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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『暗箱』 ~section3:垂直の深淵と、三つの銀色~

 体育館という閉鎖空間を定義する際、僕たちは無意識のうちに『床の面積』という二次元の数値だけでその広大さを測ろうとしてしまう。バスケットコートが何面確保できるか、全校生徒数千人が一堂に会して整列できるか、あるいは災害時の避難所としてどれほどの人間を収容できるか。平面の広がりこそが、人間の生活圏域における最も身近な尺度の基準だからだ。

 しかし、メイン電源が完全に遮断され、最新鋭のスマートインフラという名の『光の蓋』を失ったこの漆黒の暗箱において、真に僕たちの理性を圧倒し始めたのは、横の広がりなどではなく、頭上に広がる『垂直の容積』という名の目に見えない怪物だった。


 僕は震える指でスマートフォンの側面を握り直し、LEDライトの光をゆっくりと、しかし極めて慎重に左右へと振った。

 この最新式のデバイスが放つ光の矢は、カタログスペック上はかなりの光度と直進性を誇っているはずだが、この巨大な空間においては、まるで深い夜の海に投げ込まれた一筋の細い糸のように頼りない。光が届く範囲は、せいぜい前方十メートルから十五メートル程度にとどまっている。それより先は、光の粒子そのものが濃密な闇の壁に衝突し、物理的に飲み込まれてしまっているかのようだった。

 磨き上げられたリノリウムの床面を滑るように移動するその白い円環は、時折、文化祭のステージ設営用に運び込まれた巨大なスピーカーユニットの無機質な角や、蛇のように床をのたうつ黒い高圧ケーブルの太い束を、死骸のような無残な輪郭で浮かび上がらせる。


 僕は論理的な思考を研ぎ澄まし、この空間をグリッド状に分割してスキャンを始めた。

 もしもあの音楽室が『本塁』であるならば、残る一塁、二塁、三塁のベースは、この学園のどこかに配置されているはずだ。そして、文化祭の喧騒から隔絶され、人払いがなされ、かつ広大な面積を持つこの体育館は、巨大な『内野』を見立てるにはあまりにも都合が良い場所だった。犯人があの天才投手であるならば、必ずこの空間の幾何学的な特性を利用しているに違いない。


 ライトの光を、まずは右手側の壁面、つまりバスケットコートのAコート側へと向ける。

 光の円環が、床に引かれた緑や白の鮮やかなラインを次々と横切っていく。ラインの交差するポイント、フリースローサークルの中央、あるいはコートの四隅。僕はそこに、何らかの異物――たとえば音楽室にあったような、本来そこにあるはずのない日用品や、ベースを暗示するような四角い物体が置かれていることを予測していた。

 だが、何も無い。

 床面は、月見坂市のクリーンシステムと自律型清掃ロボット群によって、塵一つ落ちていない完璧な平滑さを保っている。帯電防止ワックスの冷たい光沢が、僕のライトを規則正しく反射するだけで、そこには犯人のルーツを示すような異常は微塵も存在しなかった。


 次に、僕は光の軸をステージ側、つまり体育館の最奥部へと滑らせた。

 普段ならば全校集会で校長が立つ巨大な木製の演台や、吹奏楽部のひな壇が組まれる場所だ。設営途中ということもあり、ステージの袖には明日のリハーサルを待つマイクスタンドが寒々と並び、フロアの隅には完璧な角度で積み上げられたパイプ椅子の山がある。僕はそれらの隙間、影が濃く落ちる死角を一つ一つ、執念深く照射していった。

 重厚な暗幕が引かれた窓枠の下、消灯したままのデジタルスコアボードの裏側、さらには体育用具室の頑丈な金属扉の前まで。

 どれほど目を凝らしても、光の角度を変えてみても、結果は同じだった。

 すべてが『あるべき場所』に、論理的な理由を持って配置されているものばかりだ。この空間は、異常なまでの静寂と暗闇に支配されているという事実を除けば、どこまでも教科書通りの、単なる『設営中の体育館』でしかなかった。


 僕の論理が、音を立てて行き詰まる。

 見立て殺人のような、あるいはそれに準ずる巨大なメッセージを残すのであれば、観測者である僕たちに『発見』されなければ意味がない。床のどこかに、あのバッテリーのような決定的な異物が鎮座していなければ、この巨大な暗箱に僕たちを誘導した意味すら失われてしまう。


「おかしい。どこにも、何もない」


 僕は無意識のうちに独り言を漏らしていた。自分の発した乾いた声が、体育館の四方に張り巡らされた分厚い吸音材と全遮光の暗幕に一瞬で吸い込まれ、波紋一つ残さずに消滅していく感覚。

 空間を水平に切り取る僕の二次元的なスキャンは、完全に空を切っていた。犯人が残したはずのルーツの欠片は、どこにも落ちていない。いや、落ちていないことが不自然なほどに、この場所の床面は徹底的に『清浄』すぎたのだ。


「サクタロウ。お主の視界は、二次元の平面に囚われすぎておる。アリのように地を這い、足元の小石ばかりを数えておっても、この『箱』が内包する真の意図は見えてはこぬぞ」


 如月さんの声が、背後からではなく、僕のすぐ隣、肩が触れ合いそうなほど近い場所から唐突に響いた。

 いつの間にか、彼女は僕の歩調に完璧に合わせるようにして、闇の中に音もなく佇んでいたのだ。暗闇に目が慣れてきたのか、あるいは彼女の纏う凛とした空気がそうさせるのか、僕には彼女の横顔のシルエットがはっきりと知覚できた。

 彼女の視線は、僕のライトが頼りなく照らしている床面には微塵も向けられていない。彼女の深い紫、アメジストの瞳は、光の届かないはずの遥か高みを見据えていた。それは重力という絶対的な鎖に逆らうような『虚空』を、まるでそこに明確な道筋が見えているかのように、静かに、そして鋭く貫いている。


「上、ですか」


 僕は彼女の言葉に込められた確信に導かれるようにして、スマートフォンのライトを握る手首をゆっくりと返し、光の軸を垂直方向へと持ち上げた。

 光の円環が、鏡のように滑らかな床を離れ、光を暴力的に吸収する壁面の暗幕を這い上がり、そして一切の反射を拒絶する漆黒の天井へと吸い込まれていく。

 

 その瞬間、僕は激しい目眩に似た感覚に襲われ、思わず足元をふらつかせた。

 

 如月学園の新校舎アリーナは、最新のドーム建築技術を駆使して設計されている。柱の一本もない大空間を支えるため、床から天井までのクリアランスは十五メートル、最も高い中央部分に至っては十八メートル以上の高さが確保されている。普段なら、そこには数百個のインテリジェントLEDパネルが整然と並び、昼間のような均一で健康的な明るさを提供しているため、僕たちがその『高さ』を暴力的なものとして意識することは決してない。明るい天井はただの『光源という機能』として、人間の空間認識の枠外へと切り離されているからだ。

 だが、今、その照明がすべて死に絶え、バックアップ電源さえ切り離された状態で見上げる巨大な天井は、もはや建築物の一部などではなかった。それは底の見えない、あるいは出口の存在しない、純粋で物理的な『深淵』そのものだった。

 

 十五メートルという距離は、水平に走ればわずか数秒で到達できる些細な距離だ。しかし、それが垂直方向の『落下』や『見上げ』に転じた途端、重力という絶対的な物理法則が人間の生存本能に強く介入してくる。その距離感は、目に見えない巨大な質量の塊となって、僕の全身に暴力的なまでの重圧を降らせてきた。

 自分が今、巨大な密閉されたサイロの底、あるいは水が干上がった広大な深井戸の底に立ち尽くしているかのような錯覚。

 僕が放つライトの光は、暗闇の密度に物理的に押し返され、まるで深い海の底から届かない水面を虚しく見上げるような、絶望的で頼りない輝きへと減衰していく。光の先端が、闇の中で霧散してしまうのだ。

 もし今、この手の中にあるスマートフォンのバッテリーが切れ、唯一の光源を失ってしまったら。僕は自分の立っている場所はおろか、上下の感覚さえも見失い、この無機質な闇の海に永久に溺れてしまうのではないか。そんな原始的な恐怖が背筋を駆け上がった。


 僕は乾いた喉で生唾を呑み込み、理性を総動員して恐怖をねじ伏せながら、ライトの軸を慎重に動かし続けた。

 水平方向の二次元グリッドから、垂直方向を交えた三次元空間の再構築へ。

 一定のリズムで光を走らせる。ナノフィルターで洗浄され尽くしたはずの空気でさえ、静電気を帯びた微小な埃がライトの光の中で雪のように舞い、それがさらに頭上の距離感を狂わせていく。

 

 やがて視界の端、闇の奥底に、巨大な構造物の輪郭が浮かび上がってきた。

 H鋼と呼ばれる極太の鋼鉄の梁。そして、それらを複雑な幾何学模様で繋ぎ合わせる鉄骨のトラス構造だ。最新の防錆塗装が施されたそれらの骨組みは、月の光さえ届かないこの絶対的な暗箱の中で、巨大な蜘蛛の巣のように、あるいは太古の巨大生物の肋骨のように、静かに、しかし威圧的に張り巡らされていた。

 さらにその下層。天井裏の各種配線の点検や、大型イベントにおける特殊照明の吊り込み作業のために設置された、格子状の金属通路。キャットウォークと呼ばれる高所作業用の足場の底面が、僕の振るライトの端を不気味に掠めた。

 床面からは見上げるしかないその無骨な工業的構造物は、スマートシティの洗練された表の顔とは真逆の、裏側の臓腑を見せつけられているような生々しさがあった。

 

 その時だった。

 

 スッ、と僕のライトの光が、鉄骨の隙間からキャットウォークの側面を横切った刹那。

 漆黒と無機質なグレーの濃淡だけに支配された死の世界の中で、場違いな『反射』が僕の網膜を鋭く刺した。

 

「っ。今、何か」


 僕は反射的に光を振る腕を止め、手首を固定してライトの焦点をその一点へと向けた。

 光の軸が微かに震える。心臓の激しい鼓動が、端末を強く握りしめる指先にまで直接伝わっているのが分かった。

 僕は意図的に呼吸を止め、スマートフォンのライトの出力を最大設定まで引き上げ、闇の奥から跳ね返ってきたその『光の正体』を見定めようと目を凝らした。

 

 地上十五メートルの高み。

 暗闇に浮かぶ巨大なキャットウォークの、その冷たい鉄骨の縁に、それはまるで最初からそこにあるべき部品であるかのように「居座って」いた。

 

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 

 スマートフォンのライトが放つ鋭い白色光を、鏡のように鮮烈に、そして僕たちを嘲笑うかのように跳ね返す、三つの『銀色の円盤』。

 

 それは、体育館の備え付けの音響機材でも、ましてや火災感知器や人感センサーのようなスマートインフラの安全装置でもない。この最新鋭の校舎、塵一つ許されない清潔で合理的な空間において、最も異質で、強烈な違和感を放つ『円形の何か』だった。

 

 直径はおよそ数十センチ。円盤の表面には、複雑な幾何学的模様が刻まれているように見える。中心から外側の縁に向かって放射状に伸びる、細く鋭利な銀色の意匠。それは、まるで三つの不吉な『銀の月』が、体育館の天井という人工の夜空に等間隔に昇ったかのような、あまりにも非日常的で、それでいて完成された狂気の美しさを持つ光景だった。

 

 なぜ、あんな場所に『銀の円盤』がある。

 

 その疑問が僕の脳内を激しく駆け巡り、正常な思考回路をショートさせようとする。

 それらは、重力に対して完璧なまでの水平を保ちながら、キャットウォークの金属の縁に、まるであらかじめボルトで固定されるために設計されたかのように、不気味なほどの安定感で設置されている。

 僕はライトの角度を僅かに変え、円盤の裏側に落ちる影の形や、金属的な光の屈折を慎重に確認した。

 三つの銀色の円盤は、キャットウォークの手すりから数センチだけ空中に突き出すように配置されており、その銀色に輝く表面は、体育館の床面――つまり、今僕たちが立ち尽くしているこの内野のど真ん中を、正確に、そして極めて冷徹に見下ろしている。

 

 十五メートルの垂直の深淵。その頂点に等間隔で並べられた、三つの異物。

 僕が探していた一塁、二塁、三塁のベースは、平面の床ではなく、この巨大な容積の『天井』に、見下ろすようにして配置されていたのだった。



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