本当の意味の無力さとは
それから、数日経ったが、あの男が教会を訪ねてくることはなかった。後からクシフォスから聞いた話だが、あの男の名前はデジルと言って、異端審問官の中ではかなり狡猾で欲望にまみれた男らしく、彼の手で数え切れない程の者が「異端者」とされ、魔女裁判や拷問にかけられたと言う。
そして、何故、デジルが裕福そうに見えたのかというと、異端審問官は異端者として捕まえた者の財産をそのまま貰い受けることが出来るらしく、何と都合の良い話だろうかとエイレーンは深く溜息を吐いた。
あれからも、クシフォスは頻繁に教会へと顔を出すようになった。しかし、デジルとは別行動をしているため、見つかると面倒だとも話していた。
「……森に行きたいな」
ここ数日はずっと教会か敷地内の畑くらいしか出歩いていない。なぜなら、外に出てデジルや他の異端審問官に見つかるわけにはいかないからだ。
厨房で一人、お茶を淹れて飲んでいると、扉を叩く音が聞こえた。この教会の扉や廊下は、音が響くように作られているため、来客があればすぐに分かるのだ。
席を立ち、教会の出入り口である扉へ向かっていると、ミリシャも音に気付いたのか、廊下の前方に歩く姿を見つける。
「ミリシャ」
「誰かしら……。ロアとイリシオスは森へ行っているし、クシフォスかも……」
だが、最近ここへの出入りに慣れて来たクシフォスは厨房に近い方の出入り口から入るようになっていた。
もしかすると異端審問官だろうかとエイレーンは少し身構えて、扉を開くミリシャの陰から、来客の顔を伺った。
「――あら、リルさん。どうかしましたか?」
そこには炊き出しの時に見かけたことのある女性が七、八歳くらいの子どもを抱きかかえて立っていた。
「ミリシャちゃん……。前にここで薬を貰ったって人に聞いて……。この子が熱を出しちゃったの。何か熱さましの薬とかないかしら……?」
困ったような表情でリルと呼ばれた女性は荒く息をする子どもの背中をさする。子どもの様子はぐったりしており、見て分かるほど顔が真っ赤であった。相当、熱が高い状態なのだろう。
「ミリシャ。すぐに横になれる場所を作って」
エイレーンは後ろからミリシャに声をかけて、女性と子どもに中に入るように促す。
「分かったわ」
ミリシャは急いで教会の奥へと入る。
「リルさん、お子さんはいつから熱が?」
失礼します、と一言いってエイレーンは子どもの額に右手をそっと添える。かなり熱い。ただの風邪ではないだろう。
「え? ……昨日までは元気だったわ……。でも今日の朝、起きたら熱が出ていて、ずっと苦しいって唸っているの」
「今日の朝……。お子さんが普段と変わった事をした、なんてことはありませんか?」
「ないわ……。いつも通りよ」
子どもは母親の腕の中で辛そうに体をよじる。早く、どうにかしてあげなければ。
「すぐに熱冷ましの薬を作ります」
「ありがとう……」
すると、寝床の準備が出来たのか、ミリシャが駆け足でこちらへ戻ってくる。
「リルさん、お子さんをこちらへ……。ゆっくり寝かせてあげてください」
水桶に水を汲んできたのか、傍に腰を下ろして、ミリシャは子どもの頭の上に濡らして畳んだ布を置く。あちらは任せていても大丈夫そうだ。
「ただいまー……。あ、エイレーン。すまないが、この人に熱冷ましの薬を……え?」
森から帰ってきたのか、イリシオスとロアが扉の内側へ入ってくる。
しかし、ロアが片腕を回して支えているのは、中年の男性だった。その彼の表情は、今まさにそこで横たわっている子どもと同じだ。
「え、どうしたんだ、その子ども……」
「嘘……。その人も?」
「道端で倒れこんでおったのじゃ。どうやら熱があるみたいでの」
男性はロアに支えられて何とか立っている状態のようだ。やはり、同じように横に寝かせてあげた方がいいだろう。
「とりあえず、寝床を作って、安静にさせましょう。ロア、ゆっくり運んであげて」
「おう」
イリシオスが扉を閉めようとしていると、外側からそれは開けられてしまう。
「――すいません、こちらでお薬が貰えると聞いたのですが……」
中に入ってきた男性の背中には子どもが抱えられている。やはり、その子どもの様子は今、横たえられている二人と同じだった。
四人は眉を寄せて、顔を見合わせる。何か、良くない事が起きようとしているのではとそれぞれ感じていたのは、気のせいではなかった。
それからも教会には次々と人が担ぎこまれてきた。元々、この町には医者がおらず、薬屋しかなかったらしいが、その薬屋も今は店が閉まったきりだと聞く。
この前の炊き出しの際に、少し具合の悪そうな人がいれば、簡単な薬を作って渡していたが、その噂が広まっていたらしく、自然と皆が薬を求めて教会へとやってきたらしかった。
「何が起きているんだ、一体……」
戸惑いながらも、横になっている人達の額に置かれた布を冷たい水で濡らした布に交換しながらロアは、教会の広間で具合の悪さを訴えている人達を数えていく。
「十人か……。まだまだ増えそうだな」
「ふむ。薬を飲ませたが、あまり具合が良くなっている気配はないのう……」
もう、二度目の薬を皆に飲ませたが、一向に体の様子が良くなる気配はない。
今、ここに横になっている人は子どもから老人まで様々だ。しかも、一家揃って寝ている者達もいれば、子どもだけ寝ている者もいる。流行り病にしては、何かおかしい。
「あついよぉ……くるしい、よぉ……」
子どもが苦しそうにそう訴えてくる。エイレーンは唇を噛み締め、だらりと床の上に投げ出された手をとる。
「……大丈夫よ。きっと、すぐに良くなるわ……」
それしか言えなかった。周りで寝ている者も熱い、辛い、助けてと微かな声をこぼしている。これほど苦しんでいる人がいるというのに、助けることが出来ないというのか。
薬は、効かない。それなら何が効くというのか。一瞬、病床の母の姿を思い出して身震いする。
思い詰めたエイレーンの表情に気付いたのか、イリシオスがそっと肩を置いてきた。
「……お主のせいではない。気に病むな」
小声だがしっかりとした言葉に仰ぎ見るようにイリシオスへと振り返る。
「大丈夫だ。わしらもおる。お主一人ではない」
駄々をこねた子どもを諭すような口調にエイレーンは困ったような笑みを返した。
「……えぇ、分かっているわ。だからこそ、やれることをしなきゃ」
エイレーンは立ち上がり、厨房の方へと向かう。
とりあえず、色んな薬草を試してみよう。もしかすると、必要なのは熱を下げる薬だけではないかもしれない。だが、あまり薬ばかりを飲ませて体力を落としたくはない。料理の中の材料として加えてみよう。
両腕の袖を捲り上げて、木製の籠に入っている薬草がどのくらい入っているのかを覗き込む。しかし、薬をたくさん作り過ぎたため、必要としている薬草は殆ど残っていなかった。
しまった、という顔で手を止めていると厨房に入ってきたミリシャが声をかけてくる。
「薬草、もうないんでしょ? 他の食料の採取も兼ねて、採ってくるわ」
横から木製の籠をひょいっと取り去っていく。
「それなら、私も……」
「ううん。エイレーンは皆に付いていてあげて? 私一人でも、沢山採ってくるから大丈夫よ」
それだけ言って、ミリシャは急ぐようにその場から立ち去ってしまう。
異端審問官が来てから、彼女は遠回しに自分が外へ出ないようにいつも配慮してくれているのは、言わなくても分かっていた。だからこそ、動けない自分が悔しくもあった。
「……魔力があっても……無力なら、意味ないわね」
自嘲の笑みしか浮かばない。ふと、後ろに気配を感じて振り返って見ると入口にクシフォスが眉間に皺を寄せて立っていた。
「クシフォス……」
「状況はさっきロア達に聞いた。何か手伝うことがあるかと思ってきたのだが」
「そう……。ありがとう。今、ミリシャが薬草と他の食料を採りに森へ行ったの」
「あぁ。そこですれ違った」
「でも、一人だとここにいる人数分を採取するのは大変だと思うの。魚でも茸でもいいから、あなたも何か採りに行ってくれないかしら」
エイレーンの言葉にクシフォスは何かを言おうと口を開きかけたが、すぐに閉じた。
「……分かった。行ってこよう」
「うん。よろしくね」
無理に笑顔を作ってもきっと、彼には分かってしまうのだろう。背を向けるクシフォスが見えなくなってから、そっと目を閉じる。
自分に出来ることなど、本当にあるのだろうか。




