第二話 常識と非常識
どれくらいの時間が経っただろうか、たった1秒が一瞬にも永遠にも感じる。
セシルは漆黒の瞳に睨まれ、追い詰められた鼠のように、震えることしかできない。
もはや地面に落ちた剣を拾い上げる気力すら残っていない。
セシルは幽鬼のようにぼんやりと佇む"それ"を改めて見る。
黒髪黒目の痩せぎすの男性。
服装も全身を黒一色で包み込んだ黒づくめだが、その顔だけはまるで能面の様に真っ白だった。
もし今が夜だったならば、顔が宙に浮いている様に見えたことだろう。
冒険者の認識表がはめられた腕は、だらりと力無く垂れ下がっていて、もう片方の手は所在なさげにポケットに突っ込まれている。
耳が痛いほどの静寂の中、意識を保つのもままならなくなってきた。
だが、いつまで経っても終わりの時は訪れない。
「………………まだか?」
「……え」
セシルはぼんやりと見上げると、若干不機嫌そうな顔を貼り付けた男が、こちらに何か問うている。
「お前が来るなと言ったのだろう。ならばお前がそこをどけ。俺はその先に用がある」
男は無駄なく完結に要件を述べる。
ぼんやりとした頭でも言葉の意味するところはは理解できた。
理解はできたが、体で実行するのはまた別の話だ。
セシルは、脚に力を込めて立ちあがろうとするが、その脚はピクピクとわずかに痙攣するだけで、全くいうことを聞いてくれない。
セシルは目尻に涙を溜めながら、震える表情で男へ告げる。
「で……できません」
「はぁ……もういい、こちらからいく」
男は縮こまるセシルを見ても全く表情を変えない。
苛立ちが塊になって吐き出されたかの様なため息をつく。
そしてずっと立ち止まっていた男の足が動き出す。
セシルは、今度こそと己の最後を悟り、目を閉じてその時を待つ。
「…………。」
だが、待てども待てども"その時"は訪れない。
むしろ、絶望の足音はこの場から徐々に遠ざかっていく。
そして男の足音はガサガサと茂みの中へと踏み入っていく。
そこでようやっと目を開けたセシルは、長く伸びた草や、木の枝から垂れる蔓に邪魔され、悪戦苦闘しながら茂みの奥へと入っていく男を目にした。
「ちょ、ちょっと! 何してるんですか!」
先ほど、『こちらからいくぞ』などと、いかにも攻撃を仕掛けますという様なセリフを吐いた男。
それが目を開けてみれば、明後日の方向へ歩いていき、蔦に絡まっているのは一体どういう状況だ。
セシルは思わず男へ声をかけてしまったが、男は首だけでこちらを振り返る。
「何だ?」
「待ってください! どこにいくんですか!?」
行動に一貫性のない男に、セシルはつい大声で叫んでしまった。
先ほどまでこの男に、殺されそうになっていたのに、何故だか声をかけずにはいられなかった。
「あちらだ」
男はセシルの後ろの方を指差す。
男が指差した方向と、実際に歩いている方向が全く違う。
セシルが理解できないでいると、男は無視してまた茂みの中へと……
「だから、待ってくださいってば!」
セシルの大声に男はそれ以上進むのをやめて、絡まった蔦を振り解きながらセシルの前に戻ってくる。
「何だ? 用があるなら早く言え」
「あなたは何がしたいんですか!?」
男は理解できないものを見たように目を細めて、首を傾げ、ため息をつく。
理解できないのはこっちの方なのに、セシルは段々と腹が立ってきた。
「お前が言ったのだろう、『来るな』と。それにそこを退くつもりもないと言った。俺はこの先に用があると言ったはずだ。ならば、こちらから回っていくほかに、一体どうしろというのだ」
「…………へっ?」
間の抜けた声が出てしまった。
待て待て、頭が混乱して、今度は言葉の方が理解できない。
お願いだから誰かこの状況を説明してほしい。
「な、何を言って……あなたは私を殺すんじゃないんですか?」
「……何故?」
「な、何故って……あなたは、リビングデッドなんじゃ……?」
「りびんぐ……知らんな。なんだそれは」
男は首を傾げたまま、何一つ理解できないといった態度だった。
「じゃあ、あなたはいったい何なんですか?」
「俺の名前は、ヴェルだ。先ほども名乗ったはずだが」
だめだ、絶望的に会話が噛み合わない。
やはり屍には話など通じないのか。
「……俺と話す者は、皆同じような反応をする。俺はそちらの質問には全て答えた。要望も全て聞いた。その上で、これ以上俺に何を求めるんだ?」
「だって、あなたはリビングデッドで……」
「……はぁ」
またため息ついた!?
「俺が『何者か』などはどうでもいい。お前らが勝手に決めろ。だが、ただ俺の邪魔をしたいだけなら、お前と話すことはもうない」
男は吐き捨てるようにそれだけ言うと、セシルの横を通り過ぎて去っていく。
その横顔はほんの少しだけ、寂しげに見えた。
「ま、待って……」
男は数メートル先で立ち止まる。
だが男はこちらを振り返らない。
セシルはこの状況を何一つ理解できなかった。
けれど、この男にこれだけは聞いておかなければならなかった。
「……あなたは、私を……助けてくれたんですか……?」
「……そのつもりだ」
やや間があってから、その男——ヴェルはこちらを振り返らずに、ぽつりと言った。
「——もういいか? 俺は依頼がある。時間もない」
そんな顔を見てしまったからだろうか、得体の知れないこの人に、こんなことを頼むなんて。
「——あ、あの、私も……連れて行ってくれませんか?」
青年は少しだけ考えて、短く一言。
「構わない」
ヴェルは背を向けて歩き出す。
だが今度は、ちゃんとこちらを振り返りセシルに問う。
「……どうした? 早く来い」
こちらを急かすヴェルの言葉に、セシルは羞恥に顔を赤らめて、ぽそぽそと言葉を紡ぐ。
「……あ、あの、実は腰が抜けて、歩けなくて……」
ヴェルは今日一番のため息をこぼした。
そして早足で戻ってきては、何の躊躇もなく少女を担いで、足取り重く歩き出した。
————————
セシルとヴェルが出会う日の前日。
何でも屋の青年ヴェルは目を覚ました。
それと同時に、今まで静止していた心臓も思い出したかのように鼓動を始めた。
陽はもうずいぶん高く昇っているようだ。
いつもより目覚める時間が遅い。
そこで青年は気づく。
——また、死んでいたか。
思い返せば、ここ数日は水を飲むのを忘れていた。
食事については、もともとあまり取らない。
それでも奴に『水だけはたまに飲め』と言われていたのだが。
深く息を吐き、体を起こす。
そして周囲を見渡して現状を確認する。
昨夜の記憶が少々曖昧なこと以外は、特に変わった様子はない。
今まで横になっていたのはベッドはなく応接室に置いてあるソファの上。
寝る場所にこだわったことはないため、昨夜の自分はここで眠ったのだろう。
ぼやける頭で昨夜のことを思い起こすが、浮かんでくるのはいつのものかわからない記憶ばかり。
しばしの後、少々乱暴なノックの音が青年の鼓膜を震わす。
虚空に溶けていた思考が、現実に引き戻される。
ノックの後、こちらの返事も待たずに——返事をするつもりも特にないが——1人の男がドアを開けて入ってきた。
「よう、起きてるか?」
部屋に入ってくるのは、赤い鱗に覆われ、牙を剥き出しにした大男。
蜥蜴男だ。
相変わらずのにやけ面で、ずかずかと無遠慮にヴェルの元へとやってきては、どかりと正面に腰を下ろす。
「お前か、ロック」
ここを訪れる者はそう多くはない。
せいぜいこの蜥蜴男とたまに厄介ごとを持ってくるあの男くらいだ。
「鍵くらいかけろって言ってんだろ、この阿呆。何のために付けてんだ。ったく」
ロックと呼ばれた蜥蜴男は、指先に引っかかった鍵をチャラチャラと回し、悪態をつく。
言葉も態度も非常に悪いが、言ってることだけは至極真っ当だ。
「盗られて困るもんは……ねぇのかもしれねぇが、盗人にタダでくれてやることはねぇだろ」
「興味がない」
ロックの言葉に、絞り出すように返事をする。
喉が張り付いていて、少々声が出しづらい。
「ああ?——テメェ、また死んでたのか? 水を飲め、水を、そうすりゃ多少は長く動けるってのに、ったく」
言いながらロックは立ち上がり、水を汲んでくる。
鋭い爪の生えた無骨な手で、器用なものだ。
悪態をつきながら、ヴェルの前に水の入ったコップを置き、顎をしゃくる。飲め、と。
「——テメェは無表情のくせにわかりやすい奴だな。水飲むくれぇでそんな嫌そうにすんじゃねぇよ」
ヴェルとしては、何とも思ってはいなかったが、奴はそう受け取ったらしい。
構わず水を飲む。
喉を通り、体の底へと落ちいく感覚に何の感慨もない。
「水を飲んでも、いずれ排泄される。……何の意味がある」
「意味ってお前……そういうのじゃねんだよ、人間ってのはなぁ……あぁ〜もういいや、仕事の話だ」
一連のやり取りは、毎度のこと。ロックにとってはあいさつみたいなものだ。
ヴェルにあれこれ指図はすれど、強制はしない。
手でひらひらと、どうでもいい話題を振り払って、ロックは仕事の話を始める。
「依頼だ。今回はちっとばかし骨が折れるが、討伐依頼だ」
「——討伐……何をだ?」
ヴェルが何でも屋を始めて数年。
文字通り何でもやってきたため、討伐依頼も何度か受けた。
だが結果は決して芳しくなかったはずだ。
それゆえにここ最近は討伐依頼はなく、調査、採集などの依頼が多かった。
「魔物だ。まだ確かなことは言えねぇが、おそらくフィアー級だ。ギルドの方ももう動いてる。情報源が曖昧だからな、まだ正式な討伐要請は出てねぇが」
フィアー。恐怖の怪物か。
「そうか」
ヴェルにはその脅威の度合いはわからない。
ことの重大さも、本当の意味では理解できていない。
だが目の前の蜥蜴男は、このことを重く捉えているようだ。
いずれギルドから正式な依頼が来ることは予想がついている。
だから先んじて行け、と言いたいのだろう。
「わかった。——それで、どこへ行けばいい?」
「異界の森だ」
ロックの言葉に、ヴェルは以前の記憶を掘り起こす。
「……あそこか。前にも一度行ったことがあるな」
「そうだな、前の依頼は遺跡の調査だったか。まぁ結局辿り着けなかったうえに、護衛のパーティも半壊した。あの依頼主はまだ諦めてねぇようだから、近々また依頼されるかもな。だが今はそれはどうでもいい。前みたいに、そこまで深く入る必要はねぇしな」
ロックは地図を取り出し、森の入り口付近にバツ印をつけ、そこを指差す。
「場所の見当はついてる。森の入り口まではうちの奴らに送らせる。あとは魔力が澱んでいる場所を探して叩け。シンプルだろ?」
「——俺に殺せるのか? 戦闘は不向きだ」
「あーその辺は気にすんな、万が一討伐できれば御の字だ。できなかったら情報を持ち帰れればそれでいい」
この男はヴェルが1人で勝てるとは微塵も思っていないようだ。
だが、しぶとさだけは買われている。
どんな状況であっても必ず"生きて帰る"ことだけは絶対にできるのだから。
「わかった。それならすぐに出よう。——それで、相手はどんな魔物だ?」
「——蜘蛛だ。それも、特大のな」
――――――――
夜の静寂の中、四足の獣の蹄が響き、馬車は闇を切り裂くように進む。
もうすぐ到着するとのことだが、目的地の森はまだ見えない。
今夜の月明かりでは、数歩先を見通すことも叶わない。
「——そろそろ着きますよ」
静寂を破って声をかけてきたのは、ロックのそばでよく見かける少年。
遠方での依頼の際には、よく行動を共にする。
今回の依頼についても、この少年から詳しい説明を受けた。
割とよく顔を合わせる間柄ではあるが、名前を聞いたことはない。聞く必要もない。
「——ああ」
ヴェルの愛想のない返事にも、いつものことだと、気にした様子はない。
そして、少年が荷物の入った皮袋を差し出してくる。
その中身はナイフとポーションにロープなど諸々、それと銀貨が数枚。
いつも通りだ。
「さっきも言いましたが、気をつけてください。今回の依頼、ロックさんは討伐だと言ってましたが、僕としてはいち早く情報を持ち帰ってくれる方がありがたいんです」
「——そうか、だが依頼内容が討伐ならば、挑むべきだ」
ヴェルの言葉に少年は苦い顔をして続ける。
「あなたはそう思うのかもしれませんが、普通は違います。未知の怪物相手に、1人で行って戦ってこいなんて依頼は、依頼なんかじゃありません。——ただ死んで時間を稼いでこいって、言われてるんですよ?」
少年の言葉はヴェルを心配しているようで、そうではない。ヴェルを見る目は、得体の知れない化け物を見たときの、それだ。
「だが、殺されようとも、死にはしない。情報は持ち帰れる。問題はないはずだ」
「ありますよ!」
少年はヴェルの言葉に対しやや食い気味に反論をする。
声を荒げているはずなのに、周囲には響かず、森の静寂に音が溶けていく。
「あのですね、いつも死体になったあなたを、誰が運んでると思ってるんです? ぐちゃぐちゃになった体や、ちぎれた胴体を持って運ぶのはいつだって僕なんですよ」
少年は、日頃たまっていたものを吐き出すかのように、それに、と続ける。
「この前も思いましたが、あなたが頭から真っ二つに裂かれた時は、一体どっちを持って帰ればいいいんですか?」
ヴェルの方も聞いているのかいないのか、遠くの方を眺めている。
「……心臓か、頭が近い部位だな。縦に裂かれた場合は左半身がいいだろう」
遠くの方に、漆黒を煮詰めて塗りたくったような森が見えてきた。
ひんやりとした風が一瞬ヴェルの頬を撫でる。
「そんな気持ちの悪いこと、真面目に答えないでくださいよ」
少年はややぐったりとしているが、小言は続く。
「それに、あなたは死んでから元に戻るまで何も話せないですし、死んだ直後の記憶はいつも曖昧ですから、情報が断片的になるんですよ」
「だが、それが俺のしご……」
「だがじゃないです! ……いつも僕がロックさんに怒られるんですから。いいですか、僕だって好きでこんな危険な場所にいるわけじゃないんです。こんな依頼の送迎なんて、早く終わらせて帰りたいんです。……ですから、なるべく死なずに帰ってきてください」
少年の言葉には、切実さが溢れ出ていたが、仕事は仕事だ。
依頼主はこの少年ではない。
「約束はできない。だが、わかった」
少年はその見た目には不釣り合いな深いため息を吐くと、それと同時に馬車が止まる。
「——着きましたよ。では、お気をつけて」
ヴェルは馬車を降りる。
痛いほどの静寂が、森の奥から流れてくる。
そして何の躊躇もなく、闇の中へと足を踏み入れた。




