十三話 プリン
寮の共同厨房が使えるのは、週に一度だけである。
その日の午後、第七班はそこに集まっていた。
「本日は班の親睦を深めます」
ティナが宣言した。
「先日の演習評価は下から三番目でした。前回より一つ上がっていますが、これはセルさんが倒れたことによる同情点が含まれているので、実質は横ばいです」
「同情点で上がるものなのか」
「上がります。演習評価は三割が教官の裁量なので。生徒が倒れた班を最下位につけると、教官は理由書を出さないといけないんです」
「……理由書」
「教官も書類は嫌いなので、だいたい一つ繰り上げて終わりにします」
「それは評価と言えるのか」
「言えません。ただ、記録には残ります。記録に残ったものは、配属を決める時にそのまま使われます」
ティナは書板をめくった。
「相互理解度の評価は、共同作業の記録で補えます。よって本日は調理実習を行います。作るのは菓子です」
「なぜ菓子だ」
「ミリアさんが作りたいと言ったからです」
理由が薄かった。
「だって、せっかく厨房が使える日だし」
ミリアはすでに袖をまくって、調理台に材料を並べていた。卵、砂糖、牛乳、小麦粉。手つきに迷いがない。
セルは厨房の入口で足を止めていた。
……帰ろ。
いや、帰ろう。今ならまだ間に合う。廊下に出て、角を曲がって、部屋に戻って鍵をかければ、今日という日はなかったことになる。
なるでしょ。なるって。なるはず。
だって、こういうのは、よくない。
二周目、まったく同じことがあった。ミリアに誘われて厨房に行って、二人で何かを焼いて、それがやたらと楽しくて、気づいたら毎週通っていた。
入口が、同じなんだよ。
「セルさん、どうしたんですか?」
ノーラが後ろから顔を出した。
「……いや」
「入りましょう。私、お菓子好きです」
背中を押された。エルフの割に力が強かった。
というか、この子の押し方、遠慮が完全にないんだよな。三歩ぶん前に進んでるんだけど。私、三十貫あるんだけど。
廊下の先では、別の班が順番待ちをしていた。
「あっ、セルさん! 次っすか!? 俺ら次なんすけど!」
「知らん」
「先に使うなら先に言ってくださいよ、俺もう粉こねる気持ちになってるんで!」
「気持ちを戻せ」
ダン・ケリーの声を背中で聞きながら、セルは厨房に押し込まれた。
◇
調理は、開始三十秒で混沌に突入した。
「殿下、卵を割ってください」
「任せろ」
ロメリオが卵を握った。
握り潰した。殻ごと。指の間から中身が垂れている。
「……殿下」
「うむ」
「力を込めないでください。叩いてください」
「叩けばいいのか」
ロメリオは二個目を手に取り、調理台に叩きつけた。
爆散した。破片が三人にかかった。
「殿下」
「今度は力を込めなかったぞ」
「込めてください。加減してください」
「どっちなんだ」
「加減です」
「加減とは何だ」
厨房が静まった。
嘘でしょ。
十五年生きてて、卵を割ったことが一回もないの? 朝ごはんどうしてんの。誰かが割ってくれるの? 割る係がいるの?
……いるんだろうなあの家には。卵を割るためだけに雇われた人間が、たぶん三人くらいいる。
三個目。ロメリオは真剣な表情で卵を持ち、そっと調理台の縁に近づけ、触れるか触れないかの位置で止めた。
「……触れた」
「割ってください」
「割れないぞ」
「当たってないからです」
四個目でようやく殻にひびが入り、五個目で成功した。ロメリオが拳を突き上げた。
「割れたぞ!」
「おめでとうございます。残り十二個です」
「まだあるのか!?」
「殿下は座っていてください」
ロメリオは静かに椅子に座った。
その背中には、達成感と敗北感が半々に滲んでいた。
一方、調理台の反対側では、ノーラが砂糖の壺に指を突っ込んでいた。
「イスリルさん」
「はい」
「それ、材料です」
「知ってます」
「返してください」
「……もう少しだけ」
「いま舐めたでしょう」
「舐めてないです。触っただけです」
「指が口に入っていました」
ノーラは名残惜しそうに壺を返した。
三十秒後、また指が入っていた。
「イスリルさん」
「これは味見です」
「三回目です」
「三回目の味見です」
「味は変わりましたか」
「甘いです」
ティナが両手で頭を抱えた。
この班、まともなの一人しかいないんだよな。
セルは、粉をふるう係を任されていた。甲冑で細かい作業は無理だと判断されたためである。
がしゃん、がしゃん、と鉄の腕で篩を振る。
あ。
これ、楽しい。
地味なのに楽しい。ずっとやってられる。同じ動作を延々繰り返すことにかけては、七年間素振りしかしてこなかったこの私が学園で一番のはずで、つまり私はこの厨房で最強の篩振りということになる。
なにその称号。いらない。
いらないけど、ちょっと嬉しい。
調子に乗って振りすぎた。
ふるった粉が、兜の隙間から入ってきた。
「……ごほっ。ごほごほっ」
「セルさん、大丈夫ですか」
「問題ない」
問題は大いにあった。喉の奥が完全に粉だった。水が飲みたい。飲めない。なんで飲めないの。なんで私は兜を被ってるの。自分で被るって言ったからでしょ。八歳の私、ちょっと出てきて。
「篩の速度を落としてください。粉が舞っています」
「……善処する」
「善処ではなく約束してください」
どこかで聞いた台詞だった。
「はい、じゃあこれ混ぜてー」
ミリアが鍋を火にかけながら、次々と指示を飛ばしていく。
この女は、こういう時だけ妙に手際がよかった。魔法の出力調整は壊滅的にできないくせに、砂糖の量は目分量でぴたりと合わせる。火加減も正確だった。
「ペネシスさん、慣れてますね」
「実家がパン屋だからね」
「ああ、なるほど」
セルは篩を振る手を止めた。
……そうだった。
ミリア・ペネシスは、王都の裏通りにあるパン屋の娘である。平民の少女が聖女として見出される、というゲームの筋書きの出発点だ。
二周目、セルシアはあの店に行ったことがある。
朝の五時に叩き起こされて、まだ暗い厨房で焼きたてを食べた。父親が無愛想で、母親がやたらとよく喋る人だった。窯の前は暑くて、粉だらけで、やかましくて、それでも楽しかった。
覚えている。全部覚えている。
ただ目の前のミリアは、そんなことがあったことすら知らない。
「よし、できたー」
ミリアが鍋から型を取り出した。
湯気の立つ、黄色い塊である。表面に薄い茶色の層があり、甘い焦げの匂いがした。
「……なんだ、これは」
「プリンだよ」
セルの手から、篩が落ちた。
鉄の音が厨房に響き、全員が振り返った。
「あ、すまん。手が滑った」
慌てて拾い上げながら、セルは兜の中で歯を食いしばっていた。
プリン。
プリンて言った。今こいつプリンて言った。プリンて。
この世界に、そんな菓子はない。ない。絶対にない。卵と牛乳と砂糖を蒸し固めるという発想自体が、この大陸の菓子作りには存在しない。私が七年かけて確認した。屋敷の料理長に三回聞いた。
あいつ、前世の再現やってる。
しかも堂々と。王子の前で。班長の前で。
「プリン? 聞かぬ名だな」
ロメリオが首を傾げた。
「えっと、そう、私の地元のお菓子で」
「地元とはどこだ」
「王都の……裏通りの」
「王都に僕の知らぬ菓子があるのか」
「殿下は王都の裏通りをご存じないので」
ティナが横から助け船を出した。助け船なのか追撃なのか微妙なところだった。
「そうか。僕は王都を知らぬのか」
「城はご存じでしょう」
「城は知っている」
「ではだいたいご存じです」
「……そうなのか?」
ロメリオが納得した。納得するな、とセルは思った。
ミリアは冷や汗をかきながら、皿に取り分けていく。
……こいつ、何やってんの。
危ないに決まっている。前世の知識をこんな場所で披露すれば、勘のいい人間には引っかかる。現に私は引っかかった。一発で引っかかった。
なのにこの女は、平気な顔で型から出している。
なぜか。
答えは呆れるほど単純だった。
こいつ、単に食べたいだけだ。
ミリアが皿を配っていく。ロメリオに、ティナに、ノーラに。
ノーラが一口食べた瞬間、耳がぴんと立った。
「おいしい」
「でしょ」
「おいしいです。これ、おいしいです」
「そんなに?」
「エルフの里に持って帰りたいです」
「腐るよ」
「腐らせません」
「腐るって」
ノーラが真剣な顔で皿を抱え込んでいる。ティナが「持ち帰りには保存の申請が」と言いかけて、やめた。
そして最後に、セルの前に一皿が置かれた。
その隣に、あの細い筒が置かれた。
「これ、崩せば吸えるから」
「……」
「食べられるでしょ、これなら」
ミリアはそれだけ言って、自分の皿に戻っていった。
セルは、皿を見下ろしていた。
半月前の食堂と、同じだ。恩着せがましさがない。事情も聞かない。ただ、食べられる形にして、置いていく。
鉄の指が、筒を摘まんだ。
崩したプリンを吸う。
甘い。卵の匂いがする。少し焦げた砂糖の苦みが、後から追いかけてくる。
恵理子が、コンビニで百二十円で買っていた味だった。
……ずるい。
喉の奥が、勝手に熱くなる。
ずるいでしょ。ずるいって。こんなの、ずるい。
私が何年ぶりにこれ食べたと思ってるの。何年どころじゃないでしょ、人生二回ぶん越えてるでしょ。それを、こんな、週に一度しか使えない寮の厨房で、しれっと出してくるな。
「セルさん、おいしいですか」
ノーラが覗き込んできた。
「……ああ」
「よかったです」
「なぜお前が嬉しそうなのだ」
「セルさん、普段あんまり食べないので」
そう言われて、セルは黙った。
この子は、こういうところを見ている。
全員が食べ終わった頃、ノーラがそっと手を挙げた。
「ミリアさん。私、もう一個食べたいです」
「あるよ。二つ余分に作ったから」
「わあ」
「ホルスさんも食べる?」
「私は結構です。糖分は集中力を削ぐので」
「じゃあ半分こしよっか」
「……半分なら」
「半分なら削がれないのか」
「削がれ方が半分になります」
「そういうものか」
「そういうものです」
厨房に、笑い声が響いていた。
セルは、そこに座っていた。
◇
自室に戻って、セルシアは扉に背をつけたまま、ずるずると座り込んだ。
兜を外す。
ゆっくりと息を吐いた。
……やばい。
やばいやばいやばい。
楽しかった。めちゃくちゃ楽しかった。
粉にむせて、王子が卵を爆散させて、エルフが砂糖を三回舐めて、ティナが頭を抱えてた。あの中に私がいた。鉄の塊のくせに、ちゃんと一人ぶんの場所を空けてもらって、そこに座ってた。
そして、あの女がいた。
演技だ。そう思おうとした。
でも、無理がある。
私が甲冑の男だってことしか知らない相手に、二年がかりの演技をする理由がどこにあるの。取り入る価値なんてないでしょ。公爵家の養子で、魔法も使えなくて、班の評価を下げてるだけの人間なのに。
それなのに、あの女は。
筒を置いて、プリンを置いて、何も聞かずに帰っていく。
セルシアは膝を抱えた。
わかってる。
わかってるんだよ。
二周目も、ここから始まったんだ。
同じように親切にされて、同じように嬉しくなって、同じように信じて、二年かけて、全部預けて。
それで、あの台に立った。
だから、これは罠だ。罠のはずなんだ。
なのに。
口の中に、まだ焦げた砂糖の味が残っている。
「……なんで、覚えてないのよ」
誰もいない部屋で、セルシアはそう呟いた。
覚えていてくれれば、憎めたのに。




