十一話 鉄の下
目を覚ました時、最初に感じたのは風だった。
頬に、直接。
セルシアは跳ね起きた。
天幕の中だった。簡易寝台に寝かされ、胸当てと籠手が外されている。そして、頭が軽い。
兜が、ない。
「あ、起きた」
寝台の脇に、ノーラが座っていた。
膝の上に、セルシアの兜を抱えて。
時間が止まった。
次の瞬間、セルシアはノーラの手首を掴んでいた。
「あいたっ」
短い悲鳴で、我に返る。
握力を緩めると、ノーラの手首には指の跡がくっきりと赤く残っていた。
「……ごめん」
口から出たのは、地の声だった。
低く作る余裕も、言葉を選ぶ余裕もなかった。
「大丈夫です。びっくりしただけなので」
ノーラは手首をさすりながら、へらりと笑った。
その目が、まっすぐにセルシアの顔を見ている。
見られてる。
今、この瞬間、正面から、完全に。
「……いつから」
「一刻くらい前です。呼吸が浅かったので、外しました。首まで覆う兜なので、喉が締まってたみたいで」
「他に、誰か見た?」
「いません。天幕には私だけです。ミリアさんは教官のところで、ホルスさんは記録を出しに行って、殿下は……外で反省してます」
「反省?」
「ずっと立ってます。自分のせいだって言って」
セルシアは天幕の布地に目をやった。
薄い布の向こうに、確かに人影が立っている。動かない。
あいつ、本当に立ってるんだ。
でも、今はそれどころじゃない。
セルシアは深く息を吸った。
どう言い訳する。
顔を見られた以上、傷が残っているという嘘は使えない。この顔にはかすり傷ひとつない。女だということも、もう隠しようがない。
殺すか。
その考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
この子を消せば、秘密は守られる。何度も殺されて蘇っている私に、そのくらいの判断は――
……いや。
セルシアは、自分の手を見下ろした。
さっきの、指の跡が残った細い手首を思い出す。
何考えてんの、私。
「あの」
ノーラが口を開いた。
「言わないですよ、誰にも」
「……なんで」
「言ったら、セルさんが困るからです」
あまりにも簡単な答えだった。
それだけ、と聞き返しそうになって、セルシアは口を閉じた。
この子にとっては、たぶん本当にそれだけなのだ。
「……理由、聞かないの」
「聞いてほしいですか?」
逆に問い返されて、言葉に詰まった。
沈黙が落ちた。天幕の外で、鳥が鳴いている。
セルシアは寝台の上で膝を抱え、そこに額を乗せた。
「……私、孤児なの」
それは、嘘だった。
「物心つく前に拾われて、公爵家で育てられた。剣の才があったから拾われただけ。それ以外の価値はない。男として登録されてるのも、そのほうが都合がよかったから」
嘘のはずだった。
なのに、口にした瞬間から、妙に喉が痛くなった。
「女だってわかったら、あの家は私を置いておく理由がなくなる。剣士としての価値も半分は落ちる。……行くところが、ないんだよね」
嘘だ。セルシア・オリエンテには家がある。父がいる。屋敷がある。
ないのは、名前だ。
八歳のあの日から、セルシア・オリエンテという人間は世界から静かに消されていった。屋敷の使用人は入れ替わり、社交の場に娘の話は出なくなり、養子の少年だけが残った。
嘘をついているのに、嘘をついている気がしない。
「だから、隠してる。それだけ」
言い終えて、セルシアは顔を上げた。
ノーラが、こちらを見ていた。
薄緑の瞳が、大きく見開かれている。頬が、はっきりと赤くなっていた。
「……なに」
「あ、いえ」
ノーラは慌てて視線を落とし、それからまた上げ、また落とした。
「その、思ってたのと、違ったので」
「何が」
「顔です」
セルシアは自分の頬に手をやった。
「傷だらけだと思ってました。噂で。……そうじゃなくて、ええと」
ノーラの口が、開いて、閉じた。
「すごく、きれいだったので」
天幕の中が、静まり返った。
セルシアは何秒か固まったあと、ぶっきらぼうに顔を背けた。
「……そう」
知ってる。鏡で毎日見てるから知ってる。
でも、人に言われたのは初めてだった。
この顔は十七年ぶんの人生のうち、ほとんどの時間を鉄の下に隠されてきた。褒められる機会なんて、あるはずがなかった。
なんだか妙な気分だ。
「あの、セルさん」
「なに」
「言わないって言いましたけど、それだけだと足りない気がするので」
ノーラが兜を膝から下ろして、まっすぐに座り直した。
「あなたのことは、私が守ります」
「……は?」
「行くところがなくなったら、うちに来てください。エルフの里は人間の戸籍とか関係ないので、誰も追ってこられません。母には私から話します」
「待って。いや、待ってよ」
「あと、誰かがあなたの顔を見ようとしたら、私が間に入ります。矢は得意なので」
「射たないで」
「威嚇です」
「威嚇もしないで」
ノーラは真剣な顔で頷いた。まったく引き下がる気配がなかった。
セルシアは額を押さえた。
なんなの、この子。
会って一月も経ってない。素性も知らない。今日初めて素顔を見たばかりの相手に、里に来いって言うのか。
馬鹿じゃないの。
……でも。
二度の人生で、セルシアに向かってそんなことを言った人間は、ひとりもいなかった。
父も、婚約者も、友達だと思っていた子たちも、最後は全員が向こう側に立った。処刑台の下から見上げてくる顔ばかりを覚えている。
セルシアは、膝を抱え直した。
「……好きにして」
「はい」
「でも、矢は駄目」
「善処します」
「善処じゃなくて約束して」
ノーラが笑った。
その笑顔を見ていたら、なぜだか胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
……私は、生き抜くと決めたの。
もう、殺されたくはなかった。だから生き抜くためにあらゆる手段を使う。──そのためなら、人を殺す覚悟だってあるはずだ。
なのに、この少女に嘘一つつくだけで、酷く心が締め付けられる。
……なにしてんのよ、私。
王子に剣を向けられただけで吐き、気絶し、嘘一つついただけで心を痛める。
こんなんじゃ、こんなんじゃダメだ。
思いつめていると、ノーラが手を握ってきた。
思わず顔を上げる。ノーラの視線と手は、とても暖かかった。
──今回の人生では初めて、私は心の底から人を信頼したいと思えた。




