第六話 再会と再戦
『いいか、null、よく聞くんだ。』
白い服を着た、赤い髪の女が話しかけてくる。
少年は定まらない視界でぼんやりとそれを見上げた。
少年の周囲には玩具が散らばっている。
だが、そのどれもが傷一つない新品で、使われた形跡はない。
少年がそれらに興味を示したことは一度もない。
それでも少年が唯一反応を返す存在が、目の前にいる赤い髪の女だ。
女は言う。
『君は今後、とても長い時間を生きることになるだろう。その時、君の周りには大勢の人間がいる。悪意ある者、善意で近づく者、無関心な者もいるだろう。そのすべてに対して、君は守らなければならないことがある。』
女は指を一本ずつ立て、ゆっくりと言いきかせるように続ける。
『人を助けなさい。
自らを守りなさい。
人を殺してはならない。』
覚えたての言葉では、理解が追いつかず、少年は小さく首を傾げた。
『わからないか、まぁいいさ。これから何度でも教えてやる。』
女は滅多に笑わない。
だがその時ばかりは優しい笑みを浮かべて、あたまをがしがしと撫でてくれた。
『さ、実験の続きだ。こっちへ来い…null』
——————
ヴェルは目を覚ます。
まず視界に飛び込んできたのは、銀色の猫。
彼女は目を瞑ったままヴェルのあたまを膝に乗せ、母親が子供を寝かしつけるように、優しく撫でていた。
「——おい」
話しかけると、彼女は目を開き、泣き腫らした顔でヴェルを見下ろす。
「——よかった……目が覚めたんですね」
「状況は? 俺はどれくらい寝ていた」
ヴェルが体を起こすと、彼女は目をこすりながら答える。
「1時間ほどです。——少し前から呼吸は戻っていましたが、なかなか目を覚まさなくて……でも本当に良かったです」
少し嗚咽の混じった声で、それでも安心した様子で彼女は胸の内を吐露した。
「……ここは?」
彼女の心情などお構いなしに、ヴェルは続けて問う。
元いた場所から移動している。
——彼女が運んだのか。
「——ここは、その……あの方が案内してくれて」
彼女は煮え切らない返答と共にヴェルの後ろを指差す。
(ああ、そうか。ここはトレントのいた場所か)
ヴェルの後ろには、周囲の大木に見劣りせず、堂々たる姿で聳え立つ1本の光輝く木があった。
「あー、目が覚めたんだ。よかったじゃなーい」
ふと、頭上からやけに間延びした甘ったるい声が響く。
その声はヴェルの顔の前までやってくると、あちこちを観察し始めた。
「んー、大丈夫そうね。でもあんた変よ、回復魔法が全然きかないんだもん」
——これはなんだ?
ぱたぱたと忙しなく動く手足は、人のそれで、背中に羽を生やした小さな生き物。
妖精の一種だろうか。
――妖精といえば、トレントのそばにいた妖精の気配を感じない。
ヴェルは視線を彼女へと戻し、これはなんだ、と無言で問う。
「あの、この方は昼間の妖精さんだそうです」
「……妖精? 俺が見たものとはだいぶ違うようだが」
ヴェルが昼間に見たのは、ふわふわと漂う淡い光でしかなかったはずだ。
「その辺はあたしにもよくわかんなーい。気づいたらこうなってたし」
妖精は、なおも甘ったるい声で続ける。
「まぁ多分だけど、あんたがこの子にアホみたいな魔力を吸わせちゃったからじゃない?——この子とあたしはなんでか繋がってるみたいだし?」
「そうか」
ヴェルは理解できない出来事を一言で片付ける。
最初見た時は枯れ木のようだったトレントが、ヴェルの魔力を吸ったあと、確かに姿が変わっていた。
どうしてこうなったのかはわからないが、わからないものは今考えても仕方ない。
それよりも、まだ状況は続いている。
幸い周囲にあの巨大蜘蛛の気配はないが、いつ戻ってきてもおかしくはない。
蜘蛛は狙った獲物を仕留めるまでは止まらない。
——まずは状況の整理と、手札の確認だ。
「おい、お前の魔法は、あとどれくらい撃てる?」
ヴェルは彼女に向き直り、確認する。
「あ、はい。正確にはわかりませんが、あと2〜3回なら問題ないと思います!」
彼女は口元に指を当てて、——ただ、と続ける。
「さっきのもそうですが、私の魔法は本来それほど強力なものではありません。何故か今は、使う魔法の威力が5倍から10倍ほどの威力になっています」
ですが、と彼女はなおも続ける。
「魔法の威力は上がりましたが、身の丈に合わない力を使っているような気がします。先ほど数回魔法を使っただけで、かなり疲れました」
「ああ、おそらくはお前が寝る前に食べた果実の効果だ。あれは前に見たエリクサーによく似ていた」
「え、エリクサー!? あの万能薬のことですよね? それって本当にあるんですか!?」
ヴェルの言葉に、セシルは驚愕している。
エリクサー。それは万能薬の総称。
魔力、身体能力、思考加速。
あらゆる能力の向上に加え、万病に効き、死体でなければ、致命傷を負った体さえも瞬時に治すと言われている。
「ああ、本来のものよりは、だいぶ効果は弱いようだがな」
「そ、そんな貴重なものを、私は擦り傷を治すために使ったんですか……」
ヴェルの言葉に彼女はぶつぶつ何かを呟き、思考の渦に囚われている。
ヴェルは続けて妖精に問う。
「あの果実はもう一度出せないのか?」
ヴェルの言葉を受けて妖精が激昂する。
「バカじゃないの!? あんなものほいほい出せるわけないでしょ! あれはあの子の生命力の一部よ! 今回だけ特別の特別だったんだから! 絶対ダメ!」
「……そうか。なら、お前は何ができる?」
「何って、あたしも戦わせるつもり? 嫌よ、そんな危なそうなやつ。てゆうか、あんたの腕もぼろぼろだし、そもそも何と戦ってたのよ」
妖精はヴェルの腕を気持ち悪がり、コロコロと表情を変えながら問う。
「蜘蛛だ、最近この辺りに現れたらしい」
「あぁ! そいつ! 黒くてでかいやつ!?」
「そうだ」
敵の正体を聞き、妖精は急に態度を変える。
「ちょっと待った、あたしもやる。そいつのせいでこの辺一体の動物がいなくなって、この子のご飯がなくなっちゃったのよ! 危うく死んじゃうとこだったわ!」
絶対に許せない!
と言いながらその小さな拳をぷんすか振り回し、ぷんぷんと空中で地団駄を踏む。
(——ということは、あの蜘蛛のせいで、私がこの子達のご飯になっちゃうところだったんですね……)
妖精の言葉に、何故か彼女までもがげんなりと肩を落としている。
「それで、何ができる?」
「ええ? あー、あたしは回復とか、目眩しとかぁ……あとはわかんない」
妖精は自身について、まだよくわかっていないようだった。
「あ、でもぉ、この子の力を借りれば根っこで殴ったりはできるかも」
ヴェルは現在持ち得る手札で、どう戦うか考える。
普段のヴェルなら、ここまで戦術を気にしたりしない。
単騎で飛び込み、破壊する。
相手が倒れるまで、何度でも。
今まではそれでよかった。
時間はかかるが、確実に相手を殺すにはこれが一番いい。
だが今回は違う。
それでは自分以外は皆殺しにされるだろう。
『人を助けなさい』
頭の中に残るこの言葉が、呪いのように絡みつく。
煩わしい。
「——でしたら、まずは私が炎の魔法で相手の注意を引きます!」
彼女が手を挙げながら、提案する。
3人はいつのまにか車座になって座り、ヴェルの後ろではトレントが枝葉を揺らす。
「あの大きな蜘蛛も、生き物ですから本能的に炎を嫌うはずです。——それに、また小さい蜘蛛を引き連れてきた時には有効だと思います」
彼女の的確な分析にヴェルの思考も促される。
「では、トドメは俺が担う。だがあの技は、腕の状態から、あと一度だ。外せば次はない」
「だったら、あたしが蜘蛛の動きを止めればいいのね! あの子の根っこで絡めて、その隙にやっちゃえばいいわ!」
妖精は、完璧ね。と自慢げに小さな胸を突き出して、腰に手を当てる。
そうこうしてようやく作戦のようなものが完成した。
――――――
各々が準備を整え、しばしの休息をとっていると、彼女から声がかかる。
「ヴェルさん。あの、これ拾っておきました」
セシルが差し出したものは、黒曜石のナイフだった。彼があの戦闘で投げてしまったものだ。
「ああ」
ヴェルは短く返事をして、なんの感慨もなくただそれを受け取る。
「珍しいですよね、そのナイフ。大切なものなんですか?」
「いや、そうではない」
ヴェルの言葉にセシルは首を傾げる。
「でしたら何故黒曜石を? 壊れやすいですし、鉄の方がよく切れるのではないですか?」
セシルは当然の疑問を口にする。実際に拾ってきたナイフは、先端が欠けてしまっていた。
「よく切れる必要はない、相手を殺してしまわないためだ」
「……?」
彼の言葉は、いつも足りない。
相手を殺さないためにあえて弱い武器を使っているということでしょうか。
それでは、自分の身を守ることができないんじゃ。
そう思おうとして、セシルは気づく。
そうか、この人は死なないから……。
セシルは悲しい結論に至ると、それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
2人は横並びで沈黙の中に座っていると、場違いに明るい声が、その沈黙を破る。
「できたぁー!」
ふんふん〜、と鼻歌混じりに戻ってきた妖精は満足気に羽を震わす。
「じゃーん!!」
小さな両手を広げて示す先には、ただの地面しかない。
セシルは何があるのかさっぱりわからず、不思議そうな目で妖精を見上げる。
「ふふーん!見てなさい。えいやー!」
可愛らしい掛け声と共に、地面から凄まじい勢いで木の根が飛び出してくる。
「ひゃっ!」
セシルは、突然現れたそれに驚いて短い悲鳴をあげる。
そしてうねうねと獲物を探すように動き回り、やがて再び地中へと戻っていった。
「どーよ? なかなかに凶悪でしょー? これであの化け物もイチコロね!」
「ああ、上出来だ」
ヴェルは素直に感想を言う。
だが、あれでセシルと彼自身もやられたのだ。
よく平気な顔で見ていられるものだ、とセシルはヴェルに冷たい視線を送る。
そうしているうちに、森の中が急に静かになった。
小動物たちは息を潜め、虫たちの鳴き声も聞こえない。
月が雲に隠れて、周囲に漆黒の影を落とす。
3人は無言で状況を察し、トレントの巨木を背にして、静かに立ち上がる。
森の奥で、何かが擦れる音がした。
――ずるり。
重たい何かが地面を這いずるような音。
月が雲間から顔を出す。
月光に照らされ、浮かび上がるのは巨大な影。
脚を数本失い、複眼をいくつも潰されながらも、なお依然として変わらぬ強者の気配。
死糸を織る者。
その化け物が再び現れた。
「今度こそ、仕留める」




