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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『祈り』 ~section2:銀の匙と、泥濘の行軍~

 煌々(こうこう)と夜の闇を切り裂く、巨大なバルーン投光器の無機質な白い光。

 文化祭の準備に追われる何百人もの生徒たちが発する、熱気と喧騒。

 僕と如月さんは、その圧倒的な『平和なノイズ』の渦が吹き荒れる中央グラウンドの入り口に立っていた。


 視界を埋め尽くすのは、大小様々に乱立する真っ白なパイプテントの群れだ。クラスの出し物や部活動の模擬店、あるいは資材置き場として設営されたそれらのテントは、まるで一夜にして現れた巨大な迷路のように、グラウンドの本来の地形を完全に覆い隠してしまっている。

 足元を見下ろせば、かつては野球部員たちがトンボをかけて平らに(なら)していたはずの美しい黒土が、無数のスニーカーや作業靴、そして重量のある建築資材を運ぶ台車の車輪によって無惨に掘り返され、昨晩の夜露と相まって、靴底が沈み込むほどの酷い泥濘と化していた。


 僕が普段履いているローファーは、一歩踏み出すごとにジュルリという不快な音を立てて泥にまみれ、歩くことすら困難なほどの抵抗を生み出している。

 しかし、僕の数歩前を歩く如月瑠璃の歩みには、いかなる躊躇いも、物理的な抵抗すらも存在しないように見えた。

 先ほどベルベットのケースから取り出し、すでにその右手にしっかりと握られているアンティークの『銀の匙』。彼女はそれを指揮棒のように携えたまま、最高級の革で仕立てられた靴が泥水で汚れていくことなど視界の端にも入れず、ただ完璧に背筋を伸ばし、夜風に漆黒のロングストレートヘアを滑らかに揺らしながら、この喧騒の迷宮へと気高く進軍していく。

 その姿は、この泥濘の戦場においてあまりにも異質であり、同時に、絶対に揺らぐことのない『論理の絶対座標』のようでもあった。


「……ホームベース、ホームベース……」


 僕は、泥に足を取られながらも必死に彼女の背中を追い、口の中でその単語を反芻した。

 あの天才投手が、屋上の孤独なブルペンで極限まで高めた情念のエネルギー。それを真っ向から受け止めているはずの女房役、『捕手』のルーツが残されている座標。

 それは間違いなく、かつてのこのグラウンドに存在していた『本塁』の位置だ。

 しかし、視覚情報に頼る限り、その座標を特定するのは絶望的だった。マウンドのわずかな隆起すらも、生徒たちがテントを平らに建てるためにスコップで削り取ってしまっている。白線の痕跡など、とうの昔に泥に消えている。


 僕は歩きながら、制服のブレザーのポケットから自らの武器であるタブレット端末を取り出した。

 網膜認証でロックを解除し、光る画面に指を滑らせる。

 ほんの数十分前、屋上でこの板切れを開いた時、僕は無意識のうちに学園の『裏掲示板』にアクセスし、飛び降り自殺や呪いといったオカルトチックな都市伝説の検索結果にすがりつこうとしていた。分からないものを、デジタルの海に漂う無責任なノイズで埋め合わせようとしていたのだ。


(……でも、今は違う)


 僕は、ブラウザのタブに開きっぱなしになっていたオカルト掲示板の画面を、迷うことなくスワイプして完全に消去した。

 画面の中の幽霊に逃げるな。目の前にある質量の事実を見よ。

 如月さんに叩きつけられたその冷徹な宣告が、僕の脳内の回路を正しい方向へと再接続していた。

 僕は、情報の海から『オカルト』ではなく、『純粋な物理的データ』だけをすくい上げるために、タブレットの用途を切り替えた。

 月見坂市の高度なネットワークを経由し、如月学園の生徒会と文化祭実行委員会が共有しているクラウドサーバーのディレクトリへとアクセスする。膨大なフォルダの階層を潜り抜け、僕は一つのPDFファイルをダウンロードして画面に展開した。


「如月さん!」


 僕は、泥濘に足を取られながらも声を張り上げた。


「文化祭実行委員会のサーバーから、現在の『テント配置図』の最新データを落としました! これを、グラウンドの『本来の図面』と重ね合わせれば、ホームベースの大体の位置が分かるはずです!」


 僕は、タブレットの画面上で二つの図面を開き、画像処理アプリのレイヤー機能を使って透過率を調整し始めた。

 しかし、作業を進める僕の指先が、ピタリと止まる。


「……ダメだ。精度が粗すぎる」


 僕は画面を拡大しながら、忌々しげに舌打ちをした。

 グラウンドの本来の図面はCADで作られた正確なものだが、文化祭実行委員会のテント配置図は、あくまで『大まかな予定図』に過ぎなかった。『模擬店エリア』『資材置き場エリア』といった巨大なブロック分けがされているだけで、どのテントが正確に何メートル何センチの位置に建っているかという、ミリ単位の座標までは記録されていない。

 これでは、広大なグラウンドの中から『ホームベースというたった一つの点』を特定するためのマップとしては、誤差が大きすぎる。せいぜい『グラウンドの南側のどこか』という程度しか絞り込めない。


「図面だけでは、座標の完全な特定には至らぬか。……想定の範囲内じゃ」


 数歩前を歩いていた如月さんが、泥濘の中でピタリと足を止めた。

 彼女は、僕の報告に落胆する様子もなく、ただ静かに振り返った。周囲を煌々と照らすバルーン投光器の光が、彼女の純白の手袋と、その端正な横顔を白磁のように浮かび上がらせる。


「サクタロウ。お主のその板切れは、広域の海図としては十分に機能しておる。だが、航海士の持つ海図の精度が荒いのであれば、あとは船長自らが海流の匂いを嗅ぎ、風の成分を確かめて、羅針盤の針を合わせるまでのこと」


 如月さんは、右手に握っていた銀の匙を目の高さにスッと掲げた。

 周囲の強烈な人工光を反射して、ギラリと冷たい光を放つアンティークの銀細工。

 視覚が塞がれ、聴覚が喧騒というノイズに支配されているのならば、残されたセンサーを極限まで研ぎ澄ますのみ。


「これより、この汚濁に満ちた泥濘の中から、最も純粋な情念の成分だけを『嗅覚』で抽出する」


 如月さんは、躊躇いという概念そのものが存在しないかのような滑らかな所作で、足元の泥濘へと向かってゆっくりと片膝を突いた。

 スカートの裾が泥水に浸かり、どす黒い染みが広がっていくが、彼女のアメジストの瞳はそんな些末な物理的現象には一切頓着していなかった。

 彼女は、純白の手袋をはめた右手で銀の匙を握り、目の前の無惨に踏み荒らされたグラウンドの土を、ほんの数グラムだけ静かにすくい上げた。

 水気を多く含み、生徒たちの足跡によって捏ねくり回された、得体の知れない泥の塊。


 如月さんは、その泥が乗った銀の匙を、自身の端正な鼻先からわずか数ミリの距離までゆっくりと近づけた。

 そして、静かに目を閉じ、周囲のシンナーやノコギリ屑の匂いといった巨大なノイズの中から、匙の上にある極微量の土の成分だけを肺の奥深くまで吸い込むように、深く、静かに息を吸い込んだ。


 僕が息を呑んで見守る中、彼女の脳内では、人間の限界を遥かに超えた超高解像度の『五感分析』が、恐るべき速度で実行されていた。


 数秒後。

 彼女はゆっくりとアメジストの瞳を開き、銀の匙を顔から遠ざけると、極めて冷静に成分のプロファイリングを口にし始めた。


「……ダメじゃな。この地点の土壌成分は、完全に文化祭のノイズに汚染されておる」


 彼女の声には、泥を嗅いだことへの不快感など微塵もない。ただ、精密な化学分析装置がエラーコードを出力したかのような、無機質な響きだけがあった。


「防虫スプレーに含まれるディート(忌避剤)の化学的な臭気。新しいブルーシートから溶け出した可塑剤の揮発臭。そして、無数のスニーカーの底から剥がれ落ちた合成ゴムの微粒子と、アクリル塗料の強烈なシンナー臭が支配的じゃ。……ここは、グラウンドの『外野』、あるいは観客席に近い位置。野球のルーツは極めて薄い」


 彼女は、泥のついた銀の匙を懐から取り出した純白のハンカチで丁寧に拭き取ると、立ち上がって迷いなく南西の方角——巨大なテントが密集している地帯へと歩き出した。


「サクタロウ。もっと南西じゃ。土の組成が変わる境界線を探る」


「は、はいっ!」


 僕は、タブレットの画面に表示された『テント配置図』の南西エリアを指で拡大しながら、彼女の後を必死に追いかけた。

 そこから、僕と如月さんの、泥濘の中の奇妙な行軍が始まった。

 文化祭の喧騒の中、巨大なテントの影や、資材の山を縫うようにして進む。

 数メートル進むごとに、如月さんは片膝を突き、銀の匙で泥をすくい、目を閉じてその成分を嗅覚で解体していく。


「塩化ビニルの匂いが濃い。ここは模擬店の設営予定地じゃな。微かに鉄錆とミシン油の揮発臭がする。グラウンド整備用のローラーが置かれていた場所の近くじゃ」


 その人間離れした嗅覚のナビゲーションを聞きながら、僕は手元のタブレットで透過させた二つの図面を睨みつけていた。

 彼女が口にする成分情報と、画面上のテント配置図を照らし合わせていく。


(模擬店の予定地を過ぎた……ローラー置き場の近くってことは、図面で見ると一塁側ベンチの裏手あたりか? だとしたら、目指すホームベースは、このまま今の直線をもう少し奥に進んだところにあるはずだ)


 デジタルの不完全な地図を、如月さんの究極のアナログセンサーが完璧に補正していく。

 僕のタブレットと、彼女の銀の匙。

 全く異なる二つのアプローチが、ノイズだらけの泥濘の中で同期し、一つの強固な『論理の矢』となって、目に見えない座標を正確に貫き始めていた。

 その主従の完璧な連携に、僕は背筋がゾクゾクするような高揚感を覚えていた。僕はもう、ただ怯えて後ろをついて歩くだけの凡人ではない。如月瑠璃という天才の索敵を、デジタルでスマートに補佐する『助手』として確実に機能しているのだ。


 さらに十数メートル進み、最も奥まったエリアに乱立する、機材やブルーシートが山積みにされた巨大な資材置き場用テントの群れに差し掛かった時だった。

 周囲の喧騒が少しだけ遠のいたその薄暗いテントの裏側で、如月さんが再び片膝を突いた。


 彼女は、銀の匙で足元の黒い泥をすくい、鼻先へと近づけた。

 そして、これまでで最も長く目を閉じ、嗅覚の細胞を総動員して、泥の成分を限界まで細かく切り分けていく。

 バルーン投光器の光がテントに遮られ、彼女の横顔に深い影を落としている。


 やがて。

 如月さんのアメジストの瞳が、暗闇の中でカッと鋭い光を放って開かれた。


「……サクタロウ」


 彼女の低く、しかし確信に満ちた声が響く。


「この座標の土には、先ほどまでの場所とは明確に異なる、極めて重厚な質量が染み込んでおる」


「重厚な質量……って、まさか……!」


 僕は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

 如月さんは、銀の匙をハンカチで拭き取りながら、泥から抽出した成分の『ルーツ』を静かに読み上げていく。


「主成分は、酸化した牛革特有のタンパク質の匂い。そして、革のひび割れを防ぐために丹念に塗り込まれた『スクワラン』と『ミンクオイル』の強烈な揮発臭。さらには、牛の足の骨から抽出された純度の高い『ニーツフットオイル』……。間違いない。野球のグローブを保護し、手入れするために用いられる『保革油』と『獣脂』の匂いじゃ」


 野球のグローブの手入れに使われる、保革油と獣脂の匂い。

 それが、この泥濘の中に高濃度で染み込んでいる。


「それだけではない。この土からは、グラウンドの白線を引くために用いられる『炭酸カルシウム』の粉末が、他のどの場所よりも極めて高い密度で舞い上がってくるのが分かる。……バッターボックスを描く白線と、常に地面すれすれにしゃがみ込み、最も泥と汗にまみれるポジションのグローブから染み出した獣脂のルーツ。……間違いない。ここじゃ」


 如月さんが立ち上がり、僕の方へと視線を向けた。

 僕は弾かれたようにタブレットの画面に目を落とした。

 彼女が嗅覚で示した『成分濃度の特異点』を、画面上のマップにプロットする。そして、半透明にした本来のグラウンド図面の、ホームベースの五角形の座標と重ね合わせる。


 二つの座標が、画面上でピタリと完全に一致した。


「如月さん……!」


 僕は、興奮で声が上ずるのを抑えきれなかった。

 デジタルの地図と、彼女の嗅覚が弾き出した結論。その完璧な同期が、目の前の泥濘に隠された真実を暴き出していた。


「ピッタリです! 如月さんが今いるその場所の成分濃度と、本来の野球場の図面。……この目の前にある、巨大な資材置き場用のテントの『裏側』。そこが、本来のグラウンドにおける『バッターボックス』の正確な位置です!」


 僕がタブレットを突き出して力強く宣言すると、如月さんは薄い唇の端を微かに吊り上げ、僕のナビゲートを肯定するように静かに頷いた。

 

「よくやった、サクタロウ。お主のその板切れも、使い方次第では多少は役に立つようじゃな」


 それは、彼女なりの最大限の賛辞だった。


 僕たちは、乱雑に積まれたパイプ椅子やブルーシートの山を避けながら、目の前にそびえ立つ巨大な白いテントの裏側へと、ゆっくりと回り込んでいく。

 文化祭の喧騒から隔離され、バルーン投光器の光すら届かない、最も暗く、最も人気のない特異点。

 あの天才投手が、己の狂気的な情念のエネルギーを真っ向から受け止めるために残した、『不在の捕手』のルーツ。


 テントの裏側の暗がりへと足を踏み入れた瞬間、僕の視界に『それ』が飛び込んできた。


 僕は息を呑み、足元に広がるその異様な光景に、全身の血液が急激に温度を失っていくような感覚を覚えた。

 僕と如月さんの完璧な連携によって泥濘の中から掘り起こされたその事実は、僕の想像を遥かに超える、あまりにも重く、そして狂気的な質量を持って、そこに鎮座していたのだ。



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