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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『祈り』 ~section4:感情的誤謬と、復讐のシナリオ~

 文化祭の喧騒から完全に隔離された、資材置き場用テントの裏側。

 僕が如月さんの指示で構えた金属製の懐中電灯が放つ鋭いLEDの光は、泥濘の大地と同化するように横たわる『それ』を、容赦なく白日の下に晒していた。


 黒光りする分厚いキャッチャーミット。

 そして、その最も深く窪んだ捕球面を情赦なく貫通し、ミットそのものを大地に縫い付けるように深々と打ち込まれた、三十本以上の太い竹串の群れ。


 僕は、あまりの異様さと暴力的な光景に眩暈を覚え、思わず口元を手で覆った。

 ただの忘れ物ではない。グラウンドの泥にまみれたただのゴミでもない。誰かが、明確な意図と執念を持って、この暗がりで分厚い牛革に何十回も串を突き立てたのだ。竹串の先端が革を食い破り、中の芯材を引き裂き、湿った土に突き刺さっていく重苦しい感触が、僕の脳内でリアルに再生され、胃の腑を激しく掻き回した。


 僕と如月さんは、すでにあの旧校舎の屋上の時点で、犯人である天才投手がこの学園全体を巨大な『野球のダイヤモンド』に見立てているという、空間の幾何学を完全に看破していた。

 第一のルーツである南棟の音楽室。第二のルーツである北の体育館。第三のルーツである旧校舎の屋上。

 ならば、南棟と北の体育館を結ぶ直線上にあるこの場所——かつてバッターボックスが存在したこの中央グラウンドの特異点が、投手の球を真っ向から受ける『捕手』の座標であることは、もはや疑いようのない事実だった。


 図面の謎は解けている。点と線は完璧に繋がり、巨大なキャンバスに描かれた幾何学模様は、僕たちの頭の中でとうの昔に完成しているのだ。

 しかし、残された最後の、そして最大の謎が、今まさに僕の眼前に突きつけられている。


 なぜ、犯人であるあの天才投手は、相棒の分身とも言えるこの大切なキャッチャーミットを、こんなにも残酷で猟奇的な方法で大地に縫い付けなければならなかったのか。


 僕は、懐中電灯に照らされた無惨なミットを凝視した。

 泥にまみれ、三十本以上の太い竹串に分厚い革を食い破られ、内部の白いフェルトを痛々しく露出させているキャッチャーミット。それは、文化祭の屋台で使われるようなありふれた竹串が、狂気的なまでの密度で一点に集中し、対象物を完全に破壊し尽くしている有様だった。

 その暴力的なビジュアルを見た瞬間、僕の胸の奥に、ある強烈な感情のベクトルが自然と湧き上がってきた。

 論理や物理法則ではない。人間としての、ごく自然な『共感』と『憤り』だ。


「如月さん」


 僕は、泥濘に突き刺さったミットを指差しながら、静かに佇む如月さんの横顔に向かって、自信に満ちた声で推論を口にした。


「学園全体を使った巨大な見立ての図面が完成しているとなれば、犯人がこのミットをこんな残酷な方法で大地に縫い付けた『理由』も、論理的に説明がつきますよ」


「ほう。言うてみよ」


 如月さんは、ミットから視線を外すことなく、冷淡な声で促した。

 僕の脳内では、犯人である天才投手と、退部した相棒のキャッチャーとの間に起きたであろう、痛ましい愛憎のドラマが完璧に組み上がっていた。


「この竹串の異常な数は、犯人の『悪意の質量』そのものです。これは、退部したキャッチャーに対する、犯人の執拗で陰湿な『嫌がらせ』なんですよ」


 僕は、革を貫く竹串の暴力的な有様から、犯人の歪んだ心理状態を一つ一つプロファイリングしていく。


「如月さんもさっき屋上で言っていたじゃないですか。このミットの持ち主である女房役の捕手は、肩と手を壊して、野球部を退部してしまったと。残されたエース投手からすれば、それは自分に対する『裏切り』に等しい行為だったはずです。自分はまだ投げられるのに、最高のコンディションなのに、自分の球を受けてくれるたった一人の相棒が、勝手にグラウンドからいなくなってしまった。これから先、二度とあのキャッチャーミットに向かって全力でボールを投げることはできない。一緒に目指していたはずの夢も、すべて台無しにされた。その行き場を失った深い絶望が、やがて相棒への激しい『怒り』と『憎しみ』に変わったんです」


 僕は言葉に熱を帯びながら、ミットに刺さった竹串の群れを見下ろした。

 暗がりの中で青白く浮かび上がる一本一本の竹串が、犯人の抱えていたドロドロとした怨念の塊のように見えた。誰かを呪い殺すために打ち込まれた、藁人形の五寸釘のようにすら思える。


「だから犯人は、見立ての座標にただミットを置くだけじゃ満足できなかった。相棒だったキャッチャーの大切な道具をわざわざ持ち出し、文化祭のゴミである焼き鳥の竹串で無数に貫いて、泥だらけのグラウンドに縫い付けた。それは、『俺を置いていったお前なんか、もう二度と野球ができないようになればいい』という呪いのメッセージであり、『俺の野球を終わらせたお前を絶対に許さない』という、強烈な恨みと復讐の儀式なんです。いくら絶望したからって、こんなひどいことをして、大切にしていたはずの道具を串刺しにして使い物にならなくするなんて。見立ての図面を完成させるためとはいえ、これは悪質すぎます。かつての親友に向けた、ただの陰湿な暴力ですよ」


 僕は、一気に自分の推理を披露し終え、荒くなった息を吐き出した。

 巨大なダイヤモンドの図面という前提条件。そして、その中心に置かれた破壊されたミットから導き出される、退部した相棒への愛憎反転による執拗な嫌がらせという、極めて人間的で、筋の通った『動機』。

 すべての謎は解けた。犯人が見立ての最後に用意した情動までもが、僕の言葉によって完全に言語化されたのだ。

 旧校舎の屋上で、狂気的なシャドーピッチングの痕跡を見て涙を流しかけた僕だったが、今は違う。この無惨に破壊されたミットを見れば、そこに悲哀など存在せず、あるのは一方的な憎悪だけだと断言できる。

 僕の助手としての役割は、今ここで最高の形で果たされたはずだ。


 僕は、称賛の言葉を待つように、如月さんを真っ直ぐに見つめた。

 彼女は、しばらくの間、ただ無言のまま僕の顔をじっと見つめ返していた。

 その深いアメジストの瞳の奥で、僕の披露した推理に対する、何らかの冷徹な演算処理が行われているのが分かる。僕は、胸を高鳴らせながら、彼女の口から紡がれるであろう『肯定』の言葉を待っていた。


 しかし。

 彼女は、ゆっくりと、本当に心底呆れ果てたというように、小さく、だがひどく重い、冷ややかなため息を吐き出した。


「やはり、お主は愚鈍じゃな。サクタロウ」


「えっ……」


 予想外の、そして最も聞きたくなかった二文字の宣告に、僕は誇らしげに胸を張っていた姿勢を崩し、間抜けな声を漏らした。


「学園全体に敷かれた空間の幾何学を理解しておきながら、その先にある最も重要な質量の解読において、お主はまたしても、自らの凡庸な『感情』という名のノイズで、真実を泥に(まみ)れさせた」


 如月さんの声は、冬の夜の空気をさらに凍てつかせるような、絶対零度の冷徹さを帯びていた。


「嫌がらせじゃと? 復讐じゃと? サクタロウ。お主のその薄っぺらい感情論は、先ほど我々が屋上で辿ってきた彼の『ルーツ』と、致命的なまでに矛盾しておることに気づかぬか」


 彼女は、純白の手袋で自身の前髪を気高く払い除け、僕を射抜くように睨みつけた。


「よく思い出してみよ。もし、これが単なる裏切り者への憎悪と嫌がらせであるならば、なぜあの天才投手は、わざわざあの強風が吹き荒れる孤独なブルペンを構築し、己の指の皮が擦り切れ、ボールの赤い糸が塵となるまで、何万回も幻のボールを握りしめ続けておったのじゃ」


「……」


 僕は、その鋭い指摘に言葉を詰まらせた。


「憎い相手への嫌がらせのためだけに、己の魂を削り、肉体を傷つけてまでシャドーピッチングを繰り返す人間がおるか? 復讐とは、対象を破壊し、外へと向かうエネルギーじゃ。対して、彼が屋上で行っていたのは、ひたすらに己の内に向かい、出番のない準備を永遠に繰り返すという、極めて自己犠牲的で求道的な儀式じゃった。そんな非論理的でエネルギー効率の悪い復讐が、この世界に存在するとでも思っておるのか」


 如月さんの言葉が、僕の構築した安っぽいメロドラマのような推理を、冷酷な論理のハンマーで木端微塵に粉砕していく。


「お主は、目の前にある『串刺しにされている』というショッキングな視覚情報に感情を揺さぶられ、対象物の背後にある本来の『情動のベクトル』を完全に見失った。道具が壊されているから、悪意がある。串が刺さっているから、憎んでいる。それは、物事を表面的な事象でしか捉えられない、凡人特有の極めて浅はかな誤謬(ごびゅう)じゃ」


 僕の頬が、羞恥心でカッと熱くなるのが分かった。

 確かに、彼女の言う通りだ。

 もし犯人がキャッチャーを心底憎み、復讐のためだけにこの見立てを行ったのだとしたら、屋上であれほど切実な祈りのような痕跡を残すはずがない。僕は、目の前の凄惨な光景に引っ張られ、これまで一つ一つ積み上げてきた「彼」という人間の本質を、勝手に真逆のものへと書き換えてしまっていたのだ。


「これは、嫌がらせなどという低俗な暴力ではない。感情で事実を汚してはならぬ、サクタロウ。わしが今から、この無数の竹串が持つ『真の物理的質量』を、寸分の狂いもなく計測してやろう」


 如月瑠璃は、ブレザーのポケットへと純白の指先を滑らせた。

 この泥濘の特異点に刻まれた、真の狂気と哀しき祈りのルーツを解読するための、彼女の絶対的な武器——精緻な蔦の意匠が彫り込まれた、『銀のルーペ』を取り出すために。



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