九話 探り合い
学園長室に呼び出しを受けたと聞いて、ロードリオ・ベギリウスは机に突っ伏した。
正確には、呼び出したのは彼自身である。
三日前、生徒からの面談申請が届いた。差出人はセル・オリエンテ。内容は「学園長と話がしたい」。それだけだった。
断る理由がなかった。学園長とは、生徒の面談申請を断れない職である。
「なんでわしが……」
ロードリオは白髭を撫でながら、扉の外の足音を数えていた。がしゃん、がしゃん、と重い金属音が近づいてくる。
あの音だ。あの音である。
ロードリオは慌てて背筋を伸ばし、長年培った威厳ある学園長の顔を作った。
「入りなさい」
扉が開いた。
◇
「本日はお時間を賜り、感謝する」
セルは深々と一礼して、示された椅子に腰を下ろした。
やった。ついに来たぞ。
入学してから半月以上、ずっとこの機会を待っていた。
この学園で唯一、まともに話ができそうな相手がこの老人なのだ。王子は論外。ミリアは警戒対象。ノーラは何を考えているかわからない。ティナは書類の話しかしない。
その点、学園長は違う。王子のことを「腐っても王子」と言い放った男である。話が合わないはずがない。
「お茶をどうぞ」
「かたじけない」
セルは茶器を受け取り、面頬の隙間から器用に口をつけた。
ロードリオは、その所作を凝視していた。
(兜のまま飲みおったぞ、こいつ。しかも慣れとる。一滴もこぼしとらん。一体なんなんじゃこいつは)
心中の動揺を完璧に押し隠し、ロードリオは穏やかに微笑んだ。
「して。老いぼれに何用かな」
さて、どこから聞こうか。
セルは茶器を置き、少し考えた。まさか「王子の悪口を一緒に言いませんか」とは切り出せない。
「……学園長は、この学園に長くお勤めと伺った」
「三十年と少しになるのう」
「その間、この国はずいぶん変わりましたか」
ロードリオの眉が、わずかに動いた。
(探りを入れてきおった。なぜ歴史を聞く? もしや――ゲームの筋書きと照合するためではないのか?)
そこまで考えて、首を横に振った。
(いやいや待て。落ち着け。ただの世間話かもしれん)
「……変わったとも言えるし、変わらんとも言える。戦は絶えんし、飢える者も絶えん。若い者が死ぬのも変わらん」
「そうですか」
セルは短く応じた。
うわ、重い話になった。世間話のつもりだったのに。
というか、この人めちゃくちゃ長生きだな。百歳超えてるって噂だけど本当なのかな。
「……失礼を承知でお尋ねするが、学園長はおいくつになられる」
(来た)
ロードリオはさらに冷や汗をかく。
(年齢を聞いてきた。なぜだ。わしがゲームに存在しないことを不審に思っているのか? 当然の反応ではあるが……わしの正体がバレた時、こやつの反応がどうなるか恐ろしくてしょうがないわい)
「百と十八になる」
「……それは、ご壮健で」
「壮健ではないわい。腰も膝も悲鳴を上げておる。先日など、握手をしただけで右手が腫れ上がってのう」
「それは災難でしたな」
セルは真顔でそう言った。
ロードリオの手が、茶器の上でわずかに震えた。
(こいつ、こいつ絶対わかっててやっとるだろ)
しかしセルの何食わぬ甲冑をじっと見つめると、わざとらしさのかけらもなかった。本当に少し心配していそうな気配が漂っている。
(いや違う、わかっておらん顔だ。本当にわかっておらんのだこいつは!)
沈黙が流れた。
セルは天井を見た。話題がない。
「……そうだ、学園長」
「なんじゃ」
「王太子殿下のことだが」
ロードリオの姿勢が変わった。
来た。本題だ。
王太子。ゲームの攻略対象筆頭。物語の中核。こいつがそこに切り込んでくるということは、つまり――
「あれは、いつもああなのか」
「……は?」
「あの、人の話を聞かぬところだ。私は三度断った。三度とも通じなかった。あれは病か何かか」
ロードリオは茶器を静かに置いた。
それから、盛大にため息をついた。
「……あれはのう。生まれつきじゃ」
「生まれつき」
「あの子は三つの頃から、気に入ったものを追いかけ回す癖があってのう。厩の馬を三日追い回して、陛下に泣きつかれたことがある」
「三日」
「まあ馬のほうが先に音を上げたがの」
「……なるほど」
セルは深く頷いた。
やっぱりこの人、話がわかる。
「では、諦めるまで待つほかないと」
「待っても諦めんぞ。先程言ったように、あれは馬を最終的に手に入れた」
「……凄まじい根性だな」
「今も乗っておるぞ。あの白いやつじゃ」
セルは天を仰いだ。
絶望である。
ロードリオはその様子を、湯気の向こうから眺めていた。
(……なんじゃこいつ。本当にただ、王子の愚痴を言いに来たのか? ……いいや、そんなわけがあるか。この老獪なわしを騙そうとしておるのだ。そうに違いない)
「時に、セルよ」
「なんでしょう」
「オリエンテ公爵家には、娘がおったと記憶しておるが」
茶器を持つセルの指が、止まった。
ほんの一瞬である。すぐに動き出した。
だが、ロードリオはそれを見逃さなかった。
「……おられるのだろうな。私は養子ゆえ、屋敷の奥のことは存じ上げぬ」
「顔を見たことは」
「ない」
「そうか」
ロードリオは、それ以上追及しなかった。
(反応した。間違いなく反応した。この甲冑男は、セルシア・オリエンテについて何かを知っておる。そしてそれを隠しておる)
セルに対する疑念を、更に深める。
(やはり、なにかが起きておる。この世界に、わしの知らん何かが)
一方のセルは、茶を飲みながら別のことを考えていた。
やばい。今の絶対不自然だった。もっと自然に流せばよかった。
というか、なんで学園長がセルシアのこと知ってるの? お父様、そんなに漏らしてた?
二人はそれぞれに冷や汗をかきながら、実に和やかな表情で茶を飲んでいた。
◇
面談は、四半刻ほどで終わった。
「またいつでも来なさい」
「では、お言葉に甘えよう」
(来るな。二度と来るな。……いや、それもまた困るな。こやつの思惑を図らなければ取り返しのつかないことになりそうじゃ)
「学園長は、話の通じる御方だ」
(通じておらん! まったく通じておらんぞ!)
セルは満足げに一礼して、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
がしゃん、がしゃん、と足音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなってから、ロードリオは椅子の背に倒れ込んだ。
「……疲れた」
百十八年の人生で、これほど気を張った四半刻はそうそうない。戦場でもなかった。
ロードリオは茶器を置き、ふと自分の指先を見た。
先ほど、セルが部屋に入ってきた瞬間から、ずっと感じていたものがある。
冷たい。
部屋の温度ではない。魔力の流れでもない。もっと奥のほう、術者としての感覚の底に引っかかる、ごく微かな冷たさだった。
大魔術師と呼ばれた男の、何十年も培った感覚である。
「……気のせいじゃろ」
そう言っておきながら、ロードリオはありとあらゆる探知魔法を発動する。
──なにも、引っかからない。
一般の人間ならばここで何事もないと判断するだろう。だが、ロードリオは歴戦の大魔術師。決して自らの疑念を疑うようなことはない。
静かに、残った茶を飲み干す。
冷めていた。




