十一話
海岸線。その崖の上。
目を下に向ければ、下の方では北の冷たい風に吹かれた波が打ち寄せては弾けていた。
しんしんと降る雪が、海面に触れては消えていく。
かなり高いのは間違いない。
けれども、魔力強化が使えるようになってからは、この程度の高さではなんとも思わなくなった。
空を飛べるようになった今ではなおのことだ。
横に視線を巡らせれば、海岸付近のある程度の高台には、軍が展開されている。
どうやら、沿岸の住民の避難は滞りなく終わっているようだ。
「さて、リヴァイアサンは……あそこか」
シルフィの力で空気の振動を探ってみて、居場所を探る。
リヴァイアサンはかなりの巨体だ。
探知を始めてすぐに探り当てることができた。
太一はふわりと飛び上がると、そちらに向けて一直線に移動した。
眼下には、海上にたたずむリヴァイアサンの姿。
「待たせたか?」
降下しながら声をかけると、リヴァイアサンは首をもたげる。
『否。じゅうぶん迅速である』
「そいつは良かった」
現在、ティアマトは島にいるという。
リヴァイアサンの視線の先。
先日太一がティアマトのブレスを処理した夜の激突。
その時のリヴァイアサンの一撃によって減った体力を回復しているのだろう、というのがリヴァイアサンの見立てだった。
『海底神殿には、向かったのだな』
「ああ。今頃着いてるんじゃないかな」
『そうか……』
リヴァイアサンが、やおら戦意を充満させる。
『では、じき動き出すだろうな』
「体力の回復は?」
『そんなものは斟酌されぬ。例え半端な状態だろうと、呪いの解除の妨害が最優先だ』
「そうか」
つくづく、と太一はため息をつく。
実に気に入らない。
「潜りそうになったら、引きずり出すのは任せるぞ」
『無論。海面付近にとどまらせている場合は頼む』
「了解。多少傷つけても文句は言うなよ」
『竜種のタフさを甘く見ないでもらおうか』
ツインヘッドドラゴンよりは明らかに格上。
その防御力とタフさは、比較にならないだろう。
『動いたぞ! 着いてこい!』
「分かった!」
リヴァイアサンが高速で島へ向かって突進する。太一もそれを追いかけた。
なかなかに大きい島。島の真ん中には山もあった。
程なくして、ティアマトが姿を見せる。
ティアマトからは、すさまじい殺気が溢れている。
島に迫るリヴァイアサンを、ティアマトは計六つの目でにらみつけた
『行かせぬぞ! ティアマト!』
『邪魔をするな!』
交わす言葉はそれだけ。
それ以上は不要とばかりに、互いに大音声の咆哮。
正直、桁が違う。
実質衝撃波である。
海面が大きく波打った。
リヴァイアサンが到着するより先に海に入ろうとするティアマト。
太一は、させぬとばかりに岩の柱を作り出した。
直径三〇メートル、長さ一四〇メートルの巨大な石柱だ。
「むんっ!」
気合い一発、風の力で推進力を与え、石柱をはじき出した。
『ぬっ』
『何っ!?』
それは、その質量からは想像もつかない速度でティアマトの近く二〇メートルほどの距離に着弾。
島全体が揺れ、衝撃が高波を起こした。
『何だ……この馬鹿げた……』
ティアマトが視線を上げたその先。
上空二〇〇メートルほどのところに浮かぶのは当然、太一である。
「リヴァイアサンだけ気にしてりゃいいと思うなよ?」
憎々しげな感情が伝わってくるが、行かせるわけにはいかない。
突破されるイコール、凛たちに危機が及ぶ。
口調からはプレッシャーを感じられないが、太一が抱える決意は本物である。
別にティアマトに伝わらなくても構わなかった。
相手がどう思おうと、太一のやることは変わらないからだ。
『おのれ……! 人間風情が! 我の邪魔立てをするか!』
ティアマトが呻く。
さあ、ここからが本番だ。
倒すのに苦労しないだろう相手を殺すことなく足止めする。
微妙なさじ加減が求められるたやすくはない役目だった。
ドン、と痛烈な衝撃が、遠方から届く。
事は水平線の向こうで起きているというのに、とんでもない威力だ。
「……始まったようだな」
メルクリアスは、高台から海を眺め、そうこぼした。
彼らの常識にはない領域での威力に、騎士団員たちが戦慄していた。
無理もあるまい。
騎士団長を務め、半端なことでは動じないメルクリアスも驚かずにはいられない。
部下の手前、平静を保てているに過ぎない。
沿岸の避難は既に完了している。
中級市民街から、下級市民街の上部。
そこには国軍が出張って一時避難区域が設けられていた。
メルクリアス率いる第九騎士団は、避難ラインの死守である。野次馬などが線を越えないようにするためだ。
女王イルージアからの勅命で、騎士団の指示に従わない者がいた場合、相手が重傷を負わなければ多少の手荒な真似も許可されている。
戦闘の余波が断続的な空気の振動という形で陸まで届いていた。
しばらくして、高波が海岸に押し寄せる。
この勢い、この高さ。
「これは……避難していなければ、呑まれていましたね」
「そうだな」
天候が大荒れになった影響で、高波が起こることはある。
自然の猛威だ。
海の近くに街を構える以上、それは向き合っていかなければならないこと。
けれども、命の危険があるほどの高波は、年中起きるものではない。
漁師たちも長年の経験で、それが起きやすい時節は理解しているため、近づかない。
彼らの自衛で、被害は最小限に食い止められていた。
けれども今回は違う。
ここ最近は、リヴァイアサンとティアマトの戦闘の余波で散発的に起きていた。
そして今日は、その根本から解決するための作戦が実行されている。
ティアマトの抵抗は激しく、戦闘もそれに合わせて規模が大きくなるだろう、というのが、中央政府の発表である。
それは間違っていない。
実際に事に当たる太一、そしてリヴァイアサン共に口を揃えたのが、
「周辺に気を配れない事態になる可能性もじゅうぶんにある」
ということ。
だからこそ、災害対策が打ち立てられ、こうして対応に当たっているのだ。
「我々も、例外ではない。状況を見て、避難ラインを下げる必要もある。各自状況把握と警戒を怠るな」
「は。改めて団全体に通達いたします」
「うむ」
メルクリアスが言うと、右腕である部下が敬礼で応じた。
「ついに開戦か」
ビリビリと震える城の壁。
太一がティアマトを抑えるために、戦闘に入った証である。
自身が腕の立つ魔術師でもあるイルージアの鋭敏な感覚は、太一の魔力を感じ取っていた。
驚きを隠せない。
ある意味では。
この魔力だからこそ、ここまで余波が届いているのだと理解させられる。
逆に言えば、彼ほどの力が無ければ、ティアマトに近づく資格すらないということ。
「想定と比べてどうだ」
兵士が、宮殿の謁見の間にあるバルコニーから、海岸を観測している。
「はっ。現状では、我々が想定した以上の余波は来ておりません」
「ふむ。被害ゼロか」
あれだけのぶつかり合いだ。
いつ、こちらの想定を上回るか分かったものではない。
「第九騎士団が避難ラインを引き下げたら知らせろ」
「はっ!」
現場判断で必要な物資は、適宜利用して良いと通達は出している。
ただし、その状況は適宜報告するように段取りを組んでいる。
いざというとき、「知らない」という事態を防ぐためだ。
イルージアは優れた王で優れた将だが、政はともかく軍人としての才能は他者より多少優れている程度だ。
生粋の士官などには及ばないと理解している。
この作戦、イルージアには基本出番はないはずだ。
ただ……。
(このままうまくいってくれと願うのは……虫が良い、のだろうな)
空からは、しんしんと雪が降っている。
それは静かで、厳かで。
バルコニーに出て、外を眺める。
「陛下。お寒うございます。こちらを」
「うむ」
側仕えが差し出してきたコートを羽織る。
雪が降り、積もるのがこの季節のプレイナリスだ。
気温は当たり前のように零下を下回る。
遠くの海で激しい戦闘が行われているなど、信じられないようないつもの天候。
「……予が口出しをする機会が、来なければ良いが」
いざというとき、王の一声がどうしても必要な時というのはある。
もちろん例外はあるが、大体は、事態が思わしくない場合か、事態が予定通り運んで好転しているときだ。
イルージアは切に、自分が暇なまま過ごせることを願った。