三話 井戸の底
入学式の三日前、セルは城下町にいた。
「本当に、本当におひとりでよろしいのですか」
屋敷の門まで見送りに出たセバスが、そう言って三度目の確認をしてきた。
「いいって言ってるでしょ。護衛もいらない」
「しかし、お嬢さ――お坊ちゃまは、その」
「その?」
「……大変、目立ちますので」
「目立たないわよ」
セルはそう言って、全身鎧のまま石畳へ踏み出した。
がしゃん、がしゃん、と朝の通りに金属の音が響く。
通行人が、全員振り返った。
……ちょっとだけ目立つかも。
まあいい。顔さえ見られなければ問題はない。今日はこの七年、ろくに外へ出ていなかったぶんを取り返す日なのだ。
オリエンテ領を出て王都に着いたのが昨日。学園の寮に入るのは明後日。つまり今日は、生まれて初めての完全な自由時間である。
行きたいところは、山ほどあった。
まず通りの端から端まで歩いてみることにした。
パン屋の前を通ると、焼きたての匂いが兜の隙間から入ってくる。布地屋の店先には見たこともない色の反物が並び、香辛料の店からはくしゃみが出そうな匂いが漂ってくる。露店の親父が声を張り上げ、荷馬車が石畳を鳴らして通り過ぎ、その脇を犬が走っていく。
すごい。全部ある。
前世の画面の中では、城下町はただの背景だった。クリックしても何も起きない絵。それが今、匂いも音もある本物として目の前にある。
二周目のセルシアも、この通りをまともに歩いたことはなかった。馬車の窓から見ただけだ。公爵令嬢が露店で買い食いをするなど、考えたこともなかった。
感動していると、正面から歩いてきた小さな子供と目が合った。四歳くらいだろうか。
子供は甲冑を見上げ、見上げ、見上げて、泣き出した。
「ひぃえええええん!」
「お、おい待て、違う違う、怖くない、怖くないから」
慌ててしゃがみ込んだのが逆効果だった。目の前で鉄の塊が動いたことで、泣き声が倍になる。
「す、すみません騎士様! うちの子が失礼を!」
「いや、こちらこそ」
母親らしき女性が青い顔で子供を抱き上げ、ぺこぺこと頭を下げて去っていった。
セルは立ち尽くしたまま、自分の手を見下ろした。籠手に覆われた、鉄の手である。
……そうか。私、今こう見えてるのか。
考えてみれば当たり前の話だった。甲冑を着た人間が朝の商店街をうろついていれば、それは物々しい。この七年、周りにいたのは事情を知っている屋敷の人間ばかりだったから、気づく機会がなかっただけだ。
少しだけしょんぼりしたが、切り替えることにした。落ち込んでいる時間がもったいない。
昼になって、串焼きの屋台の前で足を止めた。甘辛い匂いがする。
「ひとつ」
「あいよ、銅貨二枚。……兄ちゃん、もしかして騎士様かい」
「まあ、そんなところだ」
「立派なもんだね。うちの倅も騎士になるって聞かなくてさ。あんた見たら諦めるかもな、こんな重そうなもん着てちゃ」
「重い」
「だろうな」
親父は笑って、串を一本多く寄越した。
代金を払って串を受け取ったところで、重大な問題に気がついた。
……これ、どうやって食べるの。
兜は外せない。顔を見られるわけにはいかない。かといって、せっかく買った串焼きを持ち帰るのも味気ない。
セルはしばし硬直したのち、人気のない路地へ移動した。
周囲を三度確認し、誰もいないことを確かめてから、兜の面頬をわずかに持ち上げる。
隙間から肉を押し込み、噛む。
「んっ、おいし……」
美味しかった。屋敷で出るどんな料理より、どうしようもなく美味しかった。脂と煙と、少し焦げた塩の味。
路地の壁にもたれて、セルは黙々と串を食べた。誰にも見られない場所で、鉄兜の隙間から肉を食べる公爵令嬢である。
みじめさと幸福が半々だった。それでも、半分は確かに幸福だった。
串を三本食べてから、セルは大通りに戻った。
次に足が向いたのは、冒険者ギルドだった。
石造りの大きな建物で、両開きの扉が開けっぱなしになっている。中からは酒と汗と鉄の匂い、そして絶えず人の声が漏れていた。
壁一面に依頼の紙が貼られ、屈強な男たちがそれを睨んでいる。カウンターでは怪我をした若い男が、受付嬢に説教されていた。
「だから、三人で行けって言いましたよね」
「いや、あの、行けると思って」
「思って、で腕を折られたら意味がないんです」
「すんません」
「治療費、報酬から引きますからね」
セルは扉の少し手前で立ち止まり、その光景を眺めていた。
いいなあ。
入りたい。今すぐ登録して、一番簡単な依頼を受けて、帰りに酒場で報酬を数えたい。前世で百回は妄想した光景が、扉ひとつ向こうで実際に動いている。
だが、十五歳の登録には保護者の同意がいる。バハムート・オリエンテがそれに署名する日は、たぶん来ない。
三日後には学園だ。
セルは大きくため息をついて、ギルドに背を向けた。
まあ、卒業したら行けばいい。それか、途中で抜け出してもいい。どうせ一度死んだ身なのだ。やりたいようにやる。
そう思い直したところで、ふと、あることを思い出した。
あ。そうだ、あれ回収しとこう。
『断罪の先へ』には、攻略情報を見なければまず辿り着けない隠しアイテムがいくつか存在する。そのひとつが、城下町の古井戸の底に沈んだ聖なる護符だった。
装備するだけで魔法防御が跳ね上がる代物である。
二周目のセルシアは、これを実際に自分の手で拾い上げていた。十三の年に、屋敷を抜け出して泥まみれになりながら引き上げたのだ。ゲームの中では二章まで取得できない扱いになっていたが、現実の井戸には最初から沈んでいた。
場所も、底の石の並びまで覚えている。北の外れ、使われなくなった水汲み場の裏。
セルは通りを北へ折れた。
井戸はあった。石を組んだ古い造りで、周囲は雑草に覆われ、滑車の縄も朽ちている。記憶の絵と、ほとんど同じだった。
よし。
セルは覗き込み、そのまま縁を乗り越えて飛び降りた。
底は思ったより浅く、腐った水と泥が溜まっていた。
鉄の手で泥をかき回す。
……ない。
範囲を広げる。井戸の底を端から端まで、四つん這いになって探る。石をどけ、泥をすくい、指先で一寸ずつ確かめていく。
やっぱり、ない。
護符どころか、金属の欠片ひとつ落ちていなかった。
四半刻ほど泥と格闘してから、セルは井戸の底に座り込んだ。甲冑は泥まみれである。
場所を間違えた? いや、井戸はここしかない。この石の割れ方も覚えてる。前は、この右奥の窪みに引っかかってたんだ。
じゃあ、誰が取った。
ありえない。あんなもの、ゲームを知らない人間が見つけられる場所じゃない。攻略情報を持っている人間でなければ、そもそも井戸の底を探ろうとすら思わない。
この世界で、それを知っている人間はひとりしかいない。
ミリア。
あいつだ。あいつが先に取ったんだ。
セルは泥の中で拳を握った。籠手の隙間から泥が押し出され、ぼとりと落ちる。
二年も友達をやって、最後に人を処刑台に送った女である。人の財産を先回りして掠め取るくらい、造作もないだろう。
「……ふざけんな」
声が、井戸の底で低く反響した。
セルは井戸の壁を蹴って外へ跳び上がり、泥を落としながら歩き出した。
結局、その日はもう何も買わなかった。
帰り道、セルは広場を通った。
王城の正面に開けた、城下でもっとも広い石畳の空間である。今日は市が立っていて、野菜と果物の露店が並び、主婦が値段を値切り、子供が走り回っていた。
その中央あたりで、セルは足を止めた。
ここだ。
二度、絞首台が組まれた場所だった。
石畳は何事もなく敷き詰められている。血の跡も、足場の穴もない。当然だ。まだ何も起きていないのだから。
露店の親父が、セルの立っている場所を横切って荷を運んでいった。ここに台が立つことを、この人たちは知らない。台の下で歓声を上げる日が来ることも、知らない。
セルはそこに立っていた。兜の中で何を考えていたのかは、自分でもよくわからなかった。
同じ親父が二度目に横切ったところで、踵を返した。
帰宅したセルを、門の前で待っていたセバスが出迎えた。泥まみれの甲冑を見て、老執事の目が大きく見開かれる。
「お、お坊ちゃま! 一体どこで何を!?」
「井戸に落ちたの」
「井戸に!?」
「落ちたんじゃなくて、入ったんだけど」
「入った!?」
「上がってきたから大丈夫よ」
「大丈夫の基準がわかりませぬ!」
セバスが混乱している間に、セルはさっさと屋敷に入っていった。
入学まで、あと三日。




