八話 鉄の食事
入学から半月、セル・オリエンテには学園内でいくつかの異名がついていた。
鉄の騎士。無言の剣。歩く城壁。
どれも悪くない。悪くないのだが、当の本人は別の問題で頭を抱えていた。
飯が、食えない。
正確には食えている。ただし、寮の自室で、扉に鍵をかけ、窓の鎧戸を閉め、面頬をわずかに持ち上げて、パンをちぎって隙間から押し込むという方式によってである。
スープは飲めない。汁物は諦めた。半月ずっとパンと干し肉と果物だけを食べている。
栄養が偏っている自覚はあった。
そして今、セルはさらに厄介な事態に直面していた。
「セルさん、お昼ご飯どこで食べてるんですか?」
二限目が終わった直後の廊下である。ノーラが、実に純粋な顔でそう尋ねてきた。
「……部屋だ」
「どうしてですか?」
「ひとりのほうが、落ち着く」
「じゃあ今日は食堂に行きましょう」
「話を聞いていたか?」
「班の親睦は重要です」
横からティナが書板を差し出してきた。
「班員の相互理解度は演習評価に加算されます。第七班は現在、評価が下から二番目です」
「それは私のせいではなかろう」
「壁を壊した件の始末書、まだ私が一人で書いてるんですけど」
ティナの目が、じっとセルを見ていた。
セルは、食堂へ行くことになった。
◇
学園の大食堂は、ちょっとした聖堂のような造りをしていた。
高い天井に細長い窓が並び、長机が十列以上。昼時ともなれば数百人の生徒が一斉に食事をとり、その喧騒は屋根を震わせるほどになる。
その喧騒が、セルが扉をくぐった瞬間、ぴたりと止んだ。
数百の視線が、一斉に集まる。
そして、その静寂を割って、長机の中ほどで誰かが立ち上がった。
「来た! 来ましたよ皆さん、来ました!」
「ケリー、座れ」
「座れませんって! 俺の二十六枚がかかってんすよ!」
「……いや、なんで」
「鉄の騎士が食堂に来たからでしょう」
ティナが淡々と答えた。
「半月ずっと来なかったので、学園中で噂になってましたよ。あの人は霞を食べて生きてるとか、実は鎧の中が空洞だとか」
「空洞?」
「呪われた鎧が意思を持って歩いているという説が、一年生の間で一番人気です」
「どうしてそうなる」
「セルさんが誰とも食事をしないからです」
ぐうの音も出なかった。
注目を浴びながら配膳の列に並び、トレイを受け取る。本日の献立は豆と野菜のスープ、白パン、鶏肉の香草焼き、それに果実の砂糖漬け。
列の前のほうで、小柄な背中が振り返った。
「あ、セルさん。あの」
アンナ・ロウだった。トレイを両手で持ったまま、ぺこりと頭を下げる。
「なんだ」
「……いえ。なんでもないです」
アンナはもう一度頭を下げて、列を進んでいった。
なんだったんだ、今の。
見回してみると、皆んな美味しそうなスープを飲んでいた。まあ私はどう考えても飲めないけれど。
「こっちですよ、セルさん!」
ノーラが手を振っている。第七班の四人はすでに長机の端を確保していた。
セルは覚悟を決めて、トレイを持って歩いた。
「で、どうやって食べるんだ?」
席に着くなり、ロメリオが目を輝かせて身を乗り出してきた。
この男は最初からこれが目当てだったらしい。
「……普通に食べる」
「兜を着けたままでか!?」
「そうだ」
「すごいな! 見せてくれ!」
「見るな」
セルはパンを手に取った。
面頬の下端を一寸だけ持ち上げる。隙間から素早くパンをねじ込み、即座に面頬を下ろす。
そして、咀嚼。この間、顔の露出は唇のごく一部のみ。七年かけて完成させた技術である。
周囲の生徒が息を呑む気配がした。
「おおおお……!」
「感心するな。恥ずかしい」
「いや、感心するだろう。僕にはできない」
「王子がやる必要はあるまい」
「やってみたい」
ロメリオは自分の頭を撫でながら、真剣な顔でそう言った。
「明日、僕も兜を持ってこよう」
「やめろ」
「なぜだ」
「国が傾く」
ティナが無言で書板に何かを書き込んだ。おそらく、王子の奇行に関する記録である。……どこかにリークでもする気か?
セルはあまり考えないことにした。
パンはいい。簡単に食べられる。鶏肉も、切り分ければなんとかなる。砂糖漬けは指でつまめる。
問題は、湯気を立てている椀だった。
セルはスープを見た。スープもまた、セルを見ていた。
「……これは、持ち帰る」
「冷めますよ」
「構わん」
「もったいないです」
ノーラが心底残念そうな顔をした。エルフは食べ物を粗末にするのを嫌うらしい。
セルは椀を手に取り、少し考えてから、机に戻した。
無理だ。面頬の隙間から液体を流し込めば、確実に顎を伝う。顎を伝えば、それを拭うために手を入れることになる。手を入れれば、横から覗かれる。
半月守ってきた線が、スープごときで崩れてしまう。
ああ、非常に難しい問題だ。フェルマーの最終定理よりも難しい。
「あの、それなら」
声を上げたのは、ミリアだった。
彼女は自分のトレイからストローのような細い筒を取り出し、セルの前に置いた。
「これ使えば? 魔具屋で売ってる、薬を飲むためのやつ。私、薬が苦手で持ち歩いてて」
「……」
「隙間から挿せば飲めるでしょ。試してみて」
セルは筒を見た。
鉄の指がしばらく動かなかったが、やがて筒をつまみ上げ、面頬の隙間に差し込む。そして、吸う。
豆の甘みと、鶏の出汁と、香草の匂いが口の中に広がった。
温かい。
半月ぶりの温かい汁物だった。それがどれだけ体に染みるかを、セルはこの瞬間まで忘れていた。
「どう?」
「……飲める」
「でしょ」
ミリアは満足そうに頷いて、自分の食事に戻った。
それだけだった。恩着せがましいことも、こちらの事情を聞き出そうとすることもなかった。
セルは筒をくわえたまま、俯いていた。
……なんで。
なんでこいつは、こういうことをするんだ。
……いいや、わかっている。演技だ。この女は人の懐に入るのが上手い。二周目のセルシアも、こういう小さな親切を二年ぶん積み重ねられて、気がついたら全部を預けていたのだ。
それではめられ、刺された。
だからこれは罠だ。手口が同じだ。同じなんだから、乗るわけがない。
……でも。
二周目のミリアは、そもそもセルシアに近づいてこなかった。
あの時は逆だった。セルシアのほうから話しかけたのだ。同じ日本の記憶を持つ人間がいると知って、嬉しくて、こちらから走っていった。
今回は、向こうから来ている。
しかも相手は、セルシア・オリエンテだと気づいていない。取り入る理由が、どこにもない。
「セルさん、鶏肉食べないんですか」
ノーラの声で、セルは我に返った。
「……食う」
「じゃあ、そこの骨、私がもらってもいいですか」
「骨?」
「森の子に持って帰るんです。寮の窓辺に来る鳥がいて」
ノーラは真面目な顔で言った。
この班、まともな人間が二人しかいない。
その私以外で唯一まともなティナは、食事をしながら片手で書類を書いていた。
「ホルス。それは行儀が悪いのでは」
「私が食事中に書かないと、この班の書類は誰も書きません」
ぐうの音も出なかった。二度目である。
◇
食器を返しに立ったとき、セルは食堂の反対側の列に、見覚えのある栗色の髪を見つけた。
リゼット・ファラーシュ。
彼女は数人の令嬢と食事をしていた。会話には加わっているらしく、時折口元に手を当てて笑っている。
その視線が、ふとこちらを向いた。
目が合った――ように感じた。実際には兜越しなので、合いようがない。
だがリゼットは笑うのをやめ、まっすぐにセルを見ていた。
考え込むような目だった。半月前の実技棟と同じ目だ。
セルは何食わぬ様子で食器を返し、食堂を出た。
廊下に出てから、大きく息を吐く。
あいつ、なんでこっちを見るんだ。
顔は見られていない。声も変えている。背丈も甲冑でごまかせている。
なのに、なぜ。
思い当たる節がないまま、セルは足早に廊下を歩いていった。
その答えを、セルはまだ知らない。
剣を握るとき、セルの左手の小指がわずかに浮く。八歳の頃、木剣の握りを直されるたびに直らなかった癖である。
その握り方を隣で見て笑っていた少女が、今この学園に、ひとりだけいた。




