第七話 ヴェルとセシル
月明かりに照らされた巨大な蜘蛛は、手負とは思えぬほど堂々と歩を進める。
奴の知能なら、奇襲を仕掛けることもできたはずだ。
それをしなかったのは、強者の矜持か、慢心か。
なんにしてもこちらに不都合はない。
それよりも、奴はまだ罠の範囲には入ってこない。
警戒しているようだ。
その後ろから、わらわらと小型の蜘蛛たちも姿を現す。
その多くは手のひらほどの大きさだが、膝ほどの大きさの中型も数匹混ざっていた。
それらは、じわじわとこちらを取り囲むように移動する。
そして互いの位置取りが終わったところで、闇夜の静寂を壊さぬままに、彼らの殺し合いは静かに始まった。
まず小さい蜘蛛のうち、数十匹がこちらに向かって突進してくる。
これはさして脅威ではない、魔法を使うまでもない。
彼女のリソースは温存しておきたい。
ヴェルは妖精の方へ視線をくれると、妖精もわかっていたというようにトレントに指示を飛ばす。
「薙ぎ払ってぇ!」
ヴェルたちの後ろから1本の根が飛び出し、地を這う蜘蛛たちをすり潰す。
それを見ていた巨大蜘蛛はガチガチと顎を鳴らし、中型の蜘蛛たちに指示を飛ばす。
中型の蜘蛛は左右に分かれて移動を始める。
(数は向こうのほうが上だ。四方から狙われるのは避けたい)
「おい!お前は右の奴らを焼き払え。俺は左を受け持つ。正面は罠の準備をしておけ!」
ヴェルは、どうせ蜘蛛どもにはわかるまいと、大声で作戦を周知する。
「わかりました!」
「はいよー」
2人の返事を聞いたヴェルはすかさず走り出す。
こちらに肉薄される前に、ヴェルの方から蜘蛛の群に突っ込む。
手近にいた小型の蜘蛛の顎に、硬いブーツのつま先をねじ込むように蹴り上げる。
小型の蜘蛛は、裏返って茂みの奥へ飛んでいく。
蜘蛛達が足にまとわりつき、鋭い牙に噛みつかれてもヴェルは気にしない。
顔に向かって飛びかかってくる中型の蜘蛛に、ヴェルはそのまま頭突きを浴びせたあと、羽交締めにし、そのまま締め殺す。
胴体が千切れた蜘蛛がぼとりと足元に落ちる。
蜘蛛の青黒い体液を全身に浴びたヴェルは、鋭い眼光で次の獲物を探す。
その様子を傍から見ていた妖精は、うぇーと言いながら舌を出し、それ以上観察するのをやめ、セシルの方へ視線を移す。
こちらはだいぶ苦戦している。
セシルは小さな火の壁を立てて牽制し、飛び越えてきた2匹の中型の蜘蛛に短剣で応戦している。
蜘蛛はセシルの膝上くらいの大きさだ。
短剣で対応するにはリーチが足りない。
それに足元の蜘蛛を踏み潰すのにも、生理的な問題からかいちいち躊躇している。
ヴェルの方は、数度の打撃で中型の蜘蛛を数匹叩き伏せると、彼女の援護に回ろうと駆け出す。
その瞬間、正面で悠然と状況を観察していた巨大蜘蛛が動いた。
小型の蜘蛛を先頭に、戦力が左右に分散し、ガラ空きになった正面を果敢に攻める。
「待ってましたぁー!いらっしゃーい!」
妖精は掛け声と共に、正面の地面から、無数の根が槍のように突き出していく。
だが、はやる気持ちから、タイミングが早く、数匹を取り逃がす。
そして巨大蜘蛛は、罠が発動し、次々と仲間が囚われていく中、その体を踏み台にして、高く跳躍する。
そして罠の範囲を超えて、ズズンと大地を揺らし、土煙を上げながら妖精とヴェルの前に迫る。
潰れた複眼の隙間から、残った眼がぎらりと月光を弾いた。
ひっ、という短い悲鳴と共に青ざめる妖精。
ヴェルは怯える妖精の前に出て、静かに拳を握る。
巨大蜘蛛は、鎌のような鋭い脚を振り上げ、ヴェル達を両断せんと振り下ろす。
妖精の体を掴み、横に飛ぶようにしてこれを避ける。
——彼女との距離が開いてしまった。
「おい!逃げろ!」
巨大蜘蛛は、いまだ小型の蜘蛛と激闘を繰り広げているセシルを捉える。
ヴェルの声にセシルが振り向くと、再び蜘蛛が大鎌を振り降ろす。
悲鳴も上げられず立ち尽くすセシルに、間一髪のところで太い木の根がセシルを庇う。
そのまま巨大蜘蛛を薙ぎ払い、互いの間に距離が開く。
だがその瞬間、中型の蜘蛛の1匹がセシルの腕に鋭い牙を立てる。
「っうあああぁぁぁ!!」
セシルは痛みに絶叫を上げ、短剣を取り落とす。
ヴェルが駆け出し、彼女に取り付く蜘蛛を殴り飛ばす。
蜘蛛の胴体は千切れて地面に落ちるが、残った頭はセシルの腕に噛みついたまま絶命している。
ヴェルは泣き喚く彼女を押さえつけ、どうにか頭を引き剥がす。
彼女の腕の肉はズタズタに引き裂かれていた。
ヴェルは自分の服の袖をちぎり、セシルの腕に硬く結ぶ。
その間もトレントの根は巨大蜘蛛を寄せつけまいと牽制している。
トレントの木の根は、威力こそ凄まじいが動きに関してはそこまで早くはない。
奇襲ならともかく、正面からの戦いでは蜘蛛の動きの早さについていくことはできない。
ヴェルは彼女を蜘蛛から隠すように、トレントの後ろに座らせる。
「……すぐ、戻りますから」
セシルは腕を押さえながら荒く呼吸を繰り返す。
ヴェルは、ああ、とだけ返事をして、いまだ攻防を続ける蜘蛛とトレントの間に割って入る。
——仕掛けるしかない、相手に取り付き、拳を叩き込む。
そうして拳を振りかぶり、正面から駆ける。
蜘蛛の眼前に肉薄し、硬く握った拳を叩きつける。
だがその拳は空を切る。
ヴェルは滑稽なほど無様に転び、気づけば視界は反転していた。
地面を舐めるように倒れ込む。
何が起きたのか理解できない。
視線を落とす。
——左足がない。
視界には振り抜いた鎌のような前足を、再びヴェルへと向けるのが見えた。
芋虫のように地を這うヴェルに、蜘蛛はさらなる追撃を行う。
ドスッ、という鈍い音と共にヴェルの腹を串刺しにする。
「ヴェル…さん?」
そのままヴェルの頭を、その凶悪な顎で食いちぎろうとする。
「やめてええええ!!」
彼女の絶叫と共に、巨大な火球が蜘蛛の眼前で爆ぜる。
蜘蛛は複眼を焼かれ、のたうち回る。
彼女は攻撃の手を緩めない。
続け様に火球を放ち、周囲一帯を火の海にする。
「今です!!」
「わかってるってぇ!」
2人の合図と共に地中から根が飛び出し、蜘蛛の巨体に無数の根が絡みつく。
そしてギチギチと嫌な音を立てながら、蜘蛛がもがく。
トレントが木の根で締め続けるが、硬い表皮を押しつぶすにはまだ足りない。
セシルはゆっくりとヴェルの元へ歩いていき、その体を抱き起こす。
ヴェルの腹には大きな穴が空いており、普通ならば即死しているが、ヴェルにはまだ息がある。
「ヴェルさん、大丈夫ですか?」
セシルは大丈夫ではない状況で、あえて聞く。
「ああ、問題ない」
ヴェルの体はもう血だらけだ。
腕はぼろぼろで、左足はなく、腹に大きな穴まで空いている。
だがセシルは無機質なその声に、胸の奥で小さく鼓動が跳ねる。
ヴェルは左手を空にかざし、月をその手に取るように、ゆっくりと拳を閉じる。
周囲に燃え盛る炎の中、彼の周りにだけ冷たい風が吹き荒れる。
彼はなおもゆっくりとその手を握る。
周囲の温度が一気に下がり、燃え盛る炎さえも凝縮し圧縮する。
パキパキと周囲が凍りつくように、空間が軋みを上げる。
その手が完全に閉じられた時、魔力の檻が完成する。
その中に閉じ込められた巨大な蜘蛛は、身動き一つ取れないまま、世界の理から切り離された。
ヴェルは右手に魔力を集中させ、立ちあがろうとし、よろけて膝をつく。
そして左足がないことを思い出す。
「——大丈夫です。私が、支えます!」
彼女の力強い言葉を受けて、ヴェルは頷く。
セシルもいまだじくじくと痛む腕に、歯を食いしばりながらヴェルを支える。
——そして夜の森が、しんと静まり返った。
2人のわずかな息遣いだけが、この世界で唯一の音となり、互いの存在を確かめ合うことができる。
「——これで、最後だ」
鏡砕
月光の降り注ぐ中、天高く振り上げた拳を、ヴェルは無慈悲に振り下ろす。
蜘蛛を閉じ込めた檻に一本の亀裂が走る。
それはまるで歪なステンドグラスのように広がっていく。
最後には硝子が割れる乾いた音と共に、巨大な怪物は砕けて散った。
——世界を震わせる破砕の音さえ、2人には聞こえなかった。
砕けた怪物の破片が、月光を受けて硝子のように輝きながら降り注ぐ。
その隣でヴェルを支えていたセシルの力がふっと抜ける。
セシルはその場に崩れ落ち、支えを失ったヴェルもまた、セシルの隣に倒れ込んだ。
意識を失ったセシルの顔は、激戦の後とは思えぬほど、安らかだった。
ヴェルは輝く銀髪の少女から、しばし目を離せなかった。
そしておもむろにセシルの頭に手をやり、優しく撫でた。
「……よくやった」
そしてヴェルの意識もまた、月光の中に静かに溶けていった。




