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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『暗箱』 ~section2:剥き出しの静寂と、失われたスマートインフラ~

 その扉は、僕が想像していたよりも遥かに重く、そして冷徹だった。

 如月学園の新校舎アリーナ――通称『体育館』の入り口に設置された、巨大な防音扉。それは単なる木材や鋼鉄の板を組み合わせたものではない。月見坂市の高度な音響工学が導き出した、遮音性能『Rw-65』を超える、異様なまでの重厚さを備えた物理的障壁だ。

 如月さんがその冷たいステンレス製の取っ手に手をかけ、僅かに重心を傾ける。僕も慌ててその隣に並び、二人分の体重を込めて、その『日常と非日常の境界』を押し開いた。


 ズズッ、という鈍い地鳴りのような低周波の振動が、手のひらを伝って肩の骨まで響く。扉が数センチの隙間を作った瞬間、そこから漏れ出してきたのは、光ではなく、濃密に圧縮された『人工的な静寂』を孕んだ空気の塊だった。その空気の圧力は、新校舎の明るい廊下とは明らかに異なる『質量』を持っており、僕の鼓膜を僅かに内側へ押し込んだ。


 扉が開くにつれ、まず僕の鼻腔を真っ向から突いたのは、刺すような、しかしどこか潔癖すぎるワックスの匂いだった。

 文化祭のステージ設営を前に、学園の自律型清掃ロボット群が、最新のナノコーティング剤を用いて磨き上げたリノリウムの床面。そこに塗布されたばかりの、最高級の帯電防止剤とポリウレタン溶剤を含んだ化学的な芳香が、閉ざされた空間の中で逃げ場を失い、飽和状態となって僕たちを迎え入れた。それは清潔であると同時に、生命の体温や呼吸の痕跡を一切拒絶するような、巨大な精密機器の内部を思わせる鋭さを持っていた。


 だが、その鋭い匂いの層を突き抜けると、もっと重く、この巨大な容積特有の『無機質な沈殿』が顔を出す。

 それは、最新の合成ゴムと高密度プラスチックが放つ、特有の乾いた匂いだ。月見坂市のクリーンシステムによって洗浄され尽くしたはずの空気の中に、設営のために運び込まれたばかりの新品の暗幕が放つ、防炎加工剤の僅かに苦い化学臭。そして、普段は床下に収納されている、数千人を収容可能な電動可動席の金属フレームが放つ、微かな潤滑油の重みが、湿り気を含んで鼻の奥をくすぐる。

 ここには、古い学校にあるような『染み付いた汗』や『埃っぽさ』といった人間の生活臭など微塵も存在しない。あるのは、管理され、統制され、完璧なまでに除菌された、空虚なまでの『物質の気配』だけだ。そのあまりの潔癖さが、かえって僕に、巨大な棺桶の内側に迷い込んでしまったような、生物的な本能に根ざした居心地の悪さを感じさせた。


 一歩、中へ踏み出す。

 扉が背後で重く閉まった瞬間、僕たちは外界からの『完全な断絶』を経験した。

 

「……暗い。というより、何も見えません。如月さん、足元が……」


 僕は思わず自分の声を疑った。

 普段なら、この如月学園のスマートインフラ――通称『アイリス・システム』は、僕たちの立ち入りをミリ秒単位の速さで感知し、天井に配置された数千個のインテリジェントLEDを点灯させるはずなのだ。それも、ただ点けるのではない。個人の歩行速度や体温から最適な照度を予測し、進行方向を常に『親切な光』で包み込む。それが、僕たちが享受してきた最新鋭の文明の『恩恵』だった。

 しかし、今のこの空間には、その恩恵の欠片も存在しない。

 大規模なステージ設営に伴う、特設配線工事。その安全を確保するために、体育館全体のメイン電源系統が物理的に遮断されているという事実は、事前に配布された実施要綱にも記載されていた。だが、これほどまでに『スマート』という皮を剥がれた現代建築が、原始的な暗黒にこれほど無防備に屈服するものだとは、想像もしていなかった。


 天井を見上げても、いつもなら微かに明滅しているはずの監視センサーの赤いランプすら消灯している。非常階段を示すはずの誘導灯さえ、プロジェクションマッピングの調整のために不透明な養生テープで目隠しされているのか、その輪郭すら見えない。

 ここにあるのは、月見坂市が標榜するデジタル管理社会の『一時的な死』であり、あるいは『休息』だった。

 インフラという名の神を失った体育館は、ただの巨大な、空っぽの鉄とコンクリートの空洞へと成り下がっていた。


 僕は震える指でスマートフォンの画面を操作した。コントロールパネルを引き出し、LEDライトのアイコンをタップする。

 パッ、と小さな、しかし暗黒を切り裂くにはあまりにも頼りない光の矢が、目前の虚空を射抜いた。

 その光が捉えたのは、鏡のように滑らかに磨き上げられ、何もかもを反射する床の表面と、その先に整然と並べられた、反射材付きの工事用コーンだけだった。僕が発した光は、床面で鋭く跳ね返り、天井の闇を照らし出すことなく虚しく消えていった。


「如月さん、足元……気をつけてください。ステージ用の太い電源ケーブルとか、まだ固定されていない機材が転がってるかもしれないので」


 僕が背後の如月さんに注意を促すと、彼女はライトも持たず、まるで見えない夜目を持っているかのように、悠然とした足取りで僕の横を通り抜けていった。彼女の纏う制服のシルエットが、僕のライトの光を遮り、巨大で鋭利な影となって前方の闇に伸びる。その足音は、硬質な床面に対して不自然なほど短く、そして硬質だった。


「サクタロウ。お主のその光は、暗闇を照らしておるのではない。ただ、自分が『何も見ていない』という事実を際立たせておるだけじゃな。光の当たっておる狭い円環の外側を、よく意識するのじゃ。そこには、お主の論理が及びもせん広大な『不在』が広がっておる」


 如月さんの声は、いつも以上に透き通って、そして無機質に響いた。

 驚いたのは、その『音』の響き方、あるいは『響かなさ』だ。

 音楽室。あの場所は、楽器の共鳴を最大限に引き出し、聴衆に情動を届けるために設計された、いわば『音の増幅器』だった。僕の些細な吐息や、服が擦れる音でさえも、壁面で反射し、重層的な倍音となって耳に戻ってきた。

 だが、この体育館は決定的に違う。


 僕が発した『気をつけてください』という言葉は、本来ならこの広大な空間で幾重にも反響し、数秒の間、エコーとなって残響が尾を引くはずのものだ。

 しかし、その言葉は発せられた瞬間に、周囲を取り囲む『闇』によって物理的に捕食された。

 壁一面に隙間なく引き詰められた、あの重厚な全遮光暗幕。光を遮るために用意されたあの分厚い特殊繊維は、同時に、音の振動を完全に吸収し、減衰させる『吸音材』としても、暴力的なまでの性能を発揮していた。

 

 自分の足音さえも、床に触れた瞬間に短く、冷徹に断ち切られる。周囲の空気が、重いベルベットの布で作られた巨大な袋の中に閉じ込められているかのように錯覚する。

 広大で、空虚で、それでいて逃げ場のないような、密度の高い静寂。

 それは、ここが『音を出すための場所』から、すべての痕跡を抹消するための『音を殺す箱』へと変貌していることを示していた。

 

 僕は自分のライトをゆっくりと左右に振った。光の円環が移動するたびに、巨大な壁面や、完璧な角度で折り畳まれたままの収納式観覧席、そして無人のステージの縁が、断片的に浮かび上がっては再び底知れない暗黒の海へと沈んでいく。

 体育館という建物の、横の広がり。バスケットコートが二面、バレーボールコートなら三面を同時に展開してもまだ余りあるその広大な面積が、目に見えない圧力となって僕の肌を叩いた。


(……落ち着け。ここはただの体育館だ。メイン電源が落ちているだけで、何かが変わったわけじゃない。物理法則は、ここでも変わらず機能しているはずだ)


 僕は自分に言い聞かせ、乱れそうになる呼吸を整えた。

 如月学園というスマートシティの一部でありながら、今この瞬間だけ、ここは『管理の外側』になっている。AIによる常時監視も、最適化された快適さも、均一な光も届かない、剥き出しの空間。

 そのことに気づいた瞬間、僕の足首にまとわりつくワックスと合成樹脂の匂いが、まるで死臭のように冷ややかに感じられた。

 

 僕はスマートフォンのライトを握り直し、光の矢を少しだけ遠く、そして高くへ向けた。

 光の届かない闇の奥底からは、相変わらず無機質なワックスの匂いが、潮風のように絶え間なく押し寄せてくる。

 如月さんは、僕の少し先で、完璧な姿勢のまま立ち止まっていた。彼女は闇の中で何を視ているのか。

 

「……如月さん。ここは、広すぎます。何も、何もないはずなのに……重力そのものが強くなったような、妙な圧迫感があります」


「そうじゃな。空間の広がりとは、可能性の広がりでもある。そして、それをどう定義するかは、そこに何を『置く』かにかかっておる。サクタロウ、お主、先ほど廊下で言っておったな。音楽室が本塁なら、次はどうなると」


「ええ……。一塁や二塁が、この学園のどこかにあるんじゃないかって……」


「ならば、お主のその頼りない光を、もっと正しく使うが良い。下ばかりを見ておるから、真実の質量に気づかぬのじゃ。この広大な暗箱の中で、犯人が最も『使い勝手の良い』場所はどこか、そして死角とはどこに生まれるのかを、考えてみるのじゃ」


 彼女の冷徹な指摘に従い、僕はライトの軸を、ゆっくりと、しかし確実に振り上げた。

 床ではない。壁でもない。

 僕は、自分の想像力が今まで一度も及んでいなかった『方向』――地上十五メートル、光さえも届かない梁の彼方へと、光の軸を向けることになった。

 それが、僕たちの理性を根底から揺さぶる、あの『垂直の深淵』への入り口だとは、その時の僕にはまだ分からなかった。



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