異世界に来ました3
今回は魔物襲撃その後です。
とても、居心地が、悪い。
あの魔物を倒してから、街に戻るという命の恩人たちに案内されている。どうやらここから最も近い街までは徒歩でいくと、歩き続けて二日間かかるとの事。街道に出て辻馬車を拾うのだという。
街道に出る途中で日が暮れてしまい、岩陰でキャンプを張っている、というのが、あれからの簡単ないきさつだ。
太一の前には、その辺から拾い集めた小枝の山を火種とした焚き火が揺らめいている。
渡された暖かい飲み物がありがたい。知らないものだが、強いていうなら近いのはコーヒーか。(クーフェという飲み物らしい)
香りも味もコーヒーとは少しだけ違う。少しだけの違いならば無視するのも簡単である。むしろ慣れ親しんだ味に近いものにありつけたというのは僥倖というほか無いだろう。この分なら食生活もそこまで悲観しなくて済むかも知れない。
同じものを渡された凛も、一口飲んで驚いた顔をしていた。
あれから彼らと自己紹介をしあった。
禿の大男はバラダー。
弓使いの毒舌優男はラケルタ。
自称二五歳の見た目小学生魔術師はメヒリャ。
彼らはおよそ一ヶ月前にこれから向かう街を拠点としだしたらしい。長旅の感覚を戻しながら簡単な依頼をこなし、今日のこの依頼を活動再開の合図にするのだという。
自己紹介とは、相手の事を一方的に聞くだけでは済まない。
もちろん太一と凛も自己紹介を行った。
名前、年齢を告げたところで……さてどうしようかと詰まってしまった。
異世界から来ました、と言って信用して貰えるかは甚だ疑問である。可哀想なものを見る目で見られるならまだマシ。最悪「頭のおかしい奴ら」という評価を下され、この草原に放り出されてしまうかもしれない。それは困る。正に死活問題だ。特に、あんな魔物に襲われた身としては。
そんなに頭の良くない太一でさえその考えに至ったのだから、頭の回転が速い凛も似たような事を考えているだろう。結果として答えあぐね、それが沈黙という形になってしまった。
だがそこでも幸運に恵まれる。
簡単な身の上でさえ明かすのを躊躇う太一と凛を見て、深い事情があるのだろうと察した三人は、それ以上特に聞いてはこなかった。明らかに不審な態度だったと自覚している太一と凛にとっては、疑問が残るもののありがたい対応だった。
実は、そういった人に言えない事情を抱えて生きる人間は、この世界では現代日本と比べて遥かに多い。親に売られて奴隷になった、親友だと思っていた人物に騙されて商売女に落とされた、そういう話は酒場で聞けば事欠かない。
誰しも人においそれと話すには抵抗を覚える過去くらい持っているものなのだ。この世界ではそう考えるのが一般的。話せる過去なら話す。話したくない過去に対しては口を噤む。相手の態度を見て聞き手側も弁える。そういった不文律があったので、三人の対応は特別な事ではない。
ここで腕利きの彼らの保護下にいるという事も含めて、いくつもの幸運に恵まれた。これを手放す手は無い。
まだまだ、諦めてはいけないのだという思し召しなのか。
ようやっと、一息つける。
魔物からの襲撃を運良く脱して、当面の危機は去ったと考えていた。
その考えは、甘かった。
表面上は穏やかに、いたって普通に会話する事が出来る。助けてくれた冒険者たちとのコミュニケーションの時も、特に普段と変わった様子は無い。
しかし目は笑っていない。完全に据わっている。主に、太一と話すときだけ。
過去に一回だけ見たことがある。これはすこぶるご機嫌斜めな凛だ。
こうなってしまったら、彼女が何に怒っているのかを正確に理解して、謝り倒さなければ許してくれない。
表面上は至って平静に、しかし内側から滲む怒りを浴び続けるのだ。かつて親友のイケメンはこの状態を「針のむしろ」と称した。言いえて妙である。
あれは中学二年。凛の家で中間テスト対策をしていたときの事だ。
当時の太一とイケメンはまだガキ。橋桁の下に捨てられているエロ本を仲間内で読み漁っては「お前見すぎだろ変態!」「お前こそこのページ超見てたじゃねーか!」とからかいあう位には、『異性』に興味があった。
太一のコミュニティでは一番仲が良かった、しかも可愛い異性である凛のチラリズムについ目が行ってしまうのは、思春期真っ盛りならば仕方の無いことだろう。
中学三年に進級した直後「見るならもう少しコッソリ見なさいよ」と、煩悩がバレていた事を告げられて、しばらく凛の顔を見れなくなったのはいい思い出だ。
多少のスケベ心は男子なら持ってて当然。むしろ持ってない方が信用ならない、と真顔で宣う理解者凛。そんな彼女を、しかもエロ方面で怒らせたことが、太一にはある。
思い出してはいけない黒歴史として記憶の引き出しに厳重に保管しているその事件。何故あんな凶行に走ったのか、当時の自分の心境が今でも理解不能だ。
凛がトイレに立った隙にタンスを漁り、下着を手に持って広げて笑っていた。
太一も貴史も、当時はそれが楽しかった。犯行に至った動機は思い出したくないので割愛するが。
この話を思い出しては、中学時代の汚点に頭を抱えて呻かざるを得ない。
止めるタイミングをのがして悪ノリするバカな男子二人に、戻って来た凛は今まで見たこともない極上の笑顔を向けてきた。器用に目だけが笑っていない表情で。
底冷えするような抑揚の無い声で「ね、それ、楽しい?」と聞かれた時は、本気で死を覚悟した。
ビクビク怯えながら下着をタンスに戻そうとする太一の腕を、凛が優しく触れて止める。「そのまま入れたらダメ。貸して?」と諭されて、涙目になってしまったのは、今でなら太一も笑える、かも、しれない。
今太一が予測している凛のお怒り度は、当時のそれを超えている。
あの時は自分でも頭を抱えたくなるほど馬鹿なことをした自覚があり、凛が怒るのも無理は無いと思える。
だが、今は、凛が何故怒っているのか、皆目見当が付かない。
謝るにも、自分のどの行いに対して謝罪すればいいのかサッパリな太一は、結局凛をちらりと見ては、手元のカップに視線を戻す、を繰り返していた。
もう既にクーフェを飲み干していて、空になったカップが目に映る。
随分長い間うだうだとしていたらしい。自分でもこの膠着具合が嫌になり、頭をガシガシと掻く。
本人が苦悩している中、その苦悩も当然だろうと見ていたのは、バラダーら冒険者達だ。
太一よりも人生経験が長い彼らは、太一と凛がどのような関係なのかは、詳しい話を聞かなくても雰囲気で何となく分かる。
お互いに気の置けない仲なのだろう、という当たりをつけていて、事実それは当たっていた。
凛が何で怒っているのかも、おおよその見当はついている。そしてそれに至った時、太一の苦悩も当然の罰だと思ったラケルタは、あえて手を貸さずに悩ませたのだ。
そろそろ懲りただろうと考えたメヒリャが、二人に目配せをして小さく頷いた。そんな三人の様子に自分の世界に入り込んでいる太一はもちろん、表面上は彼よりも落ち着いて見える凛も内心は冷静でなく、気付く様子は無い。
「リン嬢ちゃん。ちっと酌してくんねぇか」
沈黙に支配されていたキャンプに、焚き火が爆ぜる以外の音が久々に響いた。
「あ、はい。いいですよ」
凛は今まで静かに纏っていた怒りを即座に引っ込め、笑顔とは言わないがやわらかい表情でバラダーから酒の入った壺を受け取った。見事な感情の制御である。
「大変な目に遭ったなあ」というバラダーの言葉を皮切りに雑談を始める二人。
自分に向く怒りが引っ込んでホッとした様子でバラダーと凛を眺める太一に、ラケルタとメヒリャが近づいた。
「タイチ君。貴方の故郷のお話、聞かせてもらえませんか?」
太一のカップにクーフェのおかわりを注ぎながら、ラケルタが言う。
先ほど話せなかったために沈黙になった話の続きだ。さてどう答えよう。凛の怒りという当面の脅威から開放されたと思ったら、また一難だ。助けられた手前無碍にも出来ず、何を話そうか黙考する太一。
「心配しなくて、いい……。言いたくない事を……無理に聞きたい、訳じゃない」
太一の思考を中断させるように、メヒリャが言う。
その申し出はありがたかった。答えられる範囲でなら、答える事は太一としてもやぶさかではない。
これは言ってもいい、これは言うと不味い。その線引きをさせて貰えるなら、話題としては十分に成り立つだろう。
「そうですね。見たところ、貴方達はとても頭が良いようですが、故郷では何か学ぶ機会があったのですか?」
ラケルタの問いは皮切りとしては無難なところ。
しかし、三人にとってはとても気になっていた事の一つだった。
彼らから見て、太一も凛も、かなり知識と教養がある。
もちろんそれは、幼い頃から続く義務教育の賜物だが、わずか六歳の頃から教育を受けていたとは知らないバラダー達には、太一と凛の聡明さの理由はシンプルに聞いてみたい事柄だった。
この世界では、現代日本と違い、教育を受けるのは簡単な事ではない。
識字率でさえ、十パーセントに満たないのだ。現にバラダーは文字を読めないし、ラケルタも読むことは出来るが書くとなると簡単な事しか出来ない。事務的な作業は魔術師として読み書きに日ごろ慣れ親しんでいるメヒリャに投げっぱなしなのが実情である。
教育は、相当な金が必要である。貴族や商人として成功したものだけが、自分であったりその家族に教育を受けさせる事が出来る。そういえば、その困難さは少しは伝わるだろう。相当に潤沢な資金が必要なのだ。日本で例えるなら、毎月数十万もの学費が掛かってしまう程に。
だから、太一が言った「学生だったんだ」の言葉には驚きを禁じえなかった。
学生と言えば、学ぶ事を専門とする者を指す。それは異世界も現代日本も変わらない。
最も、教育の質が全く違うのだが。
この世界の学者が日本の中学校に行って授業を一週間でも受ければ、カリキュラムのレベルの高さと、周囲で授業を受ける生徒達の若さ、そして彼らの学力がそう変わらない事に首を吊ってしまいかねない。
この世界の高名な学者でさえ、高校生の平均的な成績の少年少女と同じレベル。
この差はつまり、太一と凛が……もとい、現代日本で義務教育で受ける授業がいかに質が高いかを示すのだが、当たり前になってしまうと有り難味も感じない。自分たちがいかに恵まれていたかを客観的に計る物差しが目に見えて現れるのは、もう少し先のことである。
授業で受けていた教科を掻い摘んで説明する。普通一つのものに特化して学ぶのが常識のこの世界において、国語数学理科社会と、複数の学問に一度に手をつける現代日本の教育に更に驚くラケルタとメヒリャ。
そして、いつ話の核心に迫ろうかと考えていたメヒリャが、ふと思い出したかのように言った。
「それだけ、様々な事を学んできたのに……大事な友人の怒りの理由は、分からない?」
痛いところを突かれてうっと唸る太一。
そうだ。
このままでいいはずが無い。
時間が経てば忘れてくれるほど、凛は甘くは無いのだ。
謝らなければずっと許してはもらえない。その辺はかなり厳しいのだ。
逆に時間を置いてもきちんと謝れば許してくれるのが、彼女のいいところでもあるのだが。
「情けないけど、分からないな……。凛のヤツ、何であんなに怒ってるんだか……」
途方にくれた様子で嘆く太一を見て、ラケルタは思わず苦笑した。
そして、前途多難な道を選んでいる凛に、少しだけ同情した。
これが分からないというなら、そもそも根本の要因である、凛自身が抱いている感情には毛の先ほども気付いていないだろう。どちらかと言うと第三者が見ていて分かりやすい表現をしている節があるのだが。
あれだけ怒っていながらも、無視しきれないところが、端的にそれを現している。今日あったばかりの三人には既に知られているのに、だ。
「タイチ君は、女の子とお付き合いした事は?」
ラケルタの視界の端で、ぴくりと黒い尻尾が揺れる。どうやらそこだけは聞こえたらしい。
「残念ながら、彼女いない歴イコール年齢だよ」
その表現はよく分からなかったが、女性と親しい関係になった事が無いというのは分かった。
「そっか。じゃあ、これから女心を理解していけばいいね」
「っつっても、どうしたらいいんだよ~……」
情けない声である。
「大丈夫……今回の問題は、初級編……。ゆっくり考えれば、分かるはず」
「焦らなくても大丈夫。彼女の立場に立って考えてみればいいんだよ」
「凛の立場?」
「そう。貴方の言った事のどれか……貴方の取った行動どれかが……リンにとっては、許せなかった……」
「自分が言われたらどう思うか。これは、相手が女の子でなくても通じる事だと思うよ、僕は」
「……」
方向性を示して貰い、無限ループに陥っていた先ほどまでとは大分違う有意義な思考が出来た。
考える。
何がまずかったのだろうか。
抱きついた事?
飛びついてどさくさ紛れに尻を触った事?
いや、どちらも不可抗力だ。怒られても、それが本気でない事位は分かる。
自分が言われたらどう思うか。
「――――」
あった。
太一がもし凛に言われたら、謝るまでは絶対に許さないであろう一言と行動。
それを、太一は彼女に向けて取っていた。
「分かったみたいだね」
「……俺が囮になるから逃げろって言ったんだ。多分、それだ」
「それは……言われたほうは、怒る」
呆れを隠そうともしないメヒリャの評価に、身を縮こまらせる。
「そういう事かあ。まあ、僕らが助けるって分かってないんだから、仕方ない一面もあるにはあるけど……」
そう言葉を濁すラケルタの様子から、あまり褒められた言動ではなかったと改めて自覚する。
凛を助けるための最善の策だった。その手段を取った事そのものは間違っていなかったと自負している。
しかし問題なのは、それを言われた方の気持ちを考えていなかったことだ。
「そりゃ、怒るわなあ……」
しみじみと呟いて天を仰ぐ。夜空には星が瞬いていて、太一に「勇気出して謝っちゃえ」と励ましていた。
太一のほうは問題は無いだろう。ラケルタとメヒリャは顔を合わせて頷いた。
さて、後は凛と話しているバラダーだが。
問題は無いだろう。彼は頭は良くないが、人の気持ちを汲むことにかけてはパーティの中でも一番なのだから。
「なるほどな。そんな事があったわけだ」
「そうなんですよ。信じられないでしょう!?」
一方こちらは凛とバラダー。
バラダー達が助けに入る前、太一が囮になって自分を逃がそうとした時のあらすじが話題となっていた。
「そら、嬢ちゃんも怒るのも無理はねぇな」
「ですよねー! 太一が謝るまでは絶対に許しません!」
思わずヒートアップする凛。
随分と鬱憤が溜まっていたのだと苦笑するバラダーだが、ふと笑みを浮かべて問いかけた。
「なあ嬢ちゃん。オッサンの独り言、聞いてやってくれや」
「へ?」
素っ頓狂な返事をしてしまう凛。会話をしていたのに独り言とはどういう事か。
不思議そうな顔をする凛に構わず、バラダーは言葉を続けた。
「ま、男ってなあ難儀な生き物でなあ」
「分かります」
「女の子の前じゃあな、カッコつけたがる生き物なのさ」
「……」
何を指しているのかは言うまでも無い。
太一の事だ。
バラダーは、彼の事を言っているのだ。
「目の前にいる女の子の事をな、たとえ微塵も知らなかったとしても、見栄を張っちまうのさ。こりゃあ理屈じゃねえ。『つい』なんだよ。後から思い返して何であんなことしたのか、自分でも分からねぇ事だって多々ある」
経験談なのだろう、バラダーは苦笑いを浮かべている。
「だからな、平気そうな顔をしておいて、内面じゃ歯ぁ食いしばってる事だってよくある話さ。女にゃあ理解が難しいかもしんねぇがな」
確かに理解に苦しむ。凛は特に自分の身の丈にあった振る舞いを心がけているから、余計にだ。
「でもな。それでも俺は思うのさ。男はそれでいいんだ、ってな」
バラダーはふと視線を凛に向けた。
「なあ嬢ちゃん。タイチのボーズがよ。あの化け馬を目の前にして、嬢ちゃんを囮にして逃げちまうような腰抜けだったらどうだ?」
「……」
それは、とても、嫌だ。
間髪いれずに浮かんだ感想はそれだ。
「確かに、万事ボーズの思い通りに行ったとして、生き残った嬢ちゃんの気持ちを一切考えていねぇのは間違いねぇ。んな事まで考える余裕なんぞ無かっただろうしなぁ」
そうだろう。
こんな知りもしない世界で、たった一人放り出されるのがどれだけ心細いか。太一はそこを一切分かっていないのだ。
「でもよ」
それでも、目の前のバラダーは笑っていた。
「あのボーズ、嬢ちゃんが危なくなったらまた庇ってくれるぜ。大した力もねぇクセに肝だけは据わってるときた。肝心なときに頼りにならねぇ腰抜けより、男らしくていいじゃねぇか」
そうだ。
自分が死ぬと分かっていながら、太一は庇ってくれたのだ。
それを今更ながらにやっと理解して、凛の心に何かがストンと落ちた。
「あれで、良かった……?」
「俺ァ、いいと思うぜ。口だけ立派なバカよりも百倍な」
そう言って豪快に笑い、ぐいっと壺ごと酒を飲むバラダー。
確かにそうかもしれない。
バラダーの話を聞いて、自分が抱えていた行き場の無い怒りが、すっかりなくなっていたことに、凛は気づいた。
青臭い理想論と思いますが、物語なのでアリという事にします(笑
次は街に行きます。
ついに、太一と奏が抱えるチート能力の一端が明らかになります。
2019/07/16追記
書籍化に伴い、奏⇒凛に名前を変更します。