呼び起される声と君とその名前
川の水を浄化しながら歩いていたため、目標としていた湖に辿り着いた時にはもう夜が更けっていた。幸いにも、今朝使っていた竈があるため、それを使い夕食の準備を始める。
干し肉の欠片と、木の実を砕いたもの、野草を一緒に混ぜながらエイレーンは物思いに耽る。
「魚、獲ってきた」
クシフォスが獲ってきてくれた魚を枝で串刺しにして、竈の傍に刺してから焼き始める。
「ありがとう。もう少しで、出来るから」
匙で掬って、味見をする。他の薬味があれば、もう少し味が美味しくなるのだが、今は手元にないので、仕方がない。
椀に鍋の中身を掬ってから、クシフォスへと手渡す。彼は軽く頭を下げてから食べ始めた。エイレーンも自分の分をよそって食べ始める。
温かさが体にしみ込んで、少しほっとしたように息を吐いた。自分でも気づかない程に、ずっと緊張していたようだ。
ふと、頭を上げて、クシフォスの方を見る。体に異常を訴えてはいないので、自分が作った薬がちゃんと効いてくれていたのだろう。
だが、一度攻撃は受けていた。傷は無いと言っていたが、吹き飛ばされていたため、打ち身しているかもしれない。
「……何だ」
視線を送っていたことはすでにお見通しだったようだ。
「いえ、攻撃を受けていたから、少し気になって。他に、体に痛みとか感じられない?」
「大丈夫だと言っている。むしろ、無事だった方が驚きだ」
疑っているわけではないが、彼の口調から強がっているわけでもないようだ。
「それは……」
相手はあくまでも異端審問官だ。勝手に魔法をかけられていたなんて、気分を害してしまうかもしれない。
攻撃を受けていた時、クシフォスの胸の辺りが光っていたように見えたが、勘違いだっただろうか。何となく、クシフォスの胸辺りを見てみる。魔物からの攻撃で、服はぼろぼろになっており、特に胸辺りは引き裂かれたような状態になっていた。
そこから、胸の辺りに首から下がっているものが見えた。青く澄んだ石だった。親指よりも少し大きく、丸い形でどこにでもありそうな石。その石に視線も心も釘付けになっていた。
まただ。頭の中がぐるぐるして、何を思い出そうとしているのか思い出せない。
何か、とても大事なことを忘れている。それは分かるのに、答えが出ないのだ。
「エイレーン?」
いつの間にか、真横に近づいていたエイレーンにクシフォスは小さく驚きの声を上げる。
「ねぇ、クシフォス。これって……」
エイレーンの視線の先を気付いたのだろう。クシフォスは急いで、裂けた服を手で襟を合わせるように握り、石を見せないようにする。
「待って。お願い……。何か……思い出せそうなのよ」
エイレーンが手を伸ばす。その手をクシフォスは掴んだ。
「……エイレーン、君は」
クシフォスの顔が泣きそうな程に歪んだ。その顔はまるで、幼い子どものようで、そして、自分はその表情を知っている。
「頭の中で、誰かの声が響くの。私を呼ぶの。私なのに、私の名前じゃなくて、それは……」
クシフォスが何かを諦めたように、石を隠していた手を放す。再び、見える青いその石は、自分の瞳と同じ色だった。
エイレーンが浅く息を吐きながら、その石に手を伸ばし、触れる。
ぱきん、と体の中で何かが割れた音がした。目の前の石が淡く光り、輝きを増し始める。
「っ、エイレーン!」
クシフォスに名前を呼ばれたが、エイレーンには聞こえていなかった。石に触れた瞬間に、頭の中に様々な光景が映っては消え、そして黒く塗りつぶされていく。
村へと行く自分。風と話し、森を歩く姿。
弱った母の微かな笑顔。
寂しいと誰かに訴え、行かないでと駄々をこねる幼い姿の自分と、もう一つの影。
誰かが自分の髪に一輪の赤い薔薇を挿し、似合っていると楽しそうに笑っている。
舌足らずで呼ぶ自分の名前。
初めて、自分を見た時の驚きの表情。
まるで、自分が今まで体験した光景を巻き戻すように、それは一瞬でエイレーンの頭の中へと駆け巡ってきたのだ。
――君は良い魔女だよ。
――ほら、エレには赤い方が似合う。
――エレ、あのね。話があるんだ。
――さようなら、エレ。
舌足らずに、もう一つの名前を呼び、泣きそうな顔のまま、背中を見せる彼は。
「エイレーン!」
肩を強く掴まれ、クシフォスが目の前に現れる。変わっていない、自分を心配する表情。
「……あなた、だったのね……」
エイレーンの言葉に、クシフォスは目を大きく見開く。黒い瞳が水面のように揺らいでいる。
「あなたが……クシスだったのね」
思い出に残る幼い姿と、今の彼の姿がやっと、一致した。
「クシスが……」
エイレーンは言葉を続けようとしたが、そこで気を失うように目を閉じる。
「っ! エイレーン! おい、エイレーン!?」
遠くに響く自分を呼ぶ声を子守歌にしながら、エイレーンの意識は次第に深く落ちていった。




