その1
◆結婚するのが嫌で、主人公の乳母になったアニ・ヴィーゼルの話
私が胸をはだけて、おっぱいを吸わせようとすると、
「わ、わたち、あかちゃんじゃないからおっぱいなんていらないの!」
わたしの目の前にいる、可愛らしい森族の赤ちゃんは驚愕したようにそう叫んだ。
つまり、その赤ちゃんのために雇われた乳母であるわたしは今、失職の危機にあった。
◆
わたしの名前はアニ、正式にはヴィーゼル領主副子爵令嬢アニということになる。ヴィーゼル副子爵家の長女である。
わたしの家であるヴィーゼル副子爵領は、かつてイケベ大公爵家が副帝位にあって、広大な領地を持っておられた頃から、その領地のほぼ中心部に、大海に浮かぶ小島の様にしてあった。
どのくらい中心かというと、要するにイケベ大公爵家の本拠のお屋敷周辺に、へばりつくようにして存在する村のうち三つが我が家の領地なのだ。
こんなふうに、ヴィーゼル副子爵家の領地がイケベ大公爵家の領地の真ん中にあるのはヴィーゼル副子爵家自体がイケベ大公爵家の家臣であるからなのだった。両家のつながりはとても深い。
だから、イケベ大公爵家の幼い新当主様に乳母が必要だという話は、わたしのところにも洩れ聞こえてきたのだった。
貴族の乳母といっても普通はその辺の、経産婦で乳の出が良い、農家の奥さんあたりがなるものである。でも、その昔、例えばわたしの祖母が若かったくらいの時代には、とてもやんごとないお家の場合、貴族の女性を乳母にすることもあったそうだ。イケベ大公爵家といえば皇帝家に次ぐ家柄といっていいから十分にやんごとない。
それで、まあ一応は貴族である副子爵家令嬢のわたしが乳母になっても、少し古風な感じにはなるけれども、一応は条件には当てはまる。まあ、経産婦でなくて未婚の女性が乳母になるのは、まるで乳母仕事の出稼ぎのようでかなり変だけれど。
それで、わたしは村中をまわって、交代でおっぱいに赤ちゃんを吸い付かせてお乳を出した。この方法だとお乳が出るまでに普通、二、三週間はかかるらしいけれど、私は一週間でお乳を出した。気合である。そうしてイケベ大公爵家の乳母としてめでたく雇われたのだ。
なんでそこまでしたかというと、結婚したくなかったからだ。
わたしは今二十二歳で、わりと嫁き遅れになりつつある。なぜそうなったかというと舞い込んでくる縁談話を片端から蹴飛ばしてきたからだ。
そして、そのことに父と、特に母は危機感を持っている。皇帝陛下の治める帝都では三十を過ぎて独身の女性もたくさんいると言っても、それは都会の話よ、とか何とか言うばかりで聞く耳を持ってくれない。
うちに出入りしている商人で、スケイロという人がいる。わたしより五つ上で、彼の父の代から、我が家のために色々と便宜を図ってくれた、かなり大きな商家の人で、お金もいっぱい持っている。
それで、そのスケイロさんがどうも最近、私を狙っているようなのだ。たまに会う機会があると、何だか熱い視線が刺さったり、時たま贈り物が届いたりもする。まだ、直接に交際や結婚の申し入れがあるわけではない、たまに手紙もくるけれど、愛の告白が書いてあるわけでなく、つれづれなるままにペンを走らせたような、それでいて思わせぶりなような、意味が判然としない内容で、多分、心理的な距離を測ろうとしているのではないかなあと思ったりもする。でも何となく外堀が埋まりつつあるような感じがある。
我が家はわたしを筆頭に弟や妹が十二人もいて、だから我が家は貧乏と言うわけではないけれど、あまりお金があるわけでもない。
下級とはいえ貴族の娘なんて、あんまりみっともない格好もできないからお金がかかるものである。それで子沢山の両親としては、上から順に早くいい縁談を見つけて片付いてほしいというのが本音で、だから、ものすごく学問ができるわけでもなく、なにか商売の才覚があるわけでもなく、晶術が非常にできるわけでもなく、単なる下級貧乏貴族令嬢でしかないわたしは、このまま曖昧に家の手伝いなどして実家に居座るには肩身が狭くなりつつもあり、というところだった。
スケイロさんは昔から知っている人で、スケイロさんのお父さんが家に商談に来るときなんかに一緒についてきて、その度ごとに遊んでもらったこともあるくらいで、人物も確かで、まあ普通のいい人のように思えるし、顔だってそこそこ良いし、ちょっとお腹が出っ張っているけれど、まあ許容範囲だ。それに向こうがわたしを望んでくれているらしいことも分かっている。両親は、わたしがスケイロさんと結婚することになるんだったら、家だって近所だし、大賛成だろうと思う。とてもいい縁談ではある。どっかの貴族の変な坊ちゃんのところに嫁ぐのなんかと比べたらよく知っているし気楽だし最高の縁談といってもいいかもしれない。
母は、スケイロちゃんはすっかり立派になったわねえ。昔からいい子だったし、あなたとも何度も遊んでくれたから、あなたは懐いてたわよねえ、みたいな物言いでさりげなくアピールしてくる。決して直接的なことは言わない。
わたしが何度も縁談を蹴ってきたので様子を見ているんだろうと思う。
そんななかで、スケイロさんが家の応接間で父と和やかに談笑していたりすると、なにやら生々しい現実が本当に目の前に迫っているようで、蜘蛛の巣に絡めとられる蝶々というか、逃げ場がないというか、そこはかとなく息苦しいという気がするのだった。
わたしはまだ結婚したくないのだ。わたしなんぞ単なる田舎娘で、近所の少し大きな町に行く以外は、領地の村から出たことだって数えるほどしかない。もちろんほとんどの人はそんなもんだと分かっているけれど、でもわたしは近所のスケイロさんをお婿さんにもらってこのまんま結婚して、領地を嗣いで、子供こさえて、年取って……とそういう未来は、そりゃ暗くはない結構な未来かもしれないけれど、それは嫌なのだ。
なんでそう思うようになったかというと、少し話が跳ぶけれども、私が十五歳くらいのころのことだ。
◆
父の身内にお祝い事があって、帝都に出かけることがあった。
そのころ母は身重で、旅行できるような状態ではなかったので、父が一人で出かけてもよかったのだけれど、私が父と一緒に出かけることになった。
私が同行することに特に深い理由はなくて、父は、単に旅行の道連れがいないのも寂しいとか、パーティーの時に誰も相手がいなくて腕が空いているのも何だから、娘でもぶら下げていようとか、娘に見聞を広めさせるのも悪くないとか、そんな程度の考えをしていたように思う。
まあ、道中いろいろあったけれども、端折って言うと、わたしは帝都に旅行して、感動してしまったのだった。もう目に映るものすべてが凄かった。
わたしたちは馬車を使って、陸路で帝都に入った。
馬曳きの運河舟の通る運河沿いに敷かれた運河道を通って帝都に向かったのだけれども、帝都からまだ遠いうちは、単に平らに均しただけの道だったのが、帝都に近づくにつれて徐々に道の舗装がしっかりしたものになってきて、帝国道路に入ると、道の両側には旅行客相手の露店、宿場がならんで、荷馬車や旅行用の個人馬車や乗合馬車、巡視の軽騎兵、走竜兵、上空を巡回する飛竜兵、物売り、店の呼び込みなどで道がごった返していた。
この時点でもうわたしがそれまでの人生で見たことがある人の全員よりも何倍も多くの人間がいて、帝都そのものに入る前から圧倒されてしまった。
さらに近づくと道路が数本にも分岐していて、何だろうと思っていると、その先には関所があったのである。関所なんていうものも勿論はじめての体験で、その関所が用途別に十数個にも分かれているというから驚いてしまった。
まあ、わたしたちは単なる旅客で、貨物馬車ではないから、関所は旅券を見せるくらいで割と簡単にすんで、帝都の門をくぐった。門といっても帝都の新市街の外側には市壁が無いので、扉も何もない、単にアーチ状の巨大な構造物があるだけだった。
馬車の窓から頭だけ出して、きょろきょろ眺めながら、壁がないのに門だけあるなんて、なんかあんまり意味無いような……と思ったのも束の間、そのアーチをくぐった瞬間に空気が変わった。
馬の蹄の蹄鉄が石畳を打つ音、馬車の車輪が転がる振動、人々の話し声、足音、呼び込み、人いきれ、人間以外にも蜥蜴族、獣人の変化したものらしい大きな動物、犬人族、土鬼族などがたくさんいて、それにめったにお目にかかることのない森族までがちらほらいる。馬や駱駝や象や走竜の獣臭と鳴き声、鮮やかな彩布で庇を掛けた露店が道の両側にぎっしり並ぶ。籠に入れて売られている鳥や小さな猿や虫の鳴き声、積んである香辛料や果物の匂い、あまり質の良くなさそうな金銀や宝石で輝く、いかにも露店売りの装身具、布や絨毯、小さな台の上に立って演説をする人、楽器をかき鳴らす人、大道芸人、浴場らしい大きな建物から漂ってくる湯気の匂い。様々な屋台の食べ物、お茶、乳、お酒の匂い。
そういうものが幾重にも幾重にも重なって重なって撹拌されて撹拌されて――――
何かに酔ったみたいに思わず、ふーっ、と気が遠くなって、慌てて馬車のなかに引っ込んでから座席に倒れこんだ。しばらく目を閉じてから、開けると向かいの席の父が、にやにやしながら私を眺めていた。
「凄いもんだろう」
「うん」
凄い、確かに凄い。帝都というにふさわしい熱気と活気だった。というか人間っていう生き物は、あんなに大勢いたんだと思って父にそう言ったら、皇帝陛下の治める帝都にはおよそ六百五十万人もの人間が住んでいて、帝都の周囲にある衛星都市も含めると人口は一千三百万人を超えて世界最大の都市圏だと教えてもらった。
一千三百万、一千三百万っていうと、うちの村の……大体四万個分くらい、と計算してもやっぱり桁が大きすぎてあんまりよく分からなかった。
なんだか、呆然として、気分が悪くなったから、馬車の窓を閉め切って、座席でしばらくおとなしくしていると、馬車がしばらく走って、傾斜を上るような感触がしばらくあって、それから徐々に馬車の外が静かになってきた。
もう大丈夫かなと思って馬車の窓から外をもう一度覗くと、新鮮で、さわやかな空気が胸に流れ込んできた。
馬車はきれいな石畳で舗装されたとても大きな道を走っているところで、道の両側には見上げるほどの大きな樹々がずらりとならんで、道の上空を覆ってアーチをかけるようにして植わっていて、その根元には色とりどりの花が咲いていた。
道の両側には大きな邸宅が並んでいて、馬車が方向転換したかと思うと、その一つに入っていった。つまりそれが旅の目的である親族の屋敷だったわけである。
それで、荷物を解いて、その日の晩に無事にパーティーも済んで、部屋に引っ込んで父と話をしていると、来客があって男の人が三人ほど父を訪ねてきた。その方たちは父の旧知の友人らしくて、父と親しげに再開の挨拶をして、私も型通りの挨拶を済ませると、父はその方たちと話をしに階下のサロンへ下りて行った。
一時間ほど経ってから父は部屋に戻ってきて、言いにくそうに話を切り出した。その話というのは、予定では父が私に帝都観光の案内をしてくれることになっていたけれど久しぶりに旧知の友人と会って、一緒に遊ぶ約束をしてしまったということだった。
それで観光とかで私の面倒を見てくれる人をつけてあげるから、それで勘弁してくれないだろうかと父は言ったのだった。
なんで男の人ってこんなんなのか、一緒に旅行に来ておいて、友達と遊ぶ予定が入ったからって娘を放り出すなんて一体どういう料簡なのか。嫌味のひとつでも言ってやろうかとおもったけれど、私の世話をしてくれる人っていうのは私より四つくらい上の遠縁の女の人で、若い女の子どうしのほうがお前も楽しいかもしれんじゃないかと父がいったので、まあ父と遊ぶよりは、若い女の人に案内してもらう方が、仲良くなれたらお喋りも弾んだりして楽しいかもしれん、と思い直して父の言うとおりにしたのだった。
まあ結果的には確かにそうだった。わたしの人生を変えてしまうくらい楽しかった。
次の日の朝、私が朝食をとる少し前くらいの時間帯に案内役の彼女はやってきた。
そのひとの名はリュールと言った。
彼女は鳶色の髪と金緑色の瞳の持ち主で、私より四つ上ということだけれど、動作も服装もどこか少女めいていて、せいぜい私より一つか二つ上にしか見えないのだった。
彼女は、楽しそうに、軽い足取りで食堂に入ってくると
「おはようございまーす」
と明るく挨拶をした。
「おい、まだ出かけるのには早いぞ」
この家の主人がそう返した。
「そりゃあ、朝ご飯にありつこうと思って早めに来たに決まってるじゃない」
「まあ、そりゃあ構わんが……この子が今日、貴女を案内することになっている娘のリュールだ」
紹介してくれて、私が椅子から立ち上がる間に、リュールさんはするするとこちらに近づいてきて、物馴れた感じで軽く抱擁して、けれど無邪気に、にっこりとほほ笑んでくれた。
見知らない土地で、見知らない人に囲まれて、自分でも知らないうちに緊張していたところに、彼女は気遣うように、人の良い好意を向けてくれたわけだ。そしてそれは多分、彼女がいい人だからだということが何となく私には分かったのだった。
彼女は白い、すとんとしたワンピースを着ていた。丈が膝の少し下までしかなくて、ふくらはぎが見えてしまっているようなワンピースだった。
コルセットはしていないみたいで、あんまりすっきりした服だから、一瞬、寝間着か下着かと思ってしまったが、でも見るとちゃんと立体で裁断してあるドレスで、生地は光沢があって金糸と銀糸で細かい刺繍が入っていた。コルセットがないから、締め付けられてない感じでとっても軽くて楽そうだった。
髪だって私のみたいにきっちり結い上げるのではなくて、鳶色の髪を子供みたいに肩までくらいで短めに切って流しているけれども、髪が重そうな感じが全くなくて……多分これは中の方で髪をすいているのだと思う。帽子もかぶっていない。
足もとも革靴ではなくて、蔦と花の模様を革紐で編んだサンダルのようなものを履いていた。
アクセサリーはごく細い金鎖を右足にアンクレットにして、同じような鎖をネックレスにもしていて、ネックレスには宝石の代わりに綺麗な模様の入った白い石が下がっていた。
ひるがえって私はどんな格好をしていたかというと、汚れが目立たない旅行用ということで茶色い厚手のドレスをかぶり、幅広の革帯で締めて、帯の前を皮の組み紐でとめて、汚れ除けと色付けを兼ねて、房べりの付いた群青色の大きいショールをかぶっていた。長い髪はきっちり結い上げていて、靴は短めのブーツで、アクセサリーは母から借りたネックレスとでっかい宝石の入ったブローチを着けている。
私が旅行だからと母に借りた服と、宝石でがっちり固めて、全体的に背伸び気味になっているのにくらべて、彼女は結ってない髪といい、簡単なドレスといい、ちょっと子供風にしているけれど、それがまあ彼女の自然な可愛らしさになっている感じだった。彼女と私を並べてみれば、服装のせいもあって彼女より私のほうが年上に見えたかもしれない。
装飾品ひとつとってみても、彼女がネックレスに宝石を付けるかわりに、高価ではないだろうけれど、白いきれいな石を磨いて付けてあるのと、私が母から借りた(何かあった時のために路銀に換えるためだとしても)馬鹿でかい宝石のブローチを比べると、彼女のは手軽で自由な感じがするのに、私のは、いかにも田舎者の趣味の悪さみたいな感じで、私が旅装で、彼女は普段着であるということを差し引いても、やっぱり彼女のほうが気軽で、洗練されていて、綺麗な恰好をしていて、私は彼女を見て、都会というのはお洒落なところであって、私は田舎者なんだなということが、私が今まで見たことが無いような恰好をした彼女を見た瞬間にはっきり分かってしまったのだった。
私は朝食をとりながらリュールさんとお喋りをして、まあまあ仲良くなって、それから一休みしてから帝都の観光に出かけた。一頭引きの小さな馬車と御者の人を貸してもらって、私が恐縮していると、
「帝都の観光するのに、歩いてなんかまわれるもんですか。めちゃくちゃ広いのよ。まあ、アニちゃんのお父さんがアニちゃんをほっぽりだしたのが悪いんだから、遠慮しなくていいの」
リュールさんはそう言って笑った。
リュールさんとした帝都観光はとっても楽しかった。
リュールさんが「アニちゃんのお父さんから軍資金はたっぷり貰ってるから、いろいろお買いものとかしちゃいましょう」と言ったので、まず買い物をしてみることにした。
帝都は人もたくさんいるけれど、お店や物もたくさんあって、とっても華やかだった。まず雑貨屋に入ったけれど、雑貨屋だって村にあるような、実用本位のやつではなくて、むしろ実用的でないものが多い、とにかくきれいで可愛いものしかないようなお店だった。何を買っていいか分からないくらいだったけれど、とりあえず綺麗な青の色ガラスのコップを二つ買った。
それから、リュールさんに「ほかにも何かほしいものある?」といわれて、リュールさんみたいなお洒落な恰好がしたいです、と言うのはちょっと恥ずかしくて、リュールさんをじっと見つめてしまっていたら「ん?なに、そんなに見つめられたらテレちゃうなー」と言われてまた抱きしめられてしまった。
リュールさんの腕の中で、リュールさんはとっても綺麗でいい匂いがしてうんぬんと、赤くなりながらぼそぼそいうと、ああ、じゃあ服屋に行きましょう。とリュールさんは言った。
でも、私は帝都には一週間しかいないから、と言うと
「え、……あ、そうか、大丈夫、服屋って言っても仕立てだけじゃなくて、既製服っていって完成品がたくさん売ってるのよ。だから行ってすぐその場で買えるわ。もちろん古着じゃないのよ。まあ行けばわかるって」と言った。
服屋は通りに面した大きな板硝子の窓がたくさんある、とても明るいつくりの建物で、お洒落な調度品や植栽の間に、ものすごくたくさんの服が吊るされていた。まあ、仕立てじゃないんだったら、このくらい種類がないと、好みにあうデザインのものが見つからないなと思った。
でも体の大きさがうまく合わないんじゃないかしらと聞くと、全く同じ服で大きさ違いのものが、幾つもあるというから驚いてしまった。職人をたくさん集めて、服を工程別に分けて、一気にたくさん仕上げてしまうらしい。
だから、値段はびっくりするほど安かったけれど、服の作りとしては仕立ての物と比べて簡単な感じがした。でも帝都の空気の中でいると、それが貧相というよりはむしろ、すっきりして趣味がよく見える。でも試着して姿見に映してみると、仕立ての服にくらべてちょっとシルエットが甘くなっているのは否めなかった。
いろいろと欲しかったけれど、田舎で着ると少し周りから浮いてしまうので、レースの入った白いワンピースを一枚だけ買って、部屋着にすることにした。あとこれから生まれてくる予定の弟だか妹だかのために産着も数枚買った。
それから、リュールさんは、私が、いい匂いがしてどうとか言ったのをしっかり覚えていて、香水屋に連れて行ってくれた。香水は私にはまだ早いかなと思ったけれど、リュールさんの匂いのやつがほしくなって、小瓶で一本買って、それと母のお土産も買った。
あと、弟や妹たちのためにお菓子や髪飾り、短剣、おもちゃ、村へばらまき用の土産として、珍しい意匠の柄の布、レース、村には無いような上品なお酒、お菓子なんかを買い込んだ。
あんまり沢山買い込み、もう持てないほどになってしまったので、リュールさんが、荷物を馬車に載せて御者の人に言って、屋敷のほうに帰してしまった。知らない人がいっぱいいる中で女だけになってしまったので、私はちょっと不安に思っていたけれど、リュールさんは気にした様子もなく、お昼を食べに行きましょうと言った。
食べに行ったお店は、またしても夢のようにきれいなお店で、外に食べに行くなんて、お祭りのときに、村の宿屋兼酒場に父に連れて行ってもらったことくらいしかない私としては、まごつくばかりだった。
品書きを見て、よく分からないものが多かったのでリュールさんに助けてもらいながら注文して、出てきたお料理は素晴らしく美味しかった。うちの村の酒場の親父さんが適当につくるメシとは全然別物だった。最後に出てきたケーキも見るからに綺麗で繊細な味がした。
お料理が美味しかったので気分がほぐれてきて、珈琲を飲みながら、きょろきょろと周りのテーブルを見回すと私たちみたいに女の二人連れが結構多かった。リュールさんに聞いてみると、「ああ、帝都はすっごく治安もいいし、女の独り暮らしも多いのよ。わたしだって独りで暮らしてるのよ」と言われた。
そう言われれば、リュールさんは今回の旅行で用事があっていった先の娘さんなのに、今朝は家の外からやってきたのを思い出した。私の村でも独りで暮らしている女の人はいないではないけれど、それは夫に先立たれた未亡人とか、親を亡くした娘さんとかで、未婚の娘が、出稼ぎならともかく、親が近くで生きているのに家を出て独り暮らしというのは聞いたことがなかった。
私が驚いた顔をしているとリュールさんは、笑ってじゃあ私の部屋に招待しましょうと言ってくれた。
「午後からの予定の前にちょっと食休みしないとね。もともと食事がすんだら私の部屋で休憩いれる予定にしてたのよ」
そう言って連れて行ってくれた先は、窓が幾つも縦横に並んだ、切石造りのとても高い建物だった。なんと七階建てらしい。
そんな大きな建物が周囲に幾つも建っていて、すこし圧迫感があったけれども、建物のすぐ脇に七階建ての建物よりまだ高い、とても大きな木の生えた小さな公園が幾つも配置されていて、その圧迫感をやわらげていた。
『公園』と言う言葉は本で読んで知ってはいたけれど、田舎に住んでいると、どうもその存在意義がよくわからなかったのが、この時にやっと理解できた。
やっぱり田舎にだけ住んでいると分からないことは多いものだ。
「ちなみに私の部屋は六階で、七階は共用の倉庫になってるの」
村で一番高い建物は私の家で、それでも三階建てだから倍以上になる。六階なんていったら階段がしんどいだろうと思いながら、門番の人に挨拶をして階段を上っていくリュールさんの後を追って登っていく。やっぱりしんどかった。
「こういう建物は上にいけばいくほど家賃も安いし、それに眺めもいいのよ。……ここよ、上がって」
リュールさんがそう言いながら、ドアを開けて部屋に入っていく後ろについて部屋に入れてもらった。ドアの上の部分に「605号」と黒字で掘り込んだ金色のプレートが打ち付けてあった。
部屋に入って、物珍しさで部屋の中をきょろきょろ見回すと、正面にちゃんと硝子の入ったとても大きな窓があって、そこから光がたっぷりと差し込んでいるのがまず目についた。窓から外を見たと同時に、そういえばここが六階なのを思い出して、そんな高いところに上がった経験はなかったから、どんな眺めが見られるんだろうと思って、人の部屋なのに、思わず我を忘れて窓のほうに突進した。
我ながらもどかしい手つきで窓を開けると、そこからとても新鮮な気持ちのいい空気が流れ込んできて、まず深呼吸をしてから周りを見回すと、この部屋と同じような、家がたくさん集まった大きな建物、普通の家、お店それから公園なんかが下のほうに見えて、窓の左手のほうには、この部屋が入っている建物よりもまだ高い樹が大きな枝を差し掛けてくれていて、心地よい日陰を作ってくれていた。窓の前についている鉄製の手摺には綺麗な花の植木鉢が引っ掛けてあるし、何もかも完璧だった。
わたしがもう心の底から感動していると、
「気に入った?」
とリュールさんが聞いてきた。
人の部屋だってことを忘れてすっかり夢中になっていたのに気付いて、顔を赤くしながら、はい、と答えると、
「そーでしょう。この部屋気に入ってるのよ」
とリュールさんは嬉しそうに言った。
それからリュールさんの家で珈琲を御馳走になって、窓の外を眺めながらおしゃべりをした。
それから、リュールさんが、次の予定まで少し時間があるから休憩なさい、と言ってわたしを隣の寝室に連れて行ってくれた。
寝室は最初に入って珈琲を頂いた部屋の左手側、つまり建物の前に植わってある樹の側にあるので、いい感じで日差しが遮られて涼しかった。
ブーツを脱いで足を開放して、ドレスを脱いでコルセットを外して、開放感に身をゆだねていると、リュールさんがお湯を持ってきてくれて、足を拭いてくれた。誰かに足を拭いてもらうなんて子供の頃以来でちょっと恥ずかしかった。
リュールさんはわたしに毛布を掛けてくれて、次の鐘が鳴ったら起こすからね、と言って部屋を出て行った。
わたしはとても興奮していたので眠れないかと思っていたけど、案外疲れていたみたいで、すぐに眠ってしまった。
二時間ほど経ってリュールさんが起こしてくれて、リュールさんに手伝ってもらいながらコルセットをつけて、ドレスをかぶって身支度を整えてから外に出た。
「今からはお芝居を見に行くからねー」
とリュールさんは言った。入場券がちょうど二枚残っているからということだった。
お芝居といえば、わたしの村にも旅芸人の一座が巡業に来ることがたまにあるので、そういうのを想像していたら全然違っていた。建物からして石造りだし、舞台装置も全然豪華で大掛かりで綺麗で素晴らしかった。それを前のほうのいい席で見られた。お芝居も昔からよくある筋のやつではなくて、新しい見たことのないやつだったし、役者さんたちも美男美女ぞろいで、演技もとても上手だった。
お芝居が終わると、リュールさんがわたしを連れて席を立ったので、もう帰るのかと思っていたら、劇場の隅のほうに連れていかれて、そこにはお店があって花束を売っていた。
リュールさんはそこで大きな花束をひとつ買うと、わたしの手をひいて楽屋裏のほうに向かった。
リュールさんが楽屋の扉を開けると、そこには先ほど出演していた役者さんたちが大勢いて、リュールさんが花束を掲げて入っていくと、役者さんたちはリュールさんを囲んで挨拶したり、親しげに抱き合ったりしていた。
わたしはびっくりしてしまって、会話に耳をそばだてていると、どうやらこのお芝居の筋書きを書いたのは、なんとリュールさんであるらしかった。
わたしが呆然として見守るなか、リュールさんは役者さんたちへの挨拶を済ませて、わたしと一緒に劇場を出た。
帰りの道すがらにわたしが聞くと、リュールさんはお芝居の筋書きを書いたのではなくて、その元になった小説を書いたのであるらしかった。
わたしも村の女の子たちも、恋愛小説は大好きだから、行商の人が来るたびに、みんなでお金を出し合って、新作があればあるだけ買い込んでいるけれど、その小説を書いている人というものに実際に会ったのは初めての経験だったし、さらにその人が自分と幾らも年の変わらない女の人だということにもすっかり興奮してしまった。
色々な面で、この帝都は物珍しかったけれども、わたしの考えというか、物事に対する見方というか、そういうものが変容して、今まで何の疑問も持たずに、歩んできた人生というものについて考えるようになったのはこの瞬間からだと思う。つまりそれはわたしが今まで知っていた以外の、新しい生き方を知った日でもあったのだ。
まあそれはともかく、そういえば帝都にまで来ているんだから、新しい本を買い込むチャンスだということに今さら気が付いて、慌ててリュールさんに本を買えるところに連れて行ってほしいと頼むと、リュールさんはわたしを巨大な書店に連れて行ってくれた。
雑貨屋とセットになっているのではない、本しか売っていない店というのは勿論初めてだったし、その書店というものが、大通りに面した七階建ての巨大な建物を二棟丸ごとから成っていて、その中に所狭しと置かれた、背の高い本棚に、みっちりと本が詰め込まれているのにも度肝を抜かれた。
村の雑貨屋や行商の人たちが仕入れてくれるのを待って、その仕入れてくれたわずかばかりの本を奪うようにして買い、順番待ちをしながらそれを貪るようにして読み、あっという間に読み終わると、また次の入荷まで首を長くして待つというような生活からすると、一生かかっても、読み切れないほどの本がある今の状況は、顎が外れるというかよだれが垂れるというか、髪の毛が逆立つ感じがするくらいだった。
かといって、本を“選ぶ”なんていう体験は初めてだったから、リュールさんにお薦めを聞きながら、財布を空にする勢いで買いまくった。基本は恋愛小説中心で、その他諸々農学書とか数学の教科書とか真面目な本に、なるべく長く時間を潰せそうなシリーズものの海洋冒険小説とか、もうこれほどお金を使ったことはないというくらい買った。
リュールさんの本も買おうとしたら、
「家に何冊かずつあるから全種類あげる。それで浮いたお金で別の本を買いなさい」
そう言ってくれた。涙が出るほど嬉しかった。
買った本を全部、紐で縛ってもらったけれど、自分の体重より重いくらい買い込んだので、台車を貸してもらって、お店の人にも手伝ってもらい、肩が抜けそうになりながら、台車に山のように積み込んだ。
お店の人は呆れた様な目で見ていたけれど、リュールさんは、当然の行動だわ、と力強く請け合ってくれた。わたしはますますリュールさんが好きになった。
汗だくになりながら、ふうふう言いつつ台車を押して、リュールさんの部屋のある建物に帰ってきたけれど、本を六階まで運び上げる気力はもちろん無くなっていて、取りあえず建物の門番の人に預かってもらうことにした。
台車をお店に返すとリュールさんが部屋でお茶を入れてくれて一息ついた。
部屋の窓から外を見ると、もう陽が西に傾いていて、夕陽が街路を行く人々皆に長い影を差し掛けていた。家路を急ぐ人々、陽気に話しながら遊びに繰り出す人々。穏やかに途切れることのない人の流れは、低くなった太陽の光を受けて黄金色に輝いて見えた。
それはひどく幸福な、あんまり美しい景色で、それをじっと眺めていると涙が出そうになって、自分もその景色のなかに溶けてしまいたいような気さえしてくるのだった。
そんなふうに何だか感動しているところへ、無粋なノックの音が聞こえて、リュールさんが返事をすると、迎えに来てくれた御者の人だった。
わたしは長女だし、自分で言うのもなんだけれど、聞き分けも良く我儘なんてほとんど言わない子だったけれど、でもその時は御者の人の声が聞こえると反射的に
「帰りたくないの……」
と言ってしまった。
「わあ、アニちゃん大胆」
リュールさんが言って、わたしは意味が分からずにぽかんとしていると、
「何でもない、何でもないわ」
リュールさんは笑いながらそう言って、御者の人と話をしに行った。それでしばらくしてから戻ってきて、わたしが今日はリュールさんの部屋に泊まると書いた手紙を書いて御者の人に言付けて、手紙と買い込んだ本を持って帰ってもらうことになった。
自分で我儘を言ったくせに、やっぱり申し訳なくなってきて、ごめんなさいと謝ると、
「いいよ、いいよ、気にしなくて、ちょうど連れて行ってあげたいところがあったし」
リュールさんはそう言って、わたしを下着屋さんに連れていった。何で下着? と思っているとリュールさんはわたしを今度は、もくもくと湯気の吹き上がっている建物つまり浴場に連れて行ってくれた。
浴場もこれまた大きな建物で、中は晶石灯がたくさん備え付けてある、広くて明るい建物だった。脱衣所で服を脱ぐのがかなり恥ずかしかったけれど、そこは何とか我慢して、中に入ると温水、冷水、蒸気、硫黄の匂いのする温泉風、変わったものでは牛乳のお風呂なんてものもあった。肌にいいんだそうだ。
体を洗ってさっぱりしてから、小さな子供からお年寄りまで今まで見たことが無いほど多くの裸の女の人を眺めながら、いい加減のぼせるまでお湯に浸かって、お湯から上がると裸のまま、よく冷えた牛乳に果汁や珈琲を混ぜたものを飲んだ。特に果汁のやつが非常においしかった。なんでも皇帝陛下がご考案なさって浴場で飲むべしとお広めになったものだとか。
それで、さっき下着屋で買った新しい下着を着けて、服を着て、帰り道の途中の屋台で食べ物とよく冷えた甘いお酒をたくさん買って、リュールさんの部屋に帰った。
御飯を食べてお酒を飲んで、寝間着を貸してもらって、ベッドがひとつしかなかったからリュールさんのベッドに入れてもらって、眠くなるまで話をした。本当に、本当に楽しくて、ふわふわした気分でリュールさんにくっつきながら、わたしもリュールさんみたいに帝都で暮らしたいと言うと、リュールさんは、
「こういう都会はね、お金があれば楽しいけれど、お金が無ければけっこうつらい場所よ。お針子とかをすればアニちゃんもここで暮らせないことはないと思うけど、あんまりお薦めしないわ」
とそう言った。ちょっと悲しくなったけれど、まあそうかもしれないとその時は納得した。
それで、翌日の昼まで色々見てまわってから、滞在先のお屋敷に戻って父と合流し、しばらくしてから帰途についたのだった。
◆
ものすごく話が長くなったけれど、つまりわたしはこの旅行で、わたしにとって世界は広くて、まだ見てないものだっていっぱいあるということを知ったのだった。
わたしは家に帰ってから、世界の地図を広げてみた。
帝都から大河を下って西海へ出れば、西の大陸へと続く航路があるし、北へ行けば森族の住まう森林があり、北東には雪深い山の上で、火山の熱を利用しながら生活している民族がおり、東には草原と砂漠と竜の国があり、南には大穀倉地帯が広がっている。その大穀倉地帯を越えた帝国の国境付近には、蜥蜴族の住む湿地帯と黒森族の森が隣り合いながら激しく相争っている。西や南の大陸も東にある竜の国を越えたその先にも、想像もできないような文化があるそうだ。
わたしは船乗りでもなければ天竜の騎士でもないから、それほど遠くまではいけないだろうけれど、せめて帝都くらいはもう一度行ってみたいし、できれば住んでみたい。つまり何が言いたいかというと、大事なことだから何度もいうけれど、まだ結婚なんかして、落ち着いてしまいたくなんかないのだ。
でもそんなことを両親に言ってみたところで特に母なんかには、帝都くらい新婚旅行で連れて行ってくれるわよ、とかなんとか言われて終わりになってしまうと思う。
とそういうふうに追い込まれているわたしのところにイケベ大公爵家の乳母の話が聞こえてきたわけだ。取り立てて、ご飯が食べられるような技能は持っていないわたしだけれど、弟や妹が十二人もいるおかげで、子守なら、まあそこそこ経験がある。子守ができるなら、あとはお乳さえ出せば乳母になれるということで、そりゃもう一も二もなく飛びつきましたよ。
それはもう唐突に主家に対する忠誠心にあふれた娘になったわたしは、先代の大公爵様へのご恩を返すため、幼く、お小さい、新しい御当主様のところへ何としてもこのわたくしが乳母としてご奉公に馳せ参じたい旨、述べ立て、演説し、弁論し、父がスケイロさんのことを遠まわしに聞いてきても、スケイロさんがどうかされましたか? みたいな空気読めないふりで回避して、最後には父が飲み終わった紅茶のカップを奪い取って、突然、胸をはだけておっぱいを握り、ちゅーっ、とカップのなかに搾乳して、父と母が絶句してあんぐりと口をあけている間に、これこの通り準備は万端でございますわぁ、じゃ、そういうことでお話を進めさせていただきますわねぇ、と言いながら部屋を出て、ドアを閉めた瞬間、胸をしまいながら、執事の部屋へ猛ダッシュして、了解は取ったわよっ! と叫び、執事をせっついて、乳母の件引き受けますと書状をしたためさせて、いちばん乗馬が得意な従僕を捕まえて書状を渡し、疾風の様に走りなさい! と(あとから誰かが追いかけてきても追いつかれないように! と心の中で付け加えて)厳命し、父と母が我に帰る前に話を決めてしまった。
気迫勝ちだと言えるだろう。
それでまあ色々あって、めでたく就職先が決まって、家から馬車で送ってもらって、大公爵家のお屋敷に着いて、家政のマーサさんにご挨拶してから、御当主様にもご挨拶すると、幼くてかわいらしくてとてもお小さい御当主様は、にっこり笑い「シホといいましゅ」とおっしゃり、ぺこりと頭をさげて挨拶を返してくださった。
まだ、お小さいのに大人のようにはっきりお話して、なんて利発でかわいらしく、しかも礼儀正しくていらっしゃるんでしょう。完璧だわ! それに、なかなか友好的な雰囲気で上々の滑り出しね。と心の中で思わず会心の笑みを浮かべて、それからシホ様のお部屋に入って、シホ様の部屋付きメイドのマリエさんに挨拶して荷物を解いて、一休みしたところで、お昼のものらしき鐘の音が聞こえてきたので、ああ、お昼ご飯の時間ね、じゃ、まあさっそく、と張り切ってシホ様を抱き上げて、さっと胸を出した。というところで冒頭の場面に戻るのだ。
「おっぱいなんかいらないわ!」ときた。
「な、何故でしょうか?」
友好的な雰囲気から一転して拒絶されてしまったので、若干動揺しながら、お聞きすると、
「わ、わたちじゅうろくちゃいだから、あかちゃんじゃないの!」
とおっしゃった。十六歳? 目の前でどう見ても赤ちゃんに見える御当主様は、御髪はきちんと生えているけれど、見た感じまだ二歳も来てないようにしか見えない。そしたらまだ一年や二年はお乳の世話になってもいいはずだ。
十六歳っていうのは何かのごっこ遊びの一種だろうか?
「……申し訳ないですが、どうみても十六歳には見えませんが」
わたしがそう言うとシホ様は、焦ったように話しはじめられた。
「わ、わたちね、こんななりをしてるけど、ほんとはじゅうろくさいなの、ほんとよ、あー、ほら、からだはこども、ずのうはおとな、そのなはめいたんていなんとか、ってしらない? ああ、このせかいじゃあにめなんてないから、しるわけないわよね。でもそういうことなの、ほんと、ほんとよ!? だからおっぱいなんていらないの!」
「……シホ様がとても上手にお話になるのは分かりましたが、やはりそのお小さい体を大きくするためには、やっぱりまだお乳が必要でないかと思うわけです。それにですね、私だってここでお暇を頂いたら、そのぅ……わたしにも事情があってクビになるのは困るんです」
十六歳かどうかはともかく、やたらペラペラとしゃべる赤ちゃんだとは思う。というか赤ちゃんがこんなにしゃべるだろうか、とか思っていたら、焦って思わず赤ちゃん相手になんか普通に本音をダダ洩れさせてしまった。
「……くび?」
「え、ええっ、クビですクビ。ここで仕事ないと帰る家が無い、ことはないんですが、ちょっと事情があって帰りたくないというかなんというかそのぅ」
わたしがそう言うとシホ様は、しばらく考え込んで、それからきゅっと眉尻を下げて、
「……むう……、わたしがきょひしたらアニはクビになっちゃうのね……じゃあ、しかたないわ」とおっしゃった。
「い、いいんですか?」
「だってしかたないじゃない!」
シホ様はそう叫ぶと、目をつぶり、ためらいを振り切るかのようにしてわたしのおっぱいに吸い付いてこられた。
……普通に話せば分かる赤ん坊なんてはじめて見た。




