悪魔よりも悪なる取引を
何か嫌な予感がしていた。この町に来ているはずの異端審問官達の姿が全く見えないのだ。
……おかしい。
クシフォスは町の様子を見ながら、不審に感じていた。こんな時に本当はエイレーンを外出させたくはなかった。動けば、見つかってしまう。教会の中にいる方がまだ安全なのだ。
だが、この不安は何なのだろう。そろそろ、エイレーンが出発する時間だ。森まで見送ると約束しているため、教会に戻った方がいいだろうと教会に向けて早足で歩く。
しかし、教会前の道にこの辺りでは見ることのない馬車が通った跡と、大勢の足跡見てクシフォスは身体から血の気が引くのが嫌でも分かった。
教会の扉は大きく開け放たれたままだ。はやる鼓動が止まってはくれない。
急いで教会へ入るとそこにはロア、イリシオス、そして寝ているはずのミリシャがいた。ミリシャはロアの腕の中で気を失うように項垂れている。だが、そこにはもう一人いるはずの姿が無かった。
「クシフォ……」
イリシオスが口を開く前に、クシフォスはイリシオスの小さな肩を掴んで、叫んだ。
「エイレーンは!?」
大声を出すクシフォスを想像出来なかったのだろう。イリシオスは少し驚いた表情をしたが、すぐに悔しそうな表情で首を振った。
「……今、異端審問官達が連れて行った」
「なっ……」
嫌な予感が当たってしまった。やけに静かだったのは、こういう事だったのだ。
「西の村での魔女行為を認めなければ、裁判前に拷問して認めさせるつもりじゃろう」
「エイレーンは何も悪くないんだろう!? 何なんだよ、あいつら……。これが、異端審問官のやり方なのか!?」
ロアの叫びにクシフォスも顔を歪めた。そうだ、これが「異端審問官」のやり方だ。だから、自分は嫌いだったのだ。異端審問官も、この目も。
クシフォスは三人に背中を向ける。
「おい、どこへ……」
「連れ戻す」
それだけ答えて、クシフォスは走りだした。全てを後悔するには早すぎる。
まだ、間に合う。間に合わせなければならない。
「エイレーン……!」
全てを懸けて生きてきたのは、このためなのだから。
引きずられながら馬車から下ろされ、エイレーンは両手を縛り上げられる。このくらい魔法を使えば一瞬で塵にすることが出来るが、ミリシャが人質にとられている以上、下手に動くことは出来ない。
連れてこられたのは、全く使われていないであろう廃墟と化した教会だった。ミリシャの教会よりも大きいが、人がいないのか全体は古びて、壁も崩れかけている。
そこに、最近人の出入りがあったであろう形跡が所々にある。敷物が敷いてあり、台には食べ物と葡萄酒らしきものが置いてある。恐らく、この異端審問官達が拠点として使っているのだろう。置いてあるもの中に大きい荷物はほとんどない。
どうやら、ここは尋問や拷問をする場所ではなく、一時的に身を置くための場所のようだ。
「ふむ、日が傾き始めているからな。移動は明朝にしよう」
しかし、デジルの声を掻き消すように、教会の扉が荒っぽく開かれる。ここにいる異端審問官の誰よりも若いクシフォスが息を整えながら無表情で入ってきた。
まさか、追いかけてくるとは思っていなかったが、彼の表情が怒りで溢れているとすぐに気付いた。
荒々しくデジルの方へと歩み、低く唸るような声でクシフォスは口を開く。
「デジル殿。これは一体どういうことか」
「これは、これはクシフォス殿。最近、顔をお見かけしないと思っていたが?」
だが、それを遮りながら、背の高いクシフォスはデジルを見下すように睨む。
「そちらの者を先に調査していたのは自分だ。異端審問の規則にも先に手を付けていた者に尋問する権利があると記されている」
じわじわと腹の底から出すような声は怒気が悟られないように努めているのか冷静だった。
「それに、調査して判明したが、そちらの者は罪を犯していない」
「また『目』で何か見たとでも? そのような不確かなこと、信じられるわけがない」
小馬鹿にするようにデジルは鼻を鳴らす。
「元々、この魔女はこちらが目を付けていた者だ。君のような若造に出る幕など無い」
デジルは部下に小声で何かを言い付ける。すると二人の男がクシフォスを押さえつけ始めた。思わず叫びそうになるのをエイレーンは押し留める。
「あぁ、全く、可哀想に」
デジルの言葉にエイレーンは一緒に来ていたトリエ村の村人の方を見る。村人はエイレーンから気まずそうに視線を逸らした。
「トリエ村は今、悲惨な状況だ。魔女の手下に襲われ、人は死に家畜も食い殺され、家も畑も燃えた」
淡々とだが、エイレーンに聞かせるようにデジルはゆっくり喋る。
「こちらの村人に魔女報告の報酬を」
後ろに控えていた部下が小汚い袋を村人へと渡した。ずっしりとしたその中身は言わずとも分かっている。
「これはあなた達、トリエ村の人々への魔女報告の報酬だ。村の復興に役立ててくれたまえ」
それを村人は仰々しく受け取る。結局は、金なのだ。別に恩を着せたかったわけではない。
ただ、一つだけ願いがあっただけなのだ。叶わない願いが。
「――あなたは、それでいいのね」
エイレーンは静かに告げる。背中を向けていた村人がゆっくりと振り返った。
「それでいいと、あなた達が選択するのなら、私はもう……何も出来ないわ」
静かに、それだけを伝える。村人は唇を噛み締めてから、怒鳴った。
「……うるさいっ! 所詮、お前は魔女なんだよ! 何をしたって、結局はお前が魔女だから、仕方ないんだよ!」
叫び声が頭に強く響き、鳴り止まない鐘は痛みを生んでいく。村人は小汚い金の入った袋を大切そうに抱きかかえ、教会から出て行った。その姿をエイレーンは冷めた目で見送る。
彼の言っている事は正しいと思う。たとえ、自分が人を助けたところで、相手にとって、自分が何なのかで全てが決まってしまうのだ。
良い魔女はいない。人にとっては、全てが「悪い魔女」でしかないのだから。
……そういえば、いつだったか、こんな話を誰かとした気がする。
良い魔女になりたいと願ったことがあった。
誰だろう、今、脳裏に浮かんだのは。
――誰かのために、頑張りたいって思うだけで、それは十分「良い人」なんじゃないかな。
その舌足らずで優しい声に、エイレーンははっと顔を上げる。今の声を自分は知っている。けれど、思い出せない。
視線を感じて、そちらに顔を向けると自分と同じように両腕を掴まれているクシフォスが、心配そうにこちらを見ていた。そうだ。このような事で終わってしまっていいわけがない。
「……私にはまだ、この町でやるべき事があるわ」
穏やかに、はっきりと意思表示するとデジルは露骨に嫌そうな顔をする。
「この町を襲う疫病の原因を見つけたの」
「自分で仕向けたのだろう? 呆れた演技力だよ」
「言っておくけど、この疫病は川を伝って都市部まで流れるわ。……早目に手を打たないと都市ではここよりもひどい被害が出るでしょうね」
脅しではない。ただの事実だ。
「疫病の原因は魔物で間違いないわ。あなた達、人間には無理だけれど私は魔女よ。簡単に魔物を倒す事が出来るわ」
「そう言って逃げる気だな? 本当に魔女という生き物は狡賢い」
その台詞をそのまま返したい衝動は抑えて、エイレーンはデジルに勝負を挑むように睨んだ。
「私はただ、魔物を倒して、解毒薬の材料を取りに行きたいだけよ。それともあなた達が危険を冒して、解毒薬となる魔物の心臓を取ってきてくれる? 薬もちゃんと作ってくれる? きっと、魔女も魔物も倒して疫病から町を救った英雄として称えられるでしょうね」
自嘲気味に吐き捨てると、目の端に映っているクシフォスの表情が何故か歪んで見えた。
デジルは即答せずにエイレーンの顔を見ながら、顎鬚をこすった。何か考えているのだろうか。そして、良い事が思いついたのか、口の端をふっと上げて笑った。
「いいだろう。解放してやる。しかし、我々も暇ではないからな。明後日の夕日が沈むまでにここに戻ってくることが条件だ。もちろん、薬の材料の現物を持ってな。でなければ、証拠にならぬ。戻ってこなかった場合は……分かるな?」
ミリシャが人質だと、デジルは言っているのだ。恐らく、彼女を魔女へと仕立てる事なんて、造作もないのだろう。エイレーンは煮え滾る思いを胸に沈めて、静かに答えた。
「いいわ。私はこの町の疫病を無事に収められれば、それでいいもの。でも、教会の皆にも、町の人にも手を出さないで。それだけは……許さないわ」
巻き込んでしまったのだ。せめて、どうかこの先は平穏に暮らして欲しい。
「ふん。良い心掛けだな。だが、一人で行かせるには信用ならぬ。……クシフォス殿を目付けとして同行させよう。いいな?」
「分かったわ」
エイレーンが頷くとデジルは部下に命じさせて、二人の拘束を解く。
「それでは、明後日、またここで会える事を祈っているよ。魔女殿」
嫌味っぽく言い放つデジルを無視して、エイレーンはクシフォスに目配せする。彼は少し戸惑っているように見えたが、小さく頷き、エイレーンの後を追った。




