EP 2
トロイの木馬。崩壊する聖域(ホワイト環境)
「生地の乳化は完璧だ。微小な気泡の一つ一つまで、完全に俺の計算通りに配列されている」
タワマンの最上階。完全防音、完全遮光で外界のノイズをシャットアウトしたキッチンは、まさに玲王にとっての「絶対聖域(ホワイト環境)」だった。
ボウルの中で艶やかに光る漆黒の生地。ベネズエラ産クリオロ種カカオの、まるで赤ワインやベリーを思わせるような芳醇な香りが部屋中に充満している。
「す、すげぇ匂いだ……。これ絶対美味いやつだろ!」
「早く! 早く焼いて玲王様! 私の胃袋はもう完全に空っぽですわ!」
ガオンが舌なめずりをし、四神たちがオーブンの前で正座をして待機している。
玲王は型に生地を流し込みながら、イタリア製の最新鋭AIオーブンのタッチパネルを操作した。
「焼き上げ(コンパイル)のフェーズだ。ガトーショコラの中心温度を極限までコントロールし、外はサクッと、中は生チョコのようなレア状態(半熟)に仕上げる。設定温度は160.0度、ファンの回転数は秒間400回転。1ミリのズレも許されない精密作業だ」
玲王が生地の入った型をオーブンに入れ、開始ボタンを押す。
静かな駆動音と共に、AIオーブンが完璧な温度管理を開始した。モニターには『160.0℃』の数字が青白く輝き、庫内では生地がゆっくりと理想的な形へと膨らみ始める。
「……ふぅ。あとは焼き上がるのを待つだけだ」
玲王はエプロンで手を拭き、マイボトルに新しいコーヒーを淹れようとした。
最高の休日。至福の待ち時間。
誰もが、勝利(極上のスイーツ)を確信していた。
その、焼き上がりまで残り5分を切った時だった。
ピピッ……ザガッ!!
突然、静かに駆動していたAIオーブンのモニターが、青色から禍々しい『赤黒い色』へと反転した。
「……ん?」
玲王がコーヒー豆を挽く手を止める。
『160.0℃』と表示されていたはずのパネルの数字が、まるでスロットマシンのように高速で回転し始めた。
『200.0℃』『280.0℃』『350.0℃』――。
「おい、人間! オーブンからなんか変な音してねぇか!?」
ガオンが弾かれたように立ち上がる。
「温度センサーの異常か……? いや、ローカル接続しかしていないはずのAIに、外部からの不正なパケット通信の痕跡がある」
玲王が慌ててオーブンの強制停止ボタンを叩く。
しかし、パネルは全く反応しない。物理ボタンはおろか、電源コードを引き抜こうとしても、本体の内蔵バッテリーに切り替わり、強引に熱を発し続けている。
『……ギギギ……【Fatal Error: System Hijacked】……』
赤黒いモニターのノイズの中に、歪んだ『文字列』が浮かび上がった。
それは文字の羅列でありながら、不気味に蠢く多脚の蟲――**『死寄生蟲型』**の形を成していた。
「トロイの木馬か……! 搬入時のロジスティクス(輸送網)の段階で、すでに基盤の奥深くにハードウェア・トロイとして寄生(仕込まれて)いたのか!」
特A級の頭脳が、瞬時に事態の最悪さを理解する。
これはエラーではない。明確な「悪意(攻撃)」だ。
『労働ニ、休息ナド不要……。魂ガ燃エ尽キルマデ、働ケ……』
オーブンのスピーカーから、割れた不気味な合成音声が響く。
同時に、庫内の温度が異常な速度で『500℃』を突破した。
セーフティロックが強制的にかけられ、扉を開けることすらできない。
「やめろ……ッ! 中の生地が!!」
玲王がオーブンの強化ガラス越しに見たのは、絶望の光景だった。
完璧な温度で焼き上がるはずだった最高級のクリオロ種カカオが、暴力的な超高温に晒され、一瞬にして水分を奪われ、ドス黒い炭の塊へと変貌していく姿。
シューーーーッ……!!
隙間から、焦げ臭い、鼻をつくような悪臭を放つ黒煙が噴き出した。
最高級のアロマは跡形もなく消え去り、そこにあるのは無残な消し炭だけ。
「あ、あぁ……アタシたちのスイーツが……!」
白虎が膝から崩れ落ちる。
「……」
煙が充満するキッチンで。
玲王は、黒焦げになったオーブンの中身を見つめたまま、ピクリとも動かなくなった。
PCメガネの奥の瞳から、一切の感情が抜け落ちている。
怒りでも、悲しみでもない。それは、心血を注いだプロジェクト(休日)を、理不尽なバグによって一瞬で全損させられたエンジニア特有の、完全な『フリーズ』状態だった。
「……おい、玲王? 大丈夫か……?」
普段は毒舌のガオンでさえ、その異常な静けさに戸惑い、恐る恐る声をかける。
数秒の、絶対的な沈黙。
やがて、玲王はゆっくりとエプロンを外した。
「……俺の、カカオ豆」
地獄の底から響くような、低く、冷たい声。
「……俺の、完璧に設計された48時間の有給(休日)……」
バリッ。
玲王が握りしめていたプラスチックの計量カップが、粉々に砕け散った。
部屋の空気が、凍りつく。
四神たちが、今まで感じたことのない異様な重圧に息を呑んだ。
それは、魔将機や邪神の放つ殺気すら生ぬるく感じるほどの、特A級社畜による純度100%の『私怨』のオーラだった。
「許さない」
玲王のメガネが、ギラリと危険な光を反射した。
「俺の休日を破壊したクソバグ野郎。……例外処理(許し)など絶対に認めない。地球の裏側までトレース(追跡)して、管理者権限で跡形もなくデリートしてやる」
世界で最も怒らせてはいけない男の、絶対に踏んではいけない虎の尾(休日)を、最悪のマルウェアが踏み抜いてしまった。




