第4話『祈り』 ~section1:喧騒のグラウンドと、助手としての視座~
ズガガガガッ、とコンクリートの床を無残に削り取るような、耳障りで重苦しい摩擦音が旧校舎七階の踊り場に響き渡る。
南京錠と太いチェーンで厳重に封鎖されていたため、如月さんが銀の匙で蝶番のピンをテコの原理で引き抜き、僕が強引に横へとずらして作り出した、かろうじて人が一人通れるだけの隙間。僕は今、その隙間を塞ぐために、外された分厚い鉄扉という冷たくて巨大な質量に全身の体重をかけ、靴の底を滑らせながら元の位置へと押し戻そうと悪戦苦闘していた。
「ぐっ……、重っ……!」
外の世界からは、ゴォォォォォォォォォッという、すべてを吹き飛ばそうとする暴力的な風の咆哮が、開いたままの隙間から容赦なく叩きつけてくる。風圧が鉄扉を押し戻そうとする力と拮抗し、僕の大腿四頭筋と腕の筋肉が悲鳴を上げた。
僕は奥歯を強く噛み締め、制服が埃で汚れるのも構わずに肩から鉄扉にぶつかり、最後の力を振り絞って強引に横へとスライドさせた。
ガツン!という重々しい金属音と共に、鉄扉が本来の枠組みへと乱暴に嵌まり込み、開いていた隙間が完全に塞がれる。
その瞬間、分厚いコンクリートの壁に守られた薄暗い階段の踊り場に、唐突な、そして耳鳴りがするほどの絶対的な静寂が戻ってきた。
ほんの数秒前まで僕の全身を打ち付けていたあの氷のような寒さと、息をするのすら困難だった大気の乱れが、まるで最初から存在しなかったかのように消え去る。
僕が荒い息を吐きながら冷たい鉄扉に背中を預け、ズルズルと座り込みそうになっているそのすぐ横で。
如月さんは、ブレザーの内ポケットから取り出した上質な鼈甲の櫛を用い、強風で激しく絡まり乱れていた漆黒のロングストレートヘアを、まるで何事もなかったかのように静かに、そして完璧に梳かし終えていた。
彼女の髪は、僕が扉と死闘を演じている数十秒の間に、再び静かな夜の水面のような滑らかさと艶を取り戻している。彼女にとっては、僕が抱え込んでしまった圧倒的な重苦しさも、扉を閉めるための物理的な疲労も、一切意に介するべき対象ではないのだ。
「……待ってくださいよ、如月さん」
無言で階段を下りようとする彼女の背中を、僕は制服についた赤錆と埃を手で払いながら慌てて追いかけた。
僕たちは、一段、また一段と薄暗い旧校舎の階段を下りていく。
七階から一階へと下っていくその時間は、まるで狂気の世界から日常の世界へと浮上していくための、潜水艦の減圧プロセスのような奇妙な長さを感じさせた。窓の外の景色が徐々に低くなり、空の支配領域から、地面に縛られた人間の領域へと戻っていく。
やがて、旧校舎の一階エントランスを抜け、外の空気へと触れた瞬間、僕の視界と感覚は、一気に『現代』へと乱暴に引き戻された。
夕日の最後の残光は、すでに西の空の彼方へと完全に沈み切っていた。
代わりに月見坂市の高度に制御されたスマートシティのインフラが完全に覚醒し、学園の敷地内を照らす無機質で規則的なLEDの街灯が、まるでAIの意志による一つの巨大な呼吸のように、一斉に青白い光を放ち始めていた。
気温、湿度、日照量。すべての環境データをネットワークで常時収集し、常に最も効率的で快適な照度を自動で計算して街を照らす、完璧に管理されたデジタルの光。
旧市街の団地で生まれ育った僕にとって、川の向こう側にそびえ立つこの新市街のスマートシティは、いつだって不確定なノイズを排除し、スマートで効率的な生活を見せつけてくる別世界だった。しかし、今の僕には、その完璧に制御された冷たい光の海が、ひどく空々しく、そして残酷なものに思えてならなかった。
この完璧なデジタルの光に照らされた街のすぐ裏側——あの暗く冷たい屋上で、あの天才投手は誰にも頼ることなく、デジタルの恩恵をすべて拒絶し、ただ自分の肉体と一つのボールとの摩擦だけを信じて、血の滲むようなアナログな儀式を何万回と繰り返していたのだ。
「急ぐぞ、サクタロウ。……あの投手が孤独なブルペンで極限まで高めた情念のエネルギーを、物理的に真っ向から受け止めているはずの『不在の捕手』が、我々を待っておる」
数歩前を歩く如月さんの凛とした声が、僕の思考を現実に引き戻した。
彼女の視線は、旧校舎から数百メートル離れた南側に位置する、学園の『中央グラウンド』へと真っ直ぐに向けられている。
南棟の本塁と、北の二塁ベース。その二つの建造物を結ぶ直線の、完全なる中間地点。そこは、本来であれば如月学園の野球部が日々の厳しい練習で汗を流し、本物のピッチャーマウンドが土の丘として隆起しているはずの、彼らにとっての神聖な戦場だ。
僕たちは旧校舎の敷地を抜け、中央グラウンドへと続く舗装されたアスファルトの道を歩き始めた。
グラウンドに近づくにつれて、僕たちの鼓膜を叩く『音』の種類が、劇的に変化していくのが分かった。
カン、カン、カン!
「おい、そこのパイプもっと右に寄せて! 全体のバランス崩れるぞ!」
「こっちのベニヤ板、早く運んで! ペンキ乾く前に立てかけないと!」
「あーもう、完全に日が暮れちゃったじゃん。照明車もっとこっち向けてよ!」
グラウンドの入り口のネットを抜けた瞬間、僕の視界と聴覚は、圧倒的なまでの『平和なノイズ』に完全に飲み込まれた。
そこに広がっていたのは、白球を追いかける泥だらけの球児たちの姿でも、ノックバットがボールを弾き返す小気味良い快音でもなかった。
来月に迫った如月学園の文化祭。その一大イベントに向けて、実行委員や各クラスの有志の生徒たちが、広大なグラウンドの敷地を埋め尽くすほどの異常な規模で、無数の巨大な『白いテント』を設営している真っ最中だったのだ。
グラウンドの四方には、夜間作業用の巨大なバルーン投光器がいくつも立ち並び、昼間のように白々しい人工の光を撒き散らしている。
その暴力的なまでの明るさの下で、何百人という生徒たちが忙しなく動き回っていた。鉄パイプの骨組みをハンマーで叩き込む甲高い金属音、ベニヤ板にスプレーペンキを吹き付けるシューッという音、指示を飛ばす実行委員の拡声器の歪んだ声、そして、準備の過酷さをどこかお祭り気分で楽しんでいるような、同級生たちの無邪気な笑い声。
空気には、グラウンド特有の乾いた土と埃の匂いではなく、真新しいブルーシートの化学的な匂いや、強烈なシンナーとアクリル塗料の刺激臭、そして木材を切り出したばかりのノコギリ屑の匂いが充満していた。
完全なる、お祭り騒ぎ。
これが、今の如月学園の中央グラウンドの『正しい姿』だった。
しかし、その平和で活力に満ちた喧騒は、僕たちの目的——犯人が見立てた巨大な野球盤の『特異点』を探し出すという任務においては、最悪の物理的障害を意味していた。
本来のグラウンドの地形は、無数に乱立する白いテント群と、そこに運び込まれた膨大な数の建築資材、そして何百人もの生徒たちの無軌道な足跡によって、完全に踏み荒らされ、侵食されていた。
どこが内野の黒土で、どこが外野の芝生なのか。ピッチャーマウンドの隆起はどこにあったのか。そして、キャッチャーがしゃがみ込むはずのホームベースの五角形は、この無秩序なテント村のどの座標に埋もれてしまっているのか。
視覚的な情報だけでは、もはや本来の野球フィールドの面影をミリ単位でさえ見出すことは不可能だった。
足元を見れば、夜露と大勢の生徒たちが無遠慮に踏み固めたことによって、グラウンドの土はあちこちでひどくぬかるみ、靴底を泥まみれにする無惨な泥濘と化している。
これまでの僕なら、この絶望的な状況を前にして、間違いなくこう言っていただろう。
『如月さん、これは無理ですよ。こんな夜中に、これだけテントが建ってて人も大勢いるのに、この中から何か不自然なモノを見つけ出すなんて絶対不可能です。ましてや土はドロドロだし、今日はもう帰りませんか?』と。
少し前までの僕なら、自分の観察眼の無さを状況のせいにして、真っ先に逃げ出すためのすぐにもっともらしい言い訳を探していたはずだ。
だが、今の僕は違った。
無意識のうちに、僕の視線は目の前の騒がしいテント村から離れ、ゆっくりと背後を、そして遥か上方へと向いていた。
煌びやかな照明と喧騒に包まれたグラウンドから振り返ると、そこには一切の光を持たない、旧校舎の巨大で真っ黒なシルエットが、夜空に孤独な墓標のようにそびえ立っていた。
その最上階。あの七階の屋上。
強風が吹き荒れる、誰も来ない孤独なブルペン。
僕は、自分の脳内で、あの暗い屋上からこの煌びやかなグラウンドを見下ろしている『天才投手』の視界を、強引にシミュレーションしようとしていた。
(……もし、僕があの屋上から見下ろしていたら)
僕は、自分の指先がジワリと冷たい汗をかくのを感じながら、心の中で推論を組み立てていく。
彼は、肩を壊した相棒のキャッチャーと共に、このグラウンドで最後の試合に出るはずだった。彼らにとって、この中央グラウンドはただの学校の運動場ではなく、何よりも神聖で、自分たちの血と汗を染み込ませた絶対的な『聖域』だったはずだ。
だが、相棒は怪我で去り、夢は絶たれた。
そして、主を失ったその神聖なグラウンドは、文化祭という『日常のイベント』によって、無惨にも次々と無関係な白いテントで埋め尽くされ、泥濘に踏み荒らされていく。
野球部ではない生徒たちが、バッターボックスの位置に資材を無造作に放り投げ、マウンドの土を足で平らに踏み潰し、笑いながらペンキをぶちまけていく。
投手の彼は、それをあの孤独な屋上から、ずっと見下ろしていたのだ。
自分たちの時間が完全に止まってしまったというのに、眼下の世界では、文化祭という新しい時間が当たり前のように進んでいき、自分たちの生きた証である聖域が、物理的に別のものへと侵食され、上書きされていく残酷な光景を。
(絶望だ)
僕は、ゾッと鳥肌が立つのを感じた。
彼がこの学園全体を巨大な野球盤に見立て、あの屋上で狂気的なシャドーピッチングを繰り返していた理由。それは単なる未練や哀愁ではなく、この『聖域の侵食』に対する、彼なりの強烈な抵抗だったのではないか。
世界が自分たちの野球を終わらせ、グラウンドを文化祭の喧騒で塗り潰そうとするなら。自分は学園そのものを巨大なダイヤモンドに書き換え、絶対に終わらない、永遠の幻の試合を一人で続けてやるという、血を吐くような情念の反逆。
「……如月さん」
僕は、自分の内側に湧き上がってきたその仮説を、静かな、しかし確信を持った声で紡ぎ出した。
目の前で立ち止まり、無数のテント群を無表情で見渡している如月さんの細い背中へ向かって。
「犯人であるあの投手は……このグラウンドが、文化祭の準備で踏み荒らされていくのが、許せなかったんじゃないでしょうか」
周囲の金属音や笑い声にかき消されないよう、僕は一歩だけ彼女に近づき、言葉を続けた。
「彼にとって、ここは自分と相棒が立つはずだった神聖な場所だ。それが、関係のない生徒たちのテントで埋め尽くされ、元の形も分からない泥濘に変わっていく。……自分たちの『野球』が、物理的に消し去られていく光景をあの屋上から見下ろすのは、どんなに狂おしい気持ちだったか。だから彼は、この場所のどこかに、自分たちの生きた証である『捕手のルーツ』を、文化祭のノイズに絶対に侵食されないような、何か異様で強烈な質量として突き刺して、固定しているはずです。……単にグラウンドに忘れていったとか、落としていったとか、そんな生易しいものじゃない。絶対にここから動かさないという、強固な意志を持って」
僕が言い終えると、如月さんはすぐには答えなかった。
彼女は、煌々とグラウンドを照らすバルーン投光器の強烈な光を浴びながら、ゆっくりと僕の方へと振り返った。
そのアメジストの瞳が、僕の顔を真っ直ぐに射抜く。
以前のような、救いようのない知的生命体を見るような完全な冷蔑の光は、そこにはなかった。
彼女は、僕が初めてオカルトやデジタルの検索結果に頼らず、目の前の『物理的な状況』から、犯人の『背後にある情動』を自発的に推し量ろうとしたその過程を、極めて静かに、そして正確に評価しているようだった。
「……愚鈍と言いたいところじゃが」
強烈な人工の光の中で、如月さんの薄い唇が微かに動いた。
「少しは、マシな視座を持つようになったようじゃな、サクタロウ」
それは、決して手放しの称賛ではなかった。しかし、彼女の口から出たその言葉は、僕がこの数日間、彼女という絶対的な観測者の隣で必死に食らいついてきた結果として得られた、何よりの勲章のように感じられた。
「お主の言う通りじゃ。ここはすでに、文化祭という平和なノイズによって物理的な地形を完全に喪失しておる。視覚的な情報だけで、かつての本塁の座標を割り出すことは、不可能に近い」
如月さんは、再び前へと向き直り、純白のシルク手袋に包まれた右手をブレザーのポケットへと滑らせた。
「だが、ルーツというものは、視覚情報だけで構成されているわけではない。……この泥濘に踏み荒らされた広大なキャンバスの中から、彼が突き刺した『異常な質量』をピンポイントで抉り出す。お主のその少しばかり成長した視座と、わしのこの純粋な物理的観測眼を連携させれば、造作もないことじゃ」
彼女がポケットから取り出したのは、一本の細長く、そして鈍く輝く金属製のカトラリーだった。
専用のベルベットのケースから抜き出された、アンティークの銀細工が施された美しい『銀の匙』。当然だが、先ほど屋上の鉄扉の蝶番をこじ開ける際に使用した銀の匙ではなく、彼女が『鑑定の儀式』のためだけに純粋に磨き上げている神聖な道具だ。
「さあ、行くぞサクタロウ。お主はその無駄に光るだけの板切れで、このグラウンドの本来の図面を呼び出しておけ。……これより、この汚濁に満ちた泥濘の中から、最も純粋な情念の成分だけを『味覚』で抽出する」
如月瑠璃は、僕の返事を待つことなく、純白の靴を泥で汚すことすら一切の躊躇いを見せず、文化祭の喧騒と巨大な白いテントの迷宮へと、その気高い歩みを進め始めた。
僕は慌ててタブレットの電源を入れ、彼女の指定した通りに如月学園のグラウンドの本来の図面を画面に展開しながら、その後を必死に追いかけた。
平和なノイズに包まれた泥濘の特異点。
その最奥に隠された、最後の、そして最も狂気的なルーツの解明が、今まさに始まろうとしていた。




