第一話 目覚めと邂逅
深い森の奥で少女は、全身に酷い倦怠感を覚えながら目を覚ます。
視界に映るのは木々の隙間から覗く、嫌味なほど清々しく晴れた空。
硬い地面に寝そべっている少女は、全身が傷だらけで、泥に塗れている。
(私はどうして、こんなところで……)
少女——セシルは昨夜の記憶を思い起こす。
(森に入って……探索して、野営を……)
朧げな記憶を繋いで、昨夜へ辿り着くとハッとした表情と共に全てを思い出す。
フラッシュバックした記憶は、一瞬の浮遊感、そして大地の引力に引っ張られ、落下していく自分。
(最後の記憶は、宙に浮かぶ、あの光に手を伸ばして……)
セシルは仰向けに寝転んだまま、木漏れ日に向かって手を伸ばす。
当然、何を掴めるわけもない。
だが、視界の端にそう高くもない崖が見える。
位置的にも、あそこから落ちたのだろうとあたりをつけ、ため息を吐く。
(情けない。もう冒険者になって2年になるというのに、魔物の幻惑か、はたまた妖精の悪戯でしょうか)
だがまぁなんにせよ、こうして生きているのであれば次がある。
美しくて人を惹きつけるものには、気をつけなければならない。
そんな教訓を得た。
セシルは反省の時間をそこで終わらせ、自らの野営地へ戻るべく体を起こす。
すると、左腕に何かが絡まっており、それに引っかかって再び地面へと倒れ込む。
(痛ったた……蔦でも絡まったでしょうか)
セシルは打ちつけた背中の痛みに涙を滲ませて、忌々しい蔦を睨みつける。
だがセシルの腕に絡みついていたものは、蔦ではなく……
——病的なほどに青白く、シワだらけの人間の腕だった。
「いやあああああぁぁ!!」
セシルは恐怖のあまり絶叫する。
その悲痛な叫びは、静かな森に高々と響き渡る。
「嫌! やだ! 離して!!」
セシルは、絡みつく腕を何度も蹴りつけながら、ズルズルと後ろへ下がる。
青白い腕は、セシルの細い腕をガッチリと掴んでおり、引き剥がせない。
そして青白い腕の先には、木の根が無数に絡まっており、引っ張られた腕と一緒にずるりと動く。
その時、木の根の一部が崩れて、何かが見えた。
いや、違う。
何かに"見られた"
瞳孔の開き切った真っ黒な目が、真っ直ぐにこちらを見返していた。
「あ、ああ……ああああぁぁぁ……」
もはや悲鳴も上げられないセシルは、すぐさま自らの腕を掴んでいる手、その指を逆の手で掴む。
そして思いきり力を込める。
バキッと背筋の凍るような音を響かせながら、指の一本をへし折る。
もう一本、二本とバキバキとへし折った時、ようやく腕が抜けた。
その腕には、赤黒いアザが人の手の形になって残っていたが、そんなことを確認する余裕もなく、セシルは走り出す。
生物の気配がしない静かすぎる森の中に、セシルの荒い息遣いだけが響く。
(嫌だ嫌だ嫌だ。死にたくない、死にたくない!)
足場の悪い森の中を、脇目も振らず、ただ走る。
だが全力疾走など、そう長くは続かない。
徐々に酸欠になり、視界がチカチカと明滅していく。
そして気づいた時には、地面に崩れ落ちていた。
グラグラと揺れる視界の中、セシルの耳がわずかな水音を捉える。
音のする方へ、腕の力だけでズルズルと這っていき、バシャっと音を立てて、右手が小川に流れる水に触れる。
その水を掬って、口の中へと流し込む。
「……ゴホッ、ゲホッ」
呼吸もままならない状態で、水など飲めるはずもなく、咳き込みながら吐き出してしまう。
そのまま目を瞑り浅い呼吸を何度も繰り返す。
少しずつ落ち着きを取り戻したセシルは、もう一度水を掬い、口をわずかに湿らせる。
そして鉛のように重たくなった足を引きずり、小川に顔を突っ込み、ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲む。
冷たい水が、熱を持った体に染み渡っていくのがわかる。
満足いくまで水を飲んだセシルは、その場でごろんと仰向けになり、空を見上げる。
(……生きてる、まだ生きてる。大丈夫)
セシルは自分にそう言い聞かせると、体を起こし、近くの木に背を預ける。
川のそばはひんやりとした風が吹いていて、沸騰した頭を冷ましていく。
「野営地に、戻らないと。荷物と、装備……」
セシルは目の前を流れる小川を見る。
野営地のそばにも、川が流れていた。
確かここよりも大きな水場だったはずだ。
(この川を辿っていけば戻れるかもしれない)
ガクガクと震える足に力を込めて、木を支えにしてなんとか立ち上がる。
そしてふらふらとよろつきながら、川の上流を目指す。
途中で何度も休憩を取りながら、ようやっとセシルは自らの野営地までたどり着いた。
幸い誰かに荒らされた様子はなく、荷物は全て残っていた。
ほっと胸を撫で下ろし、天幕の中へ倒れ込む。
気を抜けばそのまま眠ってしまいそうになる。
「あれは……なんだったんでしょうか」
先ほどのおぞましい光景を思い出し、軽く身震いをしながら、掴まれていた腕を見る。
きめの細かい艶やかな腕には、赤黒いアザがまるで呪いかのようにくっきりと残っている。
そしてその細い手首には、革の腕輪が嵌められている。
冒険者の認識表——小さな銅のメダルが嵌め込まれたそれは、銅級冒険者の証。
セシルはさらに断片的な途切れ途切れの記憶を辿る。
先ほどの青白い腕にも、これと同じものが嵌っていたような気がする。
あの時は気が動転しており、何もかもを正常には判断できなかった。
だが、冷静になった今思い返してみれば、もしかしたらあれは同業者だったのではないだろうか。
あの根に絡みつかれ、意識のない自分に助けを求めたのか、あるいは逆に……
(私を、助けようとした……?)
その可能性に至った途端、背筋がゾッと寒くなる。
思えば、あの腕には無数の根が絡みついていたが、自分にはひとつとして絡みついてはいなかった。
そしてあの目は、自らが死ぬその時まで、セシルのことを見ていた。
「嘘……でしょ」
もしそうなら、自分はなんてことをしてしまったのだろう。
自分を救ってくれたかもしれない人を足蹴にして、悲鳴をあげ、遺体を傷つけ、あげく泣きながら逃げるなど……。
状況が状況だったとはいえ、冒険者として恥ずべき行為だ。
「——戻ろう。ちゃんと確かめなきゃ」
セシルは立ち上がり、手早く装備を整える。
服を着替え、革の胸当てとベルトを締め、短剣を腰に差す。
目を瞑り、深く息を吐いて、震える足で立ち上がる。
そして静かに、だが確かな足取りで元来た道を歩き出す。
戻ってきた時は果てしなく長く感じた道のりは、距離にすればさほど離れてはいなかった。
1時間もしないうちに元の場所へと戻ってくると、心臓がバクバクと早鐘を打つ。
うるさい鼓動を鎮めるためにセシルは深く息を吸う。
そしてゆっくりと息を吐きながら、木の陰から先ほどの場所を覗き見る。
(……あった)
覗き見た先には先ほどの腕が落ちている。
その腕の先に絡まる木の根は、よく見れば人の形に見えなくもない。
落ちている腕には、やはり冒険者の腕輪が嵌められていた。
セシルは俯き、目に涙を滲ませる。
だが、確かめてしまった以上は、あの腕輪は持ち帰らなければならない。
これは冒険者としての証であり、誇りだ。
そしてあの人がここにいたという、唯一の証明なのだから。
セシルは袖で涙を拭うと、もう一度あの冒険者を確認する。
そしてわかったことがひとつ。
あの根は……魔物だ。
冒険者を飲み込んだ根の先には、大木がそびえ立っていた。
無数の根を操り、動物や人間を捉えて絞め殺す。
その後は自らの養分とする森に多く生息する魔物。
(……トレント? でも、あれは……)
大きい、大きすぎる。
一般的なトレントは、大きくてもせいぜい2〜3メートルほどだ。
だがあの個体の大きさは10メートルを超えている。
幹も太く、根の数も尋常じゃない。
それに、眩暈がするほどの濃密な魔力が、葉や枝から溢れ出て可視化できるほどだ。
あんなものに襲われては、自分などひとたまりもない。
一瞬で魔力を吸われて、訳もわからず絶命していたことだろう。
セシルは足元に落ちている小石を拾い、トレントに向かって静かに放る。
ゆるい放物線を描きながら、小石はトレントの根の一つにぶつかる。
カラカラと軽い音を立てて小石は跳ね返る。
(……反応はない、今なら!)
大丈夫、腕輪を外して逃げるだけ。
危なければ、油を撒いて火を放てばいい。
セシルは頭の中で算段を立て、音を立てないようにゆっくりと腕に近づく。
幸いトレントは動き出す気配はなく、すんなりと腕のそばまで辿り着く。
上から見下ろしてみると、腕の先の輪郭がはっきりと見えた。
再び滲んだ涙を拭いもせず、セシルは冒険者の腕輪にそっと手を触れる。
黒い宝石が嵌め込まれた腕輪は、自分のものとはだいぶ意匠が異なるが、おそらくはセシルよりもずっと高位の冒険者。
(やっぱり……私はこの人に助けられて……)
わずかに赤みの差した腕から、認識表を外そうとすると、何かの違和感を覚えた。
セシルは自分の腕に残る赤黒いアザを見る。
この腕は、もっと冷たく干からびていて、シワだらけではなかっただろうか。
それにこの柔らかく垂れ下がった指は、腕を振り解くために、私がへし折ったはずではなかっただろうか。
「…………え?」
次の瞬間、死体の指がぴくりと動き、惚けていたセシルの手首をガシリと掴む。
「っっっ!?!?」
一瞬の出来事に、セシルは心臓が止まってしまいそうなほど驚き、その場で尻餅をついて固まってしまう。
「——何をしている」
低く掠れたような声が鼓膜を震わす。
「あ……ああ、いやぁぁぁ!!」
セシルは手を振り解き、ずりずりと這いつくばってその場を離れる。
逃げ出したいのに、何故だか足が動いてくれない。
セシルは振り返り、木に背中を預けて腰の短剣を引き抜く。
声の主は、細い根をぶちぶちと引きちぎりながら、ゆらゆらと幽鬼のように立ち上がる。
冷たい漆黒の瞳に見下ろされ、セシルは呼吸も忘れてガチガチと歯を鳴らす。
立ち上がった"それ"は、こちらへとゆっくり近づいてくる。
「っいや!……こ、来ないで、ください!」
セシルは震える腕で短剣を握りしめ、定まらない切先を、かろうじて"それ"へと向ける。
"それ"はセシルの言葉を受けて、その場でぴたりと足を止める。
「やめろ、あれを刺激するな」
セシルは、前に読んだことのある冒険の書の記述が脳裏に浮かんだ。
Living Dead——生ける屍。
"それ"は生者を喰らう亡者であり、世界に災厄をもたらす死の化身……
「……はぁ」
"それ"は小さくため息をつくと、感情のない黒い瞳でこちらをじっと睨みつける。
セシルは己の最後を悟り、まるで糸が切れたかのように、フッと手の力が抜けた。
短剣が地面に落ちて、カラカラと音を立てる。
その時、天から聖なる光が舞い降りる。
その光はセシルを守るかのように、"それ"の前に立ち塞がる。
「……これで満足か? なら俺は行かせてもらう。そいつには手を出すな。もう用はないはずだ」
するとその光は、まるで喜んでいるかのようにチカチカと明滅し、"それ"の周りをぐるぐる回るとあっさりと離れていってしまった。
「お前も、生きているのならさっさと逃げろ」
流暢に紡がれるその言葉は、自分に対して言ってるのだろうか。
状況の変化に頭が追いつかないセシルは、何とか声を絞り出し、"それ"に向かって問う。
「……あなたは、一体何なんですか?」
たった今目の前で死から甦った男は、気だるそうに答えた。
「俺か……俺は、ヴェル。なんでも屋だ」




