聖な戦場であった頃、ここには白い石灰で縁取られた長方形の枠が描かれ、泥と汗にまみれた打者がバットを構え、その後ろで重い防具に身を包んだ捕手が、投手の投じる白球を待ち構えていた。


 本来の『バッターボックス』、そして『ホームベース』が置かれていた、扇の(かなめ)

 それが、今僕たちが立っているこの暗闇の座標だ。


「……暗いですね。投光器の光が完全にテントに遮られて、足元がろくに見えません」


 僕は、泥濘に足を取られないように慎重に歩幅を狭めながら、暗闇に向かって声をかけた。

 スマートシティの夜は常に人工の光で満たされているため、これほどの純粋な『暗がり』に身を置くこと自体が、僕にとってはひどく心細く、そして得体の知れない恐怖を煽るものだった。何か、踏んではいけない恐ろしいものを踏みつけてしまうのではないかという予感が、足の裏から這い上がってくる。


 しかし、僕の数歩前を歩く如月さんは、いかなる闇にも立ち止まることはなかった。

 彼女は、純白のシルク手袋に包まれた左手を、ブレザーのポケットへと滑らせる。そして、常に持ち歩いている彼女の探索道具の一つ——鈍い銀色の輝きを放つ、金属製の小型の『懐中電灯』を滑らかな所作で取り出した。


 カチリ、と硬質なスイッチの音が暗がりに響く。

 直後、懐中電灯のレンズから放たれた鋭く強力な一筋のLEDの光が、テント裏の淀んだ空気を切り裂き、足元の泥濘を白日の下に晒した。


「視覚情報が遮断されているのであれば、自ら光を当てて観測するまでのことじゃ。……サクタロウ、よく見ておくのじゃぞ。あの孤独なブルペンで極限まで高められた情念が、重力という物理法則に従って行き着いた、最も重く、最も(くら)い特異点の姿を」


 如月さんの静かな、しかし有無を言わせぬ宣告と共に、彼女の手首が微かに動く。

 懐中電灯の鋭い光の円が、無数の足跡で荒らされた黒土の上を滑るように移動していく。

 光の輪の中には、泥にまみれた木片、千切れたブルーシートの切れ端、そして誰かが落としたであろう錆びた釘などが次々と浮かび上がっては、再び闇の中へと消えていく。


 そして。

 その光の円が、テントの布地からわずか数十センチしか離れていない、最も奥まった泥濘の上で、ピタリと静止した。


「……あ」


 僕の喉の奥から、意味を持たない乾いた吐息が漏れた。

 如月さんの手は微動だにせず、懐中電灯の光は、泥の上に鎮座している『それ』を、スポットライトのように残酷なまでの鮮明さで照らし出していた。

 全身の産毛が逆立ち、胃の奥底に冷たい鉛の塊がストンと落ちたような、言いようのない悪寒が僕の背筋を駆け上がる。


 それは、ただの忘れ物でも、文化祭のゴミでもなかった。

 圧倒的なまでの『異常性』と『暴力性』を伴って、この泥濘の大地に固定されていた。


 光の中心にあったのは、一つの野球用グローブだった。

 いや、正確にはグローブではない。投手の投げる剛速球を真っ向から受け止めるためだけに、分厚い牛革を何層にも重ね合わせて作られた、大きく、そして分厚い盾。

 野球という競技において、グラウンドの扇の要に座る『女房役』だけが身につけることを許される、キャッチャーミットだ。


 そのミットは、持ち主の手を離れ、ぬかるんだ土の上に、ボールを受け止めるための『捕球面』を真上に向けるような形で、ぽつんと仰向けに置かれていた。

 懐中電灯の光を受けて鈍く黒光りするその牛革の表面には、持ち主がどれほどの時間と愛情をかけて手入れをしてきたかが、痛いほどに刻み込まれていた。

 乾燥を防ぐために丹念に塗り込まれた保革油の艶。何万回とボールを受け止めたことで、革の繊維が持ち主の左手の形に合わせて完璧に馴染み、柔らかく窪んでいる捕球面の独特のカーブ。そして、激しい摩擦によって黒い染料が剥げ落ち、下地の茶色い革が覗いている縁の部分。

 少し前まで、僕と如月さんがこの土から味覚と嗅覚で抽出し、読み解いた成分のルーツそのもの。

 それは、どこかのスポーツ用品店で買ってきたばかりの真新しい道具などではなく、一人の捕手の高校生活のすべて、血と汗と泥の記憶が染み込んだ、何よりも代えがたい『相棒』としての質量を放っていた。


 だが、僕を戦慄させたのは、そのキャッチャーミットがそこに置かれていること自体ではなかった。

 問題は、そのミットの『状態』だった。


「……なんだ、これ……どうして、こんな……」


 僕は震える足を引きずり、光の円の中心に向かって、吸い寄せられるように数歩近づいた。

 そして、その異様な光景の詳細が網膜に飛び込んできた瞬間、僕はあまりの嫌悪感と恐ろしさに、思わず口元を手で覆った。


 黒光りする分厚いキャッチャーミット。

 その表面——投手のボールを包み込むはずの、最も深く柔らかい捕球面に向かって。

 何十本という数の、長くて太い『竹串』が、無数に突き刺さっていたのだ。


 それは、文化祭の屋台でフランクフルトや焼き鳥を刺すために使われるような、太さ数ミリ、長さ二十センチほどの、先端が鋭く尖った竹製の串だった。

 それが、一本や二本ではない。三十本、四十本、あるいはそれ以上の数の竹串が、ハリネズミの針のように密集し、ミットの捕球面を情赦なく貫通している。

 

 キャッチャーミットの革は、ただでさえ時速百数十キロの硬式ボールの衝撃に耐えるために、通常のグローブの何倍もの厚さの牛革と、分厚いフェルトの芯材で作られている。並大抵の力で、しかも木よりも脆い竹の串などで、そう簡単に貫通できるような代物ではないはずだ。

 それなのに、その無数の竹串は、ミットの分厚い革の繊維を完全に引き裂き、奥深くにある芯材をもぶち抜き、さらにその下にある泥濘の大地へと、深く、深く突き刺さっていた。


 まるで、巨大な昆虫を標本箱に固定する虫ピンのように。

 あるいは、憎き対象を呪い殺すために、藁人形でなく直接その『ルーツ』そのものを地面に縫い付けるかのように。


 キャッチャーミットは、その無数の竹串によって、完全に大地と一体化させられていた。

 革の表面から天に向かって突き出している竹串の残骸が、懐中電灯の光を受けて、青白く、そして不気味な影を泥の上に落としている。

 串が貫通した革の裂け目からは、ミットの内部に詰められていた白いフェルトの繊維が痛々しく飛び出し、かつて完璧に保たれていた捕球面の美しい窪みは、無数の穴によって無惨に破壊され、完全にその機能を喪失していた。


 僕は、あまりの異常さに眩暈を覚えた。

 ただグラウンドに放置されているだけなら、忘れ物で済む。

 だが、これは違う。

 誰かが、明確な意図を持って、この暗いテントの裏側で、分厚い牛革のミットに一本一本、竹串を突き刺していったのだ。

 硬い革を竹串で貫くためには、相当な力で上からハンマーのようなもので叩き込むか、あるいは常軌を逸した執念で体重をかけて押し込むしかない。その狂気的な作業を、何十回も、何十回も、この暗闇の中で黙々と繰り返した人間がいる。


 竹串の先端が革を突き破り、中の芯材を引き裂き、最後にズブッと湿った土に突き刺さる、その重苦しい感触と音が、僕の脳内でリアルに再生され、胃の腑を激しく掻き回した。


「……ひどい……いくらなんでも、これは……」


 僕の声は、恐怖と、そしてそれ以上の強い『嫌悪感』によって震えていた。

 僕自身は野球をやったことはないけれど、ゲーム機やパソコン、そして愛用しているガジェットなど、自分の『道具』を何よりも大切にしている。だからこそ、誰かが手入れをし、大切に使ってきたであろう道具が、こんなにも無惨で暴力的な方法で破壊され、大地に縫い付けられている光景は、生理的な嫌悪感を呼び起こすのに十分すぎた。


 これは、僕たちがさっきまであの孤独な屋上で見ていた『投手の祈り』や『切ない情念』なんていう、美しい言葉で片付けられるような代物じゃない。

 もっとドロドロとした、人間の醜い悪意の塊だ。


「如月さん……」


 僕は、ライトを持ったまま微動だにしない彼女の横顔に向かって、絞り出すように声をかけた。


「これ……犯人が見立てのためにやったことなんですか? だとしたら、あまりにも……あまりにも悪質すぎますよ」


 僕は、竹串に貫かれ、地面に縫い付けられた黒いミットから目を逸らすことができなかった。

 文化祭のノイズから隔離されたこの暗い空間で、そのミットだけが、沈黙のまま強烈な悲鳴を上げているように感じられたのだ。


 しかし、僕の横に立つ如月瑠璃は、このあまりにも異常で、猟奇的ですらある光景を前にしても、いかなる動揺も、恐怖の感情も一切表に出してはいなかった。

 彼女はただ、アメジストの瞳を冷たく、そして鋭く研ぎ澄まし、懐中電灯の光の円の中に浮かび上がる『事実』を、一つ残らず網膜に焼き付けようとしている。


 彼女の純白の手袋に包まれた手が、ゆっくりと下がり、光の角度が変わる。

 それに伴って、ミットに突き刺さった無数の竹串が落とす影の形が、まるで日時計の針のように泥の上で長く伸び、奇妙な幾何学模様を描き出していた。


「サクタロウ」


 静寂を引き裂くように、如月さんの声が響いた。

 そこには、恐怖も、僕のような凡人が抱く嫌悪感も含まれていない。

 ただ、対象物の内側に潜む『物理的な真理』に指先が触れた時の、絶対的な観測者としての冷徹な響きだけがあった。


「お主は今、この質量を見て『悪質』だと言ったな。……ならば、お主のその濁った眼には、この無数の竹串が、ただ無秩序な暴力によって乱雑に突き刺された結果に見えておるのか?」


「え……?」


 僕は、彼女の意図が掴めず、再び光に照らされたミットへと視線を戻した。


 無数に突き刺さり、ミットを大地に縫い付けている太い竹串の群れ。

 ただの猟奇的な破壊行為。嫌がらせ。そうとしか思えなかった。

 だが、如月さんの言葉に促されて、改めてその竹串の『刺さっている角度』に注目した瞬間、僕は息を呑んだ。


 三十本以上はあるであろう竹串。

 それは、決してでたらめな方向から無作為に打ち込まれているわけではなかった。

 どの串も、どの位置から刺さっている串も。

 まるで、上空の見えない『ある一点』から、ミットの中心である捕球面に向かって、完全に同じ角度、同じ軌道を描きながら、規則的に収束するように突き刺さっていたのだ。


 それは、暴力というよりも、極めて精密な『計算』の痕跡だった。


「……気づいたようじゃな」


 如月さんは、懐中電灯の光をミットの中心に固定したまま、静かに告げた。


「これは、単なる破壊衝動ではない。この大地に縫い付けられたミットには、極めて明確な『ベクトルの指向性』が刻み込まれておるのじゃよ」


 平和な文化祭のノイズのすぐ裏側で、僕たちはついに、あの天才投手が描き出した巨大な図面の、最も深く、最も昏い核へと辿り着こうとしていた。



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