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黒き血を纏うもの


 しかし、そこに別の音が混じったのだ。

「……今の、お皿が割れた音かしら?」

「そのようだが……」

 誰かが誤って割ってしまったのだろうか。だが、先ほどまであった人々の声が一瞬にして静まり返ったのも気になる。エイレーンが急ぎ足で広間への扉から出ようとした時だった。


「……まるで犬の餌だな、こりゃ」


 不快でしわがれた声が、そこら一帯に響き渡る。ぴたり、と足を止めたエイレーンとクシフォスは扉の隙間からその声の方をこっそり覗いた。

「さぞ旨そうに食っておるから、どんなものかと貰ってみたが……。よくこのようなものが食えるものだ」

 隙間から見える中年の男が鼻で笑った気配がした。周りにいる町の人々を一人ひとり眺めるように見渡してから、嘲笑うような不気味な笑みを浮かべている。

 格好は黒い外套を羽織っているが、そこには銀の糸で何かの模様が細かく刺繍されている。恐らく、この町の人間ではない。だが、金持ちがこのような場所に来ることも考えられない。


 腹が立ったエイレーンが一言文句を言ってやろうと、扉に手をかけようとすると、後ろから口を塞がれ、動けないように腰辺りに腕が回されていた。

「んぐっ……」

 抗議するようにクシフォスを睨むと彼は、無言で首を横に振り、耳元で低く呟く。

「異端審問官だ」

 その言葉に体が石のように固まる。何故だと問いかけるエイレーンの瞳は大きく揺らぎ、クシフォスの顔だけが映っていた。

「恐らく、君を探しに来たのだろう。今は出ない方がいい。逆にミリシャ達に迷惑がかかるぞ」

 エイレーンが声を出さないことを確認してから、口から手を離す。

 だが、エイレーンの顔は真っ青のままで、言葉を失ったように息をのんでいる。その姿を心配したのか、クシフォスが両肩にそっと手を置いてきた。

「あいつは、君が想像している通りの異端審問官だ。下手に口出ししたところで、丸め込まれる。今は堪えろ」

 強く訴えかけるような瞳に、エイレーンの表情は歪んだ。ただ、ここでこの状況を見守ることしか出来ないというのか。あの男がここを尋ねてきた原因は自分だというのに。

 エイレーンは唇を噛み締め、血が出てしまうくらいの強さで手に爪を食い込ませる。そして、視線だけは男を逃がさぬようにじっと見つめた。


 年が四十代程の男は似合わない髭を撫でながら、スープを配っていたミリシャの前に立っている。

 彼女だって、このような状況に出くわした事などないはずだ。今すぐにでも駆け寄って、男をぶん殴ってやりたかった。

「……味が御気に召しませんでしたか? 見たところ、あなたのような身分の方が来られる場所ではありませんわ。……どうぞお引取りください」

 ミリシャは怒気を込めずに淡々とそう告げるが、あれは間違いなく怒っている目だ。

「別にこの場所に用があったわけではないさ。私とて、来たくてこのような汚い場所に来たわけではない」

 その言葉に、今度はロアがむっとした顔をするも、何も言うなと隣にいるイリシオスが左手をロアの前に出して抑える。

「人を探していてな。髪の色は金で、目の色は青。年は十六歳くらいの少女だ」

「さぁ……。存じ上げませんね、そのような人」

 明らかに自分の特徴と一致しているのに、ミリシャは顔色を変えずに即答する。

「そうかね? ここに条件に当てはまる娘が出入りしていると聞いている」

 男は周りをぐるりと見渡す。その瞳は獲物を探す獣のようだった。

「……名乗りがなければ、勝手にここを探させてもらうが、構わんかね?」

「っ! それは……っ!」

「ふむ、どうやら、わしの事かのぅ?」

 ミリシャの声に重なるように、場違いな程、のん気な声がその場に響く。一歩、前に出たイリシオスが男の全体を上から下まで見たあと、腕を組んでわざとらしい溜息を深く吐く。

「わしも金髪で、目は青いぞ?」

「年が十六歳ほどだ。お前では若い」

「ほう! 何と、褒め言葉じゃな! わしはいつも年より幼く見えてしまうのが、短所での。こう見えて、見た目よりも年をとっておるぞ」

 いつもの愉快そうな笑い声を一頻り上げて、イリシオスはふっと真顔になる。今まで、見たことのない顔だ。恐らく、彼女の本当の年相応の顔なのだろう。

「……お主のような者が何用でここへ参ったのかは聞かぬが、私用でこの場を乱すのはやめてくれぬか。お主にとってはどうでもいい事かもしれぬが、ここにおる者達にとっては、楽しみを邪魔されて、良い迷惑じゃ」

 はっきりとそう告げると、周りにいた町の人の目も男を不審がるような目から、イリシオスに同調するように、強い意思を持った瞳で男を睨み始める。どうやら、イリシオスは町の人を味方に付けたようだ。

 集まるその視線に、男は嫌気がさしたのか、苦い顔をしながら舌打ちする。

「随分と邪魔者扱いだな。……では、また日を改めて伺おう」

 男が踵を返し、教会の入口の方へと背を向けて歩き出す。

「もう、来ないで下さいっ」

 ミリシャは舌を出しながら、男が出て行ったのを確認して、扉を強く閉める。

 突然の出来事にまだ、状況を把握しきれていない町の人もいたが、やはりその表情はどこかしら、ほっとしているようだった。


「エイレーン」

 クシフォスの声にエイレーンはやっと我に返った。

「君はまだ出ない方がいい。厨房にいるんだ」

「でも……」

「その薬、誰に渡せばいいんだ」

「……あそこの壁際に座っている親子よ」

 力なく指をさして場所を教える。クシフォスは返事もせずにエイレーンが持つ、薬が入った小瓶を引っ手繰るように奪い、その親子のもとへと歩いていった。

 足がふらつき、エイレーンは壁に背中を預ける。あの男は自分がここに居ると知っている。確実に居ると知っている上で、わざとあのように振舞っていた。

 クシフォスがあの男に自分の居場所を知らせた、という事は考えられなかった。それは今までの彼を見ていれば分かることだ。恐らく、あの男はトリエ村で自分の容姿などを聞き込んで、目星を付けてここまで来たのだろう。名前までは割れていないようだが、油断は出来ない。


 ……どうすればいいの。


 自分はここに居たい。でも、居たら迷惑がかかる。矛盾していく気持ちの中、エイレーンは涙が出そうになるのだけは堪えていた。

「エイレーン?」

 扉を開けてきたのは、ミリシャだった。彼女もあの男が探していたのが自分だと気付いているはずだ。 何か言われるのか、それとも知らないふりをしているのか。

「どうしたの? 顔色が悪いわ……」

「ミリシャ……」

「手を貸すから、ここにうずくまっていてはだめよ。……そうだわ。今日は私がお茶を淹れてあげるから、あなたはひとまず厨房で休んでいなさいな。……ね?」

 いつもの、決定事項を知らせる笑顔につられて、エイレーンも何とか笑みを返す。

「そう、ね。少し疲れが出ちゃったみたい」

「それはそうよ。あれだけの料理をほとんど一人で作っちゃうんですもの! ……あとの事は私達に任せて大丈夫だから」

 ミリシャはエイレーンの腰辺りに手を回し、支えるようにしながらも歩みを誘う。


 どうして、彼女はこんなにも優しいのだろう。

 自分が何者かも知らないのに。


「……ありがとう、ミリシャ」

 力なく呟くその言葉に、ミリシャはただ笑みを返すだけだった。

   


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