十話 エルナの森
*9月21日、タイトルとあらすじを一部変更いたしました。
課外演習の朝は、よく晴れていた。
学園から馬車で半日。王都の北に広がるエルナの森が、一年生の初の実地訓練場である。魔物の生息が確認されているが危険度は低く、毎年この時期に使われているという。
「セルさーん!」
馬車を降りたところで、後ろの班から声が飛んできた。ダン・ケリーが手を振っている。
こいつは私を見るたびに声をかけてくる。大方賭けの対象にしているからだろうが、不思議と不快感はそこまで感じなかった。
「俺ら南の区域っす! 兎が出てこなかったら穴掘って待ち伏せします!」
「罠か。自分でかかるなよ」
「大丈夫です! 土属性なんで、穴の位置は常にわかります!」
ダンは元気よく南へ去っていった。
「あの人、先週中庭で落とし穴を掘って、自分で落ちてますよ」
ティナが書板から顔も上げずに言った。
「ちなみにその報告書を書いたのは私です」
アピールも欠かさない。隙のない女だ。
セルは、朝から機嫌がよかった。
森だ。実地だ。本物の魔物だ。
これはもう、ほとんど冒険者である。依頼を受けて森に入り、魔物を狩る。細かいことを言えば学園の授業だが、細かいことは言わない主義だった。
「セルさん、なんだか嬉しそうですね」
隣を歩くノーラが、そう言って顔を覗き込んできた。
「そうか?」
「足取りが軽いです。あと、さっきから鼻歌が漏れてます」
「漏れていない」
「漏れてます。がしゃがしゃ言ってるので気づきにくいですけど」
セルは口を閉じた。
演習の内容は単純だった。班ごとに区域を割り当てられ、日暮れまでに指定の魔物を三体討伐して戻る。教官は各区域の境界に待機し、緊急時のみ介入する。
「第七班の区域は北東です。距離は約一里、道は一本道なので迷いません」
地図を広げたティナが、全員に向かって説明した。
「討伐対象はホーンラビット。角のある兎です。危険度は最低ですが素早いので、追い回すより待ち伏せが推奨されています」
「兎」
ロメリオが不満そうな声を出した。
「もっと手応えのあるものはいないのか」
「いたら我々が死にます」
「そうか」
「そうです」
ティナは地図を畳んだ。
森に入ると、空気が変わった。
朝露の匂いと、土と落葉の匂い。頭上では葉が擦れ合い、時折鳥が鳴く。木漏れ日が地面に斑を落としている。
セルは兜の中で、静かに息を吸った。
いい。すごくいい。
前世の恵理子は、こんな森を画面の中でしか見たことがなかった。今世のセルシアも、屋敷の庭と訓練場と処刑台しか知らなかった。
今、その足で落葉を踏んでいる。
結論から言えば、討伐は呆気なく終わった。
ノーラが気配を探り、ティナが射線を確保し、ミリアが最低出力で足止めをして、セルが斬った。三体を仕留めるのに、半刻もかからなかった。
「……連携が、できてしまったな」
ロメリオが感慨深そうに言った。
「殿下は今日、何もしてませんが」
「見守るのも仕事だ」
「後衛は待機ですからね」
一同が笑った。セルも、兜の中で少しだけ笑った。
時間が余ったので、班は開けた場所で休憩を取ることにした。
ミリアが持参の焼き菓子を配り、ノーラが水袋を回し、ティナが討伐記録を書く。ロメリオは倒木に腰を下ろし、剣の手入れを始めた。
柔らかい午後だった。
セルは少し離れた切り株に座り、その光景を眺めていた。
……悪くないな。
思ってしまってから、慌てて打ち消した。
いや、悪い。相当悪い。目の前にいる二人は、私を二回殺した人間だ。
わかっている。わかっているのだが。
木漏れ日の下で焼き菓子を配る少女の姿は、どうにも、処刑台の下で泣いていた女と繋がらない。
「セル。これを見てくれ」
ロメリオが声をかけてきた。
「なんだ」
「さっきの兎で、刃が欠けた」
「そうか」
「そうかって……たかが兎だぞ。特注品なのに」
「角があるだろ」
「角があっても兎だろう。僕の剣は、今日、兎に負けたんだ」
全く、どうでもいいことをぐちぐちと。王子なんだから金はいくらでも持っているでしょ。
そう悪態をついていると、ロメリオが立ち上がった。
手には、抜き身の剣。
彼はそれを陽にかざしながら、欠けた箇所を見せようと体ごとこちらに向き直り――
剣の切っ先が、セルを向いた。
その刹那、世界から音が消えた。
――不愉快だ。
ロメリオの声がした後、胸に冷たいものが入ってくる感覚があった。
壊れた蛇口から水が出るように、血が溢れていく。見下ろせば、鎧などどこにもなく、ドレスの胸に深々と剣が刺さっている。
顔を上げる。剣を握っているのは、この男だ。
――一刻も早く死んでくれ。
「セル?」
声が、遠い。
息が、吸えない。
吸おうとするのに、喉の途中で何かが閊えて、空気が肺まで届かない。視界の縁が黒く狭まっていく。指先の感覚が消える。心臓だけが、耳の奥で狂ったように鳴っている。
膝が落ちた。
鎧が地面を打つ音が、ひどく遠くで聞こえた。セルは四つん這いになり、面頬を跳ね上げて、草の上に嘔吐した。
周囲が凍りついた。
「セル! おい、どうしたッ!」
ロメリオが駆け寄ってくる。
「セルさん!?」
「……っ」
声を出そうとしたが、出なかった。喉が鳴るだけで、言葉にならない。
肩に、手が置かれた。
その瞬間、セルの体が弾かれたように跳ねた。地面を掻いて、後ろへ下がろうとする。だが腰に力が入らず、肘から崩れて落葉の上に倒れ込んだ。
「え……」
ロメリオが、伸ばした手を宙に浮かせたまま固まっている。
「僕、何か」
「殿下、どいてください!」
ミリアが割り込んできた。
「セル、セル。聞こえる?」
いや、やめて。来ないで。
「熱は……ないよね。外傷も見当たらない。どこか痛いの? 痛いところ、教えて」
セルは答えられなかった。目は開いているのに、焦点がどこにも合っていない。
「毒でしょうか。さっきの兎、角に毒があるとは書いてませんでしたけど」
ティナが記録板を投げ捨てて膝をついた。
「わかりません。とにかく教官を呼びます」
「お願い! ノーラちゃん、水!」
「は、はい!」
ノーラが荷に飛びついた。ティナが森の中を走っていく。
ロメリオは、まだその場に立っていた。
自分の手を見て、セルを見て、また自分の手を見る。何が起きたのかまったく理解できていない顔だった。
「……僕が、触れたからか?」
誰も答えなかった。答えられる者がいなかった。
ロメリオは、セルの傍らに膝をつこうとした。
跪くために、右手に握っていた剣を、そっと地面に置いた。
刃が落葉の上に横たわる。
――ひゅう、と。
セルの喉から、細い音が漏れた。
空気が、入った。
「あっ、息! 息してます!」
ノーラが叫んだ。
「セル、大丈夫だからね! 今、教官が来るから!」
ミリアが水袋を差し出す。手が震えていた。
セルは、それを飲むことができなかった。ただ、落葉の上に投げ出された剣を、遠くなっていく視界の端でぼんやりと見ていた。
鞘に、収めてほしい。
そう思ったのを最後に、意識が途切れた。




