許され、生きることを望んで
「エイレーン!」
振り返ると、何と声をかけたらいいか迷っている顔のクシフォスがいた。
「ごめんなさい。こうするしか、方法が浮かばなかったの」
魔物の心臓を机の上に置いて、エイレーンはクシフォスに歩みよる。
「でも、大丈夫よ。ちゃんと生きているわ。ただ、私に関する記憶を消させてもらったけどね」
自嘲気味に笑いながらエイレーンは遠くを見る。
「――やっぱり、人にとって『良い魔女』なんて、いなかったでしょう?」
「っ、そんな事は……」
「でも、これが現実だわ。……きっと、私は、私が生まれた時から間違っていたのよ」
クシフォスの顔が歪んだ。でも、もうそんな顔をしなくても良い。
「今まで、ごめんなさいね。あなたの人生を巻き込んでしまって。でも、もういいの。私がいなくなったら、あなたは自由に生きてね。……自分のために」
「何を……エイレーン、君は一体何を考えて……」
そこでクシフォスの言葉が途切れる。視線はエイレーンの胸元辺りへと移った。彼は見えているのだ。エイレーンの魂の炎が、今どのような形なのかを。
「前にね、イリシオスに言われたの。魔女は自分自身に絶望したら、魔力を失うって。……ねぇ、クシフォス。私の魂の炎、今は何色に見える?」
身体の中心辺りから、何かが少しずつ零れる感触がする。きっと、魔力が零れ出て、消失に向かっているのだ。
そうだ。自分は今、自分自身に絶望している。この存在がなければと、後悔している。そうすれば、誰にも迷惑をかけることなどなかったのに。
「やめろ……。考えるな……! 君はっ……」
次第にクシフォスの腰辺りまで茨が伸びてきて、動きを止める。
「本当は、あなたも皆みたいに記憶を消してあげたいんだけれど、出来なくてごめんなさい。あと、魔物の心臓をイリシオスに持っていってくれる? 彼女なら、私の持っていた調合書の本を見て、作れるはずだから」
エイレーンは右手を茨から逃れようと、もがいていたクシフォスの左頬に添える。
「クシスもクシフォスも、どっちも大好き。今まで、守ってくれてありがとう」
今までで一番の笑顔でエイレーンは笑った。最後に彼の額に軽く口付けしてから背を向ける。
「っ、おい! エイレーン! ……エレ!!」
最後に自分の幼い頃の呼び名が聞こえた。だがそれも、床から次々と生えてくる茨によって遮られていく。
……さようなら、クシフォス。
エイレーンは奥にある階段を一歩ずつ上っていく。自分の中にある魔力はもう半分もないだろう。だが、その前にやるべきことがあった。
それは自分に関わった人達の自分に関する記憶を消す事と、存在を消滅させることだった。自分の存在が人を不幸にする悪だというのであれば、もうその方法しか思いつかなかった。
石造りの階段を上っていく。この古びた教会にも鐘を鳴らす塔があり、そこを目指して歩いていた。歩いた道は茨が次第に侵食していく。
クシフォスは自分を追いかけてくることは出来ない。もし、追いかけてきても、間に合わないだろう。
階段を登り切って、木製の扉を外側へと開けると、四方を眺めることが出来る塔の最上階へと辿り着いた。外はもう、夕日が山の峰に入り込もうとしていた。
美しい景色だと思う。でも、この心さえも人からは許されない。日の沈む方へと身体を向けて、石の欄干へ乗り出す。強い風が吹けば、すぐにでも落ちてしまいそうだ。
結局、ミリシャに謝れないまま、ここまで来てしまった。ロアとイリシオスだって心配しているはずだ。西の方角には住んでいた森がある。自分を助けてくれた風は元気だろうか。
……クシフォス。
自分をずっと、守ってくれていたとは知らずに、失礼な態度を取ってしまっていた。彼を忘れていたことも自分の罪の一つなのだろう。
首に下げたお守りに手を添えたあと、エイレーンは深呼吸して、両手を合わせるように組んだ。まるで、神へと祈るように。
自分の存在が塵となって消滅すると同時に、どうか関わった人達の記憶から自分が消されるようにと最後の魔法をかけ始める。
そして、そのまま宙へと身を投げた。随分と静かでゆっくりだった。
これが終わる瞬間なのだと、思っていた時だ。荒々しい足音が地響きのように聞こえてきた。
「――っ、エレ!!」
棘が刺さり、身体の節々から血が出た傷だらけのクシフォスが階段を駆け上ってきたのだ。彼が必死の形相で手を伸ばしてくる。求められても、もう自分を許せないのだ。
……あぁ、駄目よ。もう、間に合わないわ。
伸ばされる手を見ながら最後に瞳を閉じる。呼ばれる名前を愛おしく耳の奥に残しながら。
だが、思ってもいなかったことが起きた。
西から、強い風が吹いたのだ。大きな風は塊となって、エイレーンの身体を下から持ち上げるように塔側へと押し戻す。
耳元で、囁くほど微かな声が聞こえた。
―――生きろ。
それだけが聞こえたのだ。懐かしい声に投げていた感覚が戻ってくる。
エイレーンを現実へと戻したのはそれだけではなかった。右手に何故か強い感触があり、目を開けると自分の身体が塔から宙づりになっていたのだ。
「……っ、離す、なよ……」
上を見ると、クシフォスが汗だくで、顔を真っ赤にしながら自分の腕を掴んでいた。
クシフォスが両手で、自分の身体を一気に引き上げる。まるで魚を釣り上げるように、塔の中へと引き戻されたと思ったら、今度はふわりと優しい匂いに包まれた。
呼吸する彼の身体が大きく揺れるたびに、茨によって出来た傷から血が流れていた。
「く、クシフォス……」
そして今、自分は彼の腕の中にいるのだと気付く。何を言えばいいか言葉を選んでいた時だ。
「――君は馬鹿だ!! どうして分かってくれないんだ……!」
突然、大声で怒鳴られたのだ。身体中に響く声は怒りではなく、それは悲しみだった。
「俺は自分のために君が必要だ。そのために、ずっと生きてきた。ミリシャだって、君を待っている。君を必要としてくれている人はちゃんといる……!」
言葉が温かい雨になって降り注ぐようだった。
必要だと言われた、その言葉が乾いた土に恵みを与える雨のように優しく温かかった。
「本当は……君が俺の記憶を失っていると知った時、その方が良いのではないかと思った。忌むべき存在の自分なんて、忘れて、幸せに過ごしていてくれれば、それで良いと」
喘ぐように息をして、クシフォスは言葉を続ける。
「でも、その忘却の魔法が、一人にしてしまったことで、君を傷付けたのなら、謝るから……今度は絶対に、君を守ってみせるから、だから……だから、どうか消えないでくれ……!」
クシフォスが更に抱きしめる腕の力を強くする。子どものように涙を流し続ける彼をエイレーンは茫然としながら、受け止めていた。
生きろと言ってくれる人がいる。必要としてくれる人がいる。
自分は生まれながらに人にとっては悪だ。分かっている。それでも—――。
それでも、自分の存在を許してくれる人がいるならば、そのことを自分で許してもいいのだろうか。自分は、生きていてもいいと認めてもいいのだろうか。
自分は人にとって、良い人になれるだろうか。
「……うっ……あぁ……!」
我に返ったエイレーンは雨粒のように涙を流す。クシフォスの胸の中でただの子どものように。必要とされて、生きていても良いと生まれて初めて実感することが出来たのだから。
やっと落ち着いてから、涙を拭う。その表情に先程までの、迷いはなかった。
「……エイレーン。魔法を使ってみてくれ」
「え? でも……」
彼は何か自分の中に見えたのか、泣き腫らした表情で小さく笑った。もう、魔力はなくなったのではないかと思いつつ、塔にまで侵食していた茨に魔法をかけてみる。
ぽんっ、ぽんぽんっ、と軽快な音を立てて、茨は蕾を付けて、赤い薔薇を咲かせていく。二人を囲むように一面に薔薇が咲いたが、その光景に魔法をかけた自分自身が一番驚いていた。
「魔法が……。魔力が戻ってる?」
自分の両手を驚くように見つめる。身体の奥からは、温かいものが揺らめくように生まれていくのが分かる。
クシフォスが薔薇を一輪だけ手折り、棘を抜いてからエイレーンの左耳の上辺りに挿した。
「……やはり、君には赤いのが似合う」
そう言って、子どもの時と同じ純粋な笑顔を見せる。エイレーンは唇を噛み締め、再び零れる涙を拭うことなく、彼の胸の中に頭を押し付けた。
存在を許されることを、自分で許すことが出来た瞬間だった。
夕暮れに染まる空はどこまでも遠く雲を流し、風は緩やかに吹いていた。




