十二話 夜の素振り
学園に戻ってから三日、セルは剣を握っていなかった。
正確には、握れなかった。
訓練場へ行けば、誰かが必ず剣を抜いている。抜き身の刃が視界に入ると、指の先が冷たくなる。その程度で済むならいい。悪い時は、喉の奥が塞がる感覚がやってくる。
演習からの帰り道もひどかった。馬車に揺られている間、御者が腰に佩いた剣の柄が視界に入るたびに、心臓が跳ねた。兜のおかげで誰にも気づかれなかったのが救いだった。
噂は、当然のように広まっていた。
「鉄の騎士が森で倒れたって」
「毒だって聞いたけど」
「呪いって説もあるわよ。あの鎧、呪われてるって前から言われてたし」
「やっぱり中身が空洞だったんじゃない?」
空洞説の根強さに、セルは軽く感心した。
訂正する気はなかった。毒でも呪いでも空洞でもいい。真相よりはるかにましだ。
その真相とは、王子に剣を向けられて吐いた、である。
◇
四日目の昼、ロメリオが来た。
セルが中庭の隅で昼食のパンをかじっていると、まっすぐに歩いてきて、目の前で止まった。
「セル」
「……なんだ」
「すまなかった」
ロメリオは、深く頭を下げた。
王族が生徒に頭を下げている。中庭にいた生徒たちが、一斉にこちらを見た。
「やめろ。目立つ」
「僕のせいなんだろう」
セルは言葉に詰まった。
「僕が剣を持ってから、君はおかしくなった。ホルスがそう、記録していた」
あの女、そこまで記録してたのか。
「……気のせいだ」
「気のせいじゃない」
ロメリオが顔を上げた。
その目は真剣で、そして、ひどく困っていた。
「僕は理由を聞くつもりはない。君が言いたくないなら、それでいい。ただ、これからは君の前で剣を抜かないようにする。演習でもだ」
「待て」
さすがに、セルは止めた。
「お前、後衛とはいえ実習がある。剣を抜かねば単位が」
「単位より君のほうが大事だろう」
あまりにもさらりと言うので、セルは二の句が継げなかった。
「だいたい、僕の剣は兎にすら負けた剣だ。しばらく鞘に入れておいても、誰も困らん」
それは、この男なりの冗談だった。
言った本人がまったく笑っていないので、冗談だと気づくのに少しかかった。
この男は、そういう男だった。
馬を三日追いかけ回す男で、気に入った相手を相棒と呼んで聞かない男で、自分の落ち度だと思えば衆人環視の中で頭を下げる男である。
セルは、パンを持つ手に目を落とした。
鎧の下で、頭が二つに割れそうだった。
この男が私を殺した。一周目も二周目も、最後に剣を突き立てたのはこいつだ。「不愉快だ。一刻も早く死んでくれ」と言った声を、私は二回聞いている。
でも。
目の前にいるこいつは、まだ誰も殺していない。
私が虐めていないから、私を憎んでもいない。私が誰かも知らない。ただ、木を斬ったのを見て勝手に気に入って、勝手に付きまとって、勝手に頭を下げている。
こいつを憎むのは、本当に正しいのか。
……なに考えてるの。正しいに決まってるでしょ。
セルは頭を振った。
二回だ。二回殺されてるんだ。忘れられるわけがない。
「セル?」
「……なんでもない」
「顔色が悪そうだが」
「見えるわけがなかろう」
「そうだった」
ロメリオは真面目な顔で頷いた。
こいつ、本当に頭が悪い。
「ひとつだけ聞かせろ」
「なんだ」
「なぜ、そこまでする」
ロメリオは少し考えてから、こう言った。
「君が、僕を見ないからだ」
「……は?」
「みんな僕を見る。王子だから見る。だが君は、初めて会った時から僕を見ていなかった。あの時、君は僕を見て、心の底から面倒くさそうな顔をした」
「兜をつけていたぞ」
「わかるさ。あれだけ露骨だと」
バレてたのか。
「僕の周りに、あんな顔をする人間はひとりもいなかった。だから、君と一緒にいたいと思った。それだけだ」
ロメリオはそう言って、にっと笑った。
セルは、パンの残りを口に押し込んだ。
面頬の隙間からパンをねじ込む動作を、これほど無心でやったことはない。
「……勝手にしろ」
「ああ、勝手にする」
「あと、剣は普通に抜け。単位を落とすな」
「では、抜く前に必ず声をかける」
「……好きにしろ」
ロメリオは満足そうに頷いて、去っていった。
残されたセルは、中庭の石壁にもたれていた。
午後の鐘が鳴って、生徒たちが教室へ流れていく。その流れが途切れても、セルはまだそこにいた。
……最悪だ。
憎みにくくなってる。
◇
その日の夜、セルは訓練場へ向かった。
消灯後の訓練場は無人だった。月明かりだけが砂地を照らしている。
セルは中央まで歩き、剣を抜いた。
自分の剣である。自分の手が握っている。それでも、刃が月光を反射した瞬間、指先がわずかに強張った。
……大丈夫。
息を吸う。吐く。
上段に構え、振り下ろす。
風を切る音が、夜の訓練場に響いた。
もう一度。もう一度。
セルは黙々と剣を振り続けた。何の工夫もない、ただの素振りである。十歳の頃から数えれば何万回とやってきた動作だ。
強くなるしかなかった。
二度目の人生で、彼女が出した結論はそれだけだった。誰も守ってくれないなら、自分が誰より強くなればいい。剣を握っている限り、あの台に上がることはない。
そう信じて、七年振り続けた。
その結果が、これだ。
剣を向けられただけで吐いて、動けなくなって、班の全員に介抱された。最強の剣士が、剣を怖がっている。
三百回を超えたあたりで、腕が上がらなくなった。
セルは剣を杖のように地面に突き立て、肩で息をした。汗が兜の内側を伝って顎へ落ちていく。
……次は。
次はもっと早く鍛えよう。もっと強くなろう。
そうすれば、大丈夫になる。
きっと、そうだ。
月が、砂地に長い影を落としていた。
訓練場の入口の柱に、栗色の髪の少女がもたれて、その背中を見ていた。
リゼット・ファラーシュは、剣を振るセルの左手をずっと見ていた。
小指が、わずかに浮いている。
彼女はそのまま、何も言わずにその場を離れた。




