第四夜 ヨルメナ――見られたくない僕
妖怪ネオン町、第四夜。
今夜登場するのは、影ランタンを携えた無口な怪異「ヨルメナ」。
誰にも見られたくない気持ちを抱えた少年が、夜の街で目にするものとは――。
どうぞ最後までお楽しみください。
ここは妖怪ネオン町。
どこにでもある、夜の街。
誰にでも、見られたくないものがある。
失敗。弱さ。嫉妬。惨めさ。
人はそれらを心の奥へ押し込み、何事もなかったような顔で夜を歩く。
少年は、自分に見られたくないものなどないと思っていた。
父親の会社が順調だった頃、少年の誕生日は毎年派手だった。
ホテルのレストランで食事をし、欲しい物を聞かれる前から新しい端末や服が用意されていた。
父親は値札を見ずに金を払い、「持つべき人間が持てば、物にも価値が出る」と笑った。
少年はその言葉を、何度も学校で使った。
高い物を持てない人間は、努力が足りない。人が集まらない人間には、それだけの理由がある。
父親の言葉をまねると、自分まで大人になったような気がした。
欲しい物は、何でも手に入った。
最新のスマートフォン。限定のスニーカー。友人たちが羨むゲーム機。
父親は会社の社長で、黒い高級車に乗り、高価な時計をいくつも持っていた。
学校では、誰もが少年の周りに集まった。
「それ、もう買ったの?」
「今度、家で遊ばせてよ」
「お前の父さん、やっぱすげえな」
少年は、そう言われるのが好きだった。
昼休み、クラスの大人しい男子が一人で弁当を食べていた。
使い古した筆箱。安い靴。画面にひびの入った古いスマートフォン。
少年は取り巻きたちと、その机を囲んだ。
「まだそれ使ってんの?」
男子は黙ってスマートフォンを伏せた。
「別にいいだろ」
「怒んなよ。冗談じゃん」
少年が笑うと、周囲も笑った。
誰かが男子の筆箱を取り上げ、別の誰かへ投げた。
筆箱の中身が床へ散らばった。
短くなった鉛筆。何度も消して薄汚れた消しゴム。小さな妹が貼ったらしい、子ども向けのシール。
男子が黙って拾おうとすると、少年は靴の先で鉛筆を遠くへ転がした。
「新しいの買えばいいじゃん」
「……これは、まだ使えるから」
「そういう貧乏くさいところが、からかわれる原因なんじゃね?」
教室に笑い声が起きた。
男子は顔を上げなかった。
少年は勝ったような気分になった。
少年は止めなかった。
自分が直接やったわけではない。
それに、嫌なら言い返せばいい。
何もできない方にも原因がある。
そう思っていた。
放課後、少年は高校生の不良グループと合流した。
年上の彼らと歩くところを同級生に見せるのが好きだった。
「今日、金ある?」
リーダー格の男が聞いた。
「あるよ」
「じゃ、飯行こうぜ。お前のおごりな」
「いいよ。そのくらい」
少年は笑った。
五人分の食事代を払った。
そのあとゲームセンターへ行き、遊び代も出した。
彼らに財布として扱われているとは思わなかった。
年上の仲間に頼られているのだと思っていた。
グループの端には、いつも雑用を押しつけられる高校生がいた。
飲み物を買いに走らされ、先輩の荷物を持たされる下っ端だった。
その下っ端だけが、金を払う少年をじっと見ていた。
帰り際、下っ端が一人で少年へ近づいた。
「あいつら、お前が金持ってるから呼んでるだけだぞ」
「は?」
「金、出しすぎだろ」
少年は鼻で笑った。
「お前と一緒にすんなよ。俺は先輩たちに気に入られてんの」
下っ端の着古した上着を見て、言葉を足した。
「金ない奴には分かんないだろうけど」
下っ端は何も言い返さなかった。
ただ、諦めたように目を伏せた。
何か言いたそうだったが、結局、口を閉ざした。
少年の世界は、自分を中心に回っていた。
あの夜、父親に食卓へ呼ばれるまでは。
「大事な話がある」
父親は見たことのない顔をしていた。
高級なスーツではなく、くたびれたシャツを着ている。
母親は青ざめ、両手を膝の上で強く握っていた。
「会社を閉じることになった」
少年は意味が分からなかった。
「閉じるって?」
「倒産だ。借金がある。車も時計も売る。今の家からも出ることになる」
「父さん、社長じゃなくなるの?」
「そうだ」
「じゃあ、俺はどうなるんだよ」
父親は「すまない」と頭を下げた。
少年の中で、何かが壊れた。
「ふざけんなよ」
椅子を蹴って立ち上がった。
「学校で何て言えばいいんだよ。みんな、父さんのこと成功してるって思ってるんだぞ」
父親は何も言い返さなかった。
その姿が、余計に腹立たしかった。
翌日、少年はいつも通り学校へ行った。
何も変わっていない顔を作った。
だが、変化はすぐに始まった。
父親の会社の車が消えた。
高級時計も、家にあった酒もなくなった。
限定スニーカーを買う約束は取り消された。
やがて引っ越しの話が、どこからか学校へ伝わった。
「お前の父さんの会社、潰れたって本当?」
友人が笑いながら聞いた。
「潰れてねえよ。事業を整理しただけ」
父親が使っていた言葉をまねた。
「でも、車売ったんだろ?」
「次の買うから」
嘘だった。
体育の着替えの時間、少年はロッカーの奥へ古いスニーカーを隠した。
新しい物を買うまでの代用品だと自分へ言い聞かせたが、新しい物を買う予定などなかった。
昼食も変わった。
購買で好きな物を買い、友人へ奢っていた少年が、母親の作った小さな弁当を持ってくるようになった。
蓋を開けるところを見られたくなくて、昼休みはトイレへ逃げた。
個室で冷えたおにぎりを食べながら、以前いじめていた男子が一人で弁当を食べていた姿を思い出した。
同じだとは認めたくなかった。
自分は一時的に落ちているだけだ。あいつとは違う。
そう繰り返すほど、おにぎりが喉につかえた。
取り巻きたちは、その日から少しずつ離れた。
昼休みに少年の机を囲む人数が減った。
いじめの話が教師の耳へ入ると、彼らは少年だけを指した。
「あいつが始めた」
「俺たちは止められなかっただけ」
以前いじめていた男子と、廊下ですれ違った。
助けを求めるように顔を見たが、男子は何も言わず通り過ぎた。
当然だった。
それでも少年は、裏切られたように感じた。
高校生の不良グループからも連絡が来た。
「今日、十万持ってこいよ」
「そんなにない」
「父ちゃん社長だろ」
「会社、ちょっと今……」
少年が言葉を濁すと、電話の向こうで笑い声が上がった。
「じゃ、お前もういらねえわ」
「待ってよ。俺たち仲間だろ」
「誰がお前みたいな中坊と仲間なんだよ」
通話は切れた。
数日後、街で彼らを見かけた。
少年が近づくと、リーダー格の男は露骨に顔をしかめた。
「金ないなら来んな」
グループの端にいた下っ端だけが、少年と目を合わせた。
リーダー格の男が、少年の胸を軽く押した。
「今まで使った分、返してほしいくらいだわ」
少年は意味が分からなかった。
払っていたのは自分だ。感謝されることはあっても、責められる理由などない。
「俺がずっと出してたじゃん」
「勝手についてきて、勝手に払ってただけだろ」
周囲が笑った。
かつて教室で男子を囲んだときと、同じ笑い声だった。
今度は、自分がその中心に立っていた。
下っ端がわずかに前へ出たが、先輩に睨まれて足を止めた。
「もう行こうぜ」
誰かが言い、不良たちは少年を残して去った。
下っ端は最後まで振り返っていた。
その目には嘲笑ではなく、痛みを知っている者のような色があった。
しかし、助けてはくれなかった。
少年は一人になった。
学校へ行けば、何も知らないふりをした。
家へ帰れば、引っ越し用の段ボールが増えていた。
父親は毎朝、安い作業着で家を出るようになった。
母親はパートの時間を増やし、夕食の品数が減った。
引っ越し先は、今の家よりずっと狭いアパートだった。
少年は部屋の写真を見ただけで、「こんな所に住めるか」と怒鳴った。
母親は反論せず、段ボールへ食器を詰め続けた。
その背中が小さく見えた。
少年は謝れなかった。
その姿を近所の人に見られるのが嫌だった。
見られたくない。
会社が潰れたことを。
友人に捨てられたことを。
不良に金をせびられていたことを。
自分には何も残っていないことを。
その気持ちは黒い煙となり、少年の足元へたまっていった。
夜になると、煙は胸まで這い上がった。
息が苦しい。
誰かの視線を感じるたび、心臓が跳ねた。
笑い声はすべて自分へ向けられているように聞こえた。
少年は家にも学校にもいられず、夜の飲み屋街へ迷い込んだ。
ネオンが一つずつ消えていく。
黒い煙はもう、少年の頭まで覆っていた。
「見るな」
誰もいない路地で呟いた。
「俺を見るなよ」
そのとき、路地の奥に人影が立っていた。
黒い大きなフード。
耳のように尖った輪郭。
マゼンタに光る面の中央には、青い一つ目だけが浮かんでいる。
手には黒い影ランタンを提げていた。
ヨルメナは何も言わない。
一つ目で、少年を見ている。
「見るなって言ってるだろ」
少年は怒鳴った。
ヨルメナは動かなかった。
影ランタンの扉だけが、ゆっくりと開いた。
少年を覆っていた黒い煙が、そこへ吸い込まれていく。
父親への怒り。
友人への恨み。
利用されていた惨めさ。
いじめてきた相手へ助けを期待した自分への嫌悪。
見られたくなかった気持ちが、一つずつ影ランタンの中へ収まっていった。
感情が消えたわけではない。
ただ、煙に塞がれていた視界が少しだけ戻った。
ヨルメナが背を向けた。
影ランタンの光が、路地の先へ細く伸びる。
「どこ行くんだよ」
返事はない。
ヨルメナは歩き始めた。
行く場所のなかった少年は、その後を追った。
たどり着いたのは、小さな看板屋だった。
シャッターは半分開き、中から作業の音が聞こえる。
少年は窓の外から中をのぞいた。
作業着姿の父親がいた。
先輩らしい職人に、厳しい声で注意されている。
「文字が右へ寄ってる。客の入口からどう見えるか考えろ」
「すみません。直します」
父親は素直に頭を下げた。
社長だった頃、人前で頭を下げる父親など見たことがなかった。
少年は目をそらしたくなった。
格好悪いと思うはずだった。
だが、父親はすぐに顔を上げ、真剣に看板を直した。
配線をつなぎ、位置を整える。
やがて看板に明かりが入った。
小さな店名が、夜の中へ浮かび上がる。
父親は汗を拭い、その灯りを見上げた。
高級時計も、車も、社長という肩書もない。
それなのに、父親は誇らしそうだった。
以前より、ずっと。
「きれいだな」
父親が小さく呟いた。
先輩職人が隣へ立った。
「まだ甘い。でも、前より良くなった」
「ありがとうございます」
父親はもう一度、頭を下げた。
少年は初めて知った。
頭を下げても、人は小さくならない。
持っている物を失っても、消えない光がある。
隣で、ヨルメナの影ランタンが揺れた。
黒い表面に、少年自身の姿が映っている。
高価な物を持ち、友人に囲まれ、不良との関係を自慢していた自分。
その背後には、いつも父親の光があった。
少年自身から出ていた光は、一つもなかった。
父親の金。
父親の地位。
父親の車。
借り物の光を反射して、自分が輝いていると思っていただけだった。
「俺は……」
声が出なかった。
影ランタンの中では、見られたくなかった気持ちが黒く渦巻いている。
それらは消えていない。
少年が傷つけた人も戻らない。
離れた友人も、不良グループも戻らない。
自分が何者なのかも、まだ分からない。
父親が作業場の灯りを消した。
完成した看板だけが、暗闇に残った。
少年はその光を見つめた。
「じゃあ……俺の光は、どこにあるんだ」
ヨルメナは答えなかった。
青い一つ目が、静かに少年を見返す。
慰めも、許しも、答えも与えない。
ただ、影ランタンの扉を閉じた。
見られたくなかった気持ちは、そこに残されたままだった。
少年がいつか、自分で受け取りに来る日まで。
ヨルメナは背を向け、ネオンの消えた路地へ歩いていく。
少年は追わなかった。
父親の灯した小さな看板と、自分の足元に伸びる影を、いつまでも見つめていた。
夜をのぞく目は、ひとつだけ。
誰にも見せられない気持ちを預かり、迷った者へ帰り道を示す。
その無口な秘密の番人の名は――ヨルメナ。
第四夜「ヨルメナ」をお読みいただき、ありがとうございました。
人から与えられた光を失ったとき、初めて見えてくるものもあるのかもしれません。
少年はまだ、自分がどんな人間になりたいのか分かっていません。それでも、自分を飾っていたものが仮初めの光だったと気づいたことは、小さな一歩になったはずです。
次の夜も、また別の妖怪と人間の物語をお届けします。
続きを見届けていただけたら嬉しいです。




