第8話
気配が、近い。
森の奥。
空気が重い。
静かすぎる。
風が止まっている。
「……来るわよ」
アリアの声。
低い。
短い。
それだけで分かる。
さっきまでとは違う。
訓練じゃない。
本物だ。
足を止める。
地面を踏む。
ズレる。
少しだけ。
でも、
構っていられない。
気配が増える。
一つじゃない。
二つ。
三つ。
もっと。
木の向こう。
影が動く。
滲む。
輪郭が、合っていない。
あれ。
昨日と同じ。
界喰い。
「数、五……いや、七」
アリアが数える。
迷いがない。
「下がって」
「無理だろ」
「邪魔」
即答。
前に出る。
速い。
迷いがない。
踏み込み。
一体目に入る。
剣が走る。
音が遅れる。
遅れて、
裂ける。
界膜ごと。
崩れる。
一体、消える。
残りが動く。
囲む。
散る。
速い。
多い。
――まずい。
足を動かす。
追う。
ズレる。
一拍遅れる。
合わない。
でも、
動く。
視界の端。
横から来る。
一体。
近い。
間に合わない。
腕を出す。
ぶつかる。
硬い。
弾く。
衝撃が、遅れて来る。
遅れて、
身体が揺れる。
踏みとどまる。
ズレる。
位置が、合っていない。
「下がれ!」
アリアの声。
距離が詰まる。
横に入る。
剣。
振る。
二体、まとめて裂く。
でも、
間に合っていない。
後ろ。
別の気配。
回る。
速い。
視界の外。
――来る。
身体を捻る。
遅れる。
間に合わない。
その瞬間、
視界が止まる。
時間が、伸びる。
音が遠い。
ズレが、
強くなる。
全部が、少しずつ遅れる。
自分だけじゃない。
周りも。
木も。
影も。
全部。
噛み合っていない。
その中で、
一つだけ、
はっきりしている。
アリア。
動き。
速い。
間に入る。
腕を伸ばす。
届く。
――でも、
間に合っていない。
刃が、
横から入る。
アリアの脇。
浅い。
でも、
血が出る。
「……っ」
声が漏れる。
小さい。
でも、
確かに。
その音が、
やけに大きく響いた。
時間が、戻る。
音が戻る。
ズレが戻る。
一気に。
現実が、叩きつけられる。
目の前。
血。
赤。
広がる。
止まらない。
――まただ。
頭の奥で、
別の光景が重なる。
体育館。
床。
倒れる影。
血。
自分のせいで。
遅れた。
判断を間違えた。
守れなかった。
――違う。
ここは違う。
でも、
同じだ。
目の前で、
また。
奥歯が鳴る。
手が、震える。
動かない。
動けない。
怖い。
使えば、
壊れる。
自分が。
それだけじゃない。
また、
誰かを巻き込む。
――だから、
使わない。
そう決めた。
ずっと。
そのはずだった。
「……下がって」
アリアの声。
かすれる。
でも、
前に出る。
血を流したまま。
剣を構える。
まだ、
戦うつもりだ。
一人で。
七体。
残り、五。
囲まれている。
無理だ。
見れば分かる。
でも、
止まらない。
止まらない。
――まただ。
同じだ。
あのときと。
守れない。
何も。
全部、
遅れる。
ズレる。
間に合わない。
――このままなら。
何もしなければ。
また、
同じになる。
手を見る。
震えている。
ズレている。
自分の手じゃないみたいに。
でも、
ここにある。
逃げる理由は、いくらでもある。
でも、
目の前にあるのは一つだけだ。
血。
アリアの。
それだけ。
「……っ」
息を吸う。
浅い。
でも、
止めない。
足を踏む。
ズレる。
構わない。
前に出る。
「……蓮!」
声が飛ぶ。
振り返らない。
前だけを見る。
界喰い。
距離。
近い。
来る。
同時に。
五つ。
全部。
――間に合わない。
だから、
使う。
怖いまま。
分からないまま。
それでも。
その瞬間、
胸の奥が、
“揃う”。
今までずれていた何かが、
一点に集まる。
音が消える。
世界が、止まる。
違う。
止まっていない。
ただ、
“切り離される”。
半径、わずか。
自分の周りだけ。
空気が、
重くなる。
濃くなる。
触れる。
目に見えない何かに。
それを、
握る。
引き寄せる。
腕に。
指に。
纏う。
刃の形になる。
知らないのに、
分かる。
記憶の中、この界紋の中に強く根付いている。
振る。
前に。
一閃。
遅れない。
ズレない。
噛み合う。
初めて。
完璧に。
界喰いの身体が、
“切れる”。
遅れない。
そのまま、
消える。
もう一体。
横。
振る。
届く。
裂ける。
崩れる。
足を踏む。
地面が、合う。
ズレない。
前に出る。
三体目。
距離が消える。
振る。
終わる。
残り、二。
囲まれる前に、
踏み込む。
近い。
速い。
でも、
追いつく。
振る。
消える。
最後。
目の前。
振り下ろす。
終わる。
静かになる。
音が戻る。
遅れて。
世界が戻る。
重さが落ちてくる。
一気に。
膝が揺れる。
踏みとどまる。
手を見る。
震えている。
さっきまであった感触が、
消えている。
でも、
残っている。
奥に。
深く。
「……何」
声が出る。
自分でも分からない。
何をした。
どうやった。
分からない。
でも、
分かることが一つだけある。
――使った。
ついに。
視線を上げる。
アリアがいる。
少し離れた場所。
動かない。
見ている。
こっちを。
さっきと同じ目。
違う。
もっと、はっきりしている。
確信している目。
「……お前」
言葉が出ない。
代わりに、
距離を詰める。
一歩。
ズレる。
戻る。
でも、
さっきよりひどい。
噛み合っていない。
急に。
強くなる。
「……来ないで」
アリアの声。
止まる。
一瞬。
「それ……」
言葉が切れる。
続かない。
でも、
目は逸れない。
震えている。
ほんの少しだけ。
抑えている。
必死に。
「……何だよ」
返す。
短く。
荒く。
答えは返ってこない。
沈黙。
長い。
風が通る。
血の匂いが残る。
その中で、
アリアが、
やっと口を開く。
「……それ」
一拍。
呼吸。
「暁紋に、似てる」
言い切らない。
でも、
否定もしていない。
聞き慣れない言葉。
意味は分からない。
でも、
引っかかる。
強く。
「……なんだ、それ」
問い。
短い。
でも、
アリアは答えない。
目を逸らす。
初めて。
わずかに。
「関係ない」
また、それ。
でも、
さっきと違う。
逃げている。
明らかに。
分かる。
でも、
追わない。
追えない。
それよりも――
身体が、変だ。
立っているのが、怖い。
地面が、信用できない。
呼吸が、合わない。
ズレが、
一気に広がっている。
さっきより、
ずっと。
強く。
深く。
「……っ」
足が揺れる。
視界がずれる。
重なる。
また、
二枚。
空が。
滲む。
合わない。
そのまま、
崩れる。
膝が落ちる。
地面に手をつく。
遅れて、
衝撃が来る。
「……蓮!」
声。
近い。
触れる。
腕。
引き戻される。
無理やり。
噛み合う。
でも、
完全じゃない。
戻らない。
奥が、
ずれたまま。
固定されない。
「……何したの」
問い。
近い。
でも、
答えられない。
「……知らねえ」
本当だ。
分からない。
ただ、
使った。
それだけ。
アリアの手が、
少しだけ強くなる。
掴む。
離さない。
確認するみたいに。
そのまま、
小さく、
息を吐く。
「……最悪」
小さい声。
聞こえるかどうか。
でも、
確かに言った。
その意味は、
分からない。
でも、
嫌な予感だけが残る。
そのまま、
視界の端で、
空が揺れる。
重なる。
消える。
また重なる。
遠く。
その向こうで――
何かが、
確かにこちらを見ていた。




