記憶の蓋と夢見る瞳
これは夢ではない。恐らく、自分の中に眠っていた過去の光景だろう。それを遠くから見ているような気分だった。
十歳にもならない、幼い自分が森の奥で出会ったのは同じ年頃の少年だった。母に手伝ってもらって家へと運び、彼の目が覚めるまで、ベッドの傍から離れなかったのを覚えている。
少年は「クシス」という名前だ。遠くの村の出身で、異端審問官の手から逃げてきたという。クシスの母は、彼が普通の人とは違うと知っていたため、村から離れた森の奥に暮らしている老婆に、どうにか彼を普通の人間にすることは出来ないかと相談していたらしい。
だが、村人から魔女行為を行っているのではないかと、嫌疑をかけられ、異端審問官が呼ばれてクシスの母は強制的な拷問により、異端と自ら認めて吐くように仕組まれ、その後、処刑されたという。
そして、その手はクシスにも伸びてきたのだ。彼は着の身着のままで村を出た。後ろからは村人と異端審問官が恐ろしい顔で追いかけてきたという。
ただ走り、逃げ回った。どこに自分がいるのかさえ分からずに走り回り、空腹と疲れで倒れていたところをエイレーンとその母によって助けられた。
エイレーンの母の勧めで、クシスは一緒に暮らす事になった。彼の母が異端として仕立て上げられて捕まったという経緯があるので、魔女が嫌いかと聞いたら、嫌いではないと答えた。
――悪い魔女よりも、怖いもの、恐ろしいものはたくさんあるよ。
彼の痩せ細った顔が遠くを見つめながらそう呟いたのをはっきりと覚えている。そして、良い魔女もちゃんといるといって、自分とその母を見て笑っていたことも。
彼の普通の人とは違うところ、それは人の「魂の炎」が見えるということだった。異端審問官の炎は汚いくらいに赤黒く、村人の魂もそれに近い色だったと言っていた。
だが、自分たちは白く輝く炎でとても綺麗だと言っていたため、思わず照れてしまった。
いつだったか、森に咲いていた赤い薔薇を贈ってくれた時があった。赤いのが似合うと言って笑っていたが、彼の手は薔薇の棘によって、傷だらけになっていた。何でも、棘を全部抜き取ったからだと言っていた。
お礼にエイレーンが魔法で傷を治してあげようと、彼に魔法をかけるが何も起こらない。母に相談すると、彼女は息を飲み込むようにして、驚いていた。
その時、クシスに魔法が効かないのだと発覚した。そして、エイレーンの母の故郷を奪い、家族を離れ離れにした異端審問官も魔法が効かなかったことをここで初めて聞かされた。
母はあなたのせいではないのだから、気にすることはないと、クシスを慰めていたが、恐らくこの辺りから彼の様子が少し変わった気がしていた。
どこか、何かを考えているように放心しては、唇を噛み締めて我慢した表情をするのだ。
クシスと一緒に暮らして、数年が経ったある日、彼から話があると言われた。
自分は、この家を出ていくと。
それを聞いた時、自分は大泣きしてしまった。嫌だと駄々をこねて、彼の腕をどこにも逃がさないようにぎゅっと握りしめて。
母は何かを悟っているように悲しそうな顔をして頷いていた。魔女が嫌いなのか、恨んでいるのかと、何度も聞いた。ただ、彼は首を振って泣きそうな顔で笑った。
――エレの事は好きだ。でも、それだけじゃ駄目なんだ。この目がある限り、きっと僕はエレとおばさんを苦しめてしまうから。
だから、ちゃんと守れるように、正しくこの目を使えるようになってから帰ってくると、幼いエイレーンを説得した。
クシスが旅立つ日。エイレーンの母に手伝って貰い、旅支度を整えたクシスが何度も母に謝っていた。それは何故なのかは分からない。
行かないで、と何度も訴えたが彼は首を振るばかり。彼は少し泣き虫で、とても優しい男の子だった。今は我慢しているのか、泣き腫らした目から涙をこぼさないように耐えていた。
もう、何を言っても彼の意志は変わらないのだと、幼心に理解してしまったエイレーンはクシスにあるものを渡した。
小川で見つけた、自分の瞳と同じ色の透明な石を首から下げられるように紐を通したものだ。それに、彼を守るように魔法をかけた。
そして、どこにいてもこの石から、クシスを見守っているからと伝えると彼は驚いたように目を見開き、握っていた掌から一つのものを取り出す。
小さな袋は、エイレーンの母に教えてもらいながら縫ったものだという。その中を開けてみると、出てきたのは艶やかで美しく光る黒い石だった。
自分も、同じことを考えていたと言って、彼ははにかんだ。
――このお守りがきっとエレを守ってくれる。ずっと、見守っているから。
最後に彼は泣きじゃくる自分を抱きしめて、背中を向けて歩き出した。その光景は少しずつ、ぼんやりと揺らぎ、見ている世界が歪み始める。
次に見えたのは、寝ている母の傍に立っている自分だった。大好きだった母が、病気で寝込んでいるが、何も出来ずに見守ることしかできない。
作った薬も効果はなく、魔法で病気を治すことも出来ない。それでも母は笑っていた。恐ろしい目に合い、彷徨うことが多い人生だったが、とても幸せだったと言って遠くを見ていた。
そして、何故かクシスの話になった。母はクシスを許してあげてほしいと言った。自分は気にしていない。自分は、十分に幸せだったから、責めなくていいといつか伝えてほしいと。母はエイレーンのこの先を案じながら息を止めた。最期の瞬間まで笑顔だった。
どうしようもない寂しさと悲しさが幼いエイレーンの身体を駆け巡る。泣いて叫んで、訴えても、聞いてくれる人は誰もおらず、独りぼっちになってしまった。
その時、思ったのだ。悲しい気持ちも寂しい気持ちもなくなれば、こんなにも辛くないのではないか、と。恐らく、その時、意識せずに魔法を使ったのだ。
「忘却」の魔法を。
寂しいと感じたクシスの旅立ちと悲しいと感じた母の死。無意識に自分の心に魔法をかけて、そして「クシス」のことを忘れてしまった。
そこで、エイレーンの意識が現実へと戻ってくる。目をゆっくり開くと、心配したままの顔のクシフォスがほっと息を吐いた。
「……ごめんなさい、クシス」
かすれた声で名前を呼ぶと彼は唇を噛み締める。その仕草も変わらなかった。
「全部、思い出したの。私、自分で全部を忘れてしまっていたのよ」
起き上がり、自分の首に下げているお守りを取り出す。
「見守るって言っていたのに、あなたの事、忘れてしまって、ごめんなさい」
「思い出したのか……」
彼の言葉に頷く。申し訳なさで胸がいっぱいだったが、聞きたいことが一つだけあった。
「クシス……はあの後、どうしていたの?」
気になっていたことだ。自分達のもとから去り、旅に出た彼はそのあと、どのように過ごしていたのだろうか。そして、どういった経緯で異端審問官となったのだろう。
「クシフォスでも、どちらでも構わない。……本当は、この目を使ってローレンスの一族を探そうと思っていたんだ」
「ローレンスの人達を?」
どこにいるかも分からない親族を探してくれていたのか。
「もちろん、おばさんには、そんな事をしなくてもいいと言われたが、どうしても探し出したかった。まぁ、子どもの手には余るからな。すぐに詰んでしまい、限界を感じていたんだが。……ある日、一人の異端審問官と会って、教皇の元へと連れられた」
「教皇っ!?」
予想していなかったため、思わずエイレーンが声を上げるとクシフォスは穏やかに笑う。
「俺のこの目を見込んで、異端審問官になってほしいと言われた。教皇は、異端審問官により、罪のない者が異端とされることを痛ましく思っていた。自分になら、それを見極められ、正しく審問が出来るのではないかとこの役目を託されたんだ」
異端審問官に追われていたクシフォスが迷いもせずに異端審問官になったことにも驚きだ。
「でも、その方が俺には都合が良かった」
「どうして」
「その方が君を守れると思ったからだ」
真っすぐと見つめてくる黒い瞳は自分の手の中にある石と同じ輝きをしていた。
「異端審問官としていれば、魔女の情報は入ってくる。ローレンスの情報だって見つかるかもしれないし、君に異端審問官の目がいけば、上手くかわすことだって出来るだろうって、勝手に慢心していたんだ」
薪を燃やす炎がその瞳に淡く映る。
「でも、駄目だった。ローレンスの情報は掴めず、ついには君に異端審問官の手が伸び始めた」
「ちょっと、待って。異端審問官達は私がトリエ村を襲ったという情報が伝わったから来たのではなく、私のことを最初から知っていた上で私を捕まえに来ていたというの?」
「そうだ。最初はおかしいと思った。何も噂さえ立っていないのに、急に君の話が持ち上がったからな。先回りして君の元へ急いだが、運悪く魔物が襲った後だった。これは、間違いなく君のせいに仕立て上げられると思ったから、他の異端審問官達が来る前にどうにか先に村人を説得させて、君を遠くへ逃がそうとしていたんだが……」
そう言って彼は自分の方を少し恨めしそうに見てくる。エイレーンは肩を下ろして仕方ないと言わんばかり笑った。
「……でも、そうだったのね。私はあなたに、守られていたのね」
気付かないうちに、優しく包まれていたのだ。エイレーンは頭をクシフォスの胸に押し付けるように預ける。
「エイレーン?」
「ありがとう、クシフォス」
涙が自然に出てきてしまう。きっと、辛いことも悲しいこともたくさんあっただろうに、ずっと自分のことを一番に考えてくれていたことが、どうしようもなく嬉しかった。
「ありがとう。……ごめんね」
彼は何も言わずに、ただその腕でエイレーンの頭を撫でた。昔、怖い夢を見た時、そうしてくれたように。何も言わずに、エイレーンの気持ちが落ち着くまでそっと、慰めてくれた。




