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第五夜 ヨイメナ――誰かが選んだ帰り道

妖怪ネオン町、第五夜。


今夜登場するのは、迷い光を鏡へ映す怪異「ヨイメナ」。


誰かに流され、自分の進む道を見失った少年がたどり着く先とは――。


どうぞ最後までお楽しみください。

 ここは妖怪ネオン町。


 昼のあいだは、どこにでもある古びた商店街と、その裏手に伸びる飲み屋街にすぎない。

 けれど日が沈み、軒先の看板がひとつ、またひとつと灯り始めるころ、人間の目には映らない道が夜の隙間に口を開く。


 その町では、ときどき人が光を落とす。

 夢を諦めたとき。誰かの言葉に自分の答えを預けたとき。帰りたい場所さえ分からなくなったとき。

 落とした本人にも見えない、あまりに小さな迷い光を拾うものがいる。


 だが、その夜。

 少年は、自分が何かを落としたことにすら気づいていなかった。


     ◆


「遅えよ、ユウ。何分待たせんだよ」


 雑居ビルの裏口で、金髪の先輩が不機嫌そうに煙を吐いた。


「すんません」


 ユウは両手に提げたコンビニ袋を持ち直した。缶コーヒー、炭酸飲料、煙草、菓子、頼まれていない弁当まで入っている。金を出したのもユウだった。


「俺、炭酸じゃなくて茶って言わなかった?」

「あ……じゃあ、買い直してきます」

「もういいよ。使えねえな」


 周りから笑いが起きる。ユウも少し遅れて笑った。

 笑っておけば、その場からはじき出されずに済む。


「で、今日どうする? ゲーセン行くか、店行くか」

「どっちでもいいっす」

「お前、いつもそれな」


 先輩は呆れた顔をしたが、本気で答えを求めてはいない。ユウが何を望むかなど、誰も気にしていなかった。

 そしてユウ自身も、もう気にしていなかった。


 ――どっちでもいい。


 それは昔から、彼が最も上手に言える言葉だった。


 小学生のころ、放課後に何をして遊ぶか聞かれれば、みんなのやりたいことでいいと答えた。ドッジボールが嫌でも、カードゲームのルールを知らなくても、自分だけ違うものを選ぶよりはましだった。


 学級委員を決めるとき、誰かがユウを指さして、こいつでよくない、と言った。断れば空気を悪くする気がして頷いた。委員になればなったで、先生の前では友人の意見を、友人の前では先生の意見を繰り返した。


 中学校の部活動も同じだった。

 本当は美術室の前で足を止めたことがある。窓の向こうで、先輩が大きな画用紙に夕焼けを描いていた。橙色と紫色の境目がきれいで、しばらく見ていた。


 けれど友人に、男で美術部はないだろ、と肩を叩かれた。


「だよな」


 それだけで、ユウはサッカー部の入部届に名前を書いた。

 ボールを追うのが好きだったわけではない。練習が嫌いだったわけでもない。ただ、自分で決めたという感覚だけがなかった。


 進学先も、髪型も、履く靴も、昼休みに一緒にいる相手も、いつも誰かが先に決めた。

 自分の希望を口にして笑われるくらいなら、最初から希望など持たない方が安全だった。


 高校へ入って間もないころ、駅前で年上の連中に声をかけられた。

 制服の着崩し方を褒められ、煙草を一本差し出され、「お前、こっち側だろ」と言われた。


 本当は怖かった。

 けれど翌日、学校で「あいつ、あの先輩たちと知り合いらしい」と囁かれた。廊下を歩けば視線が集まった。今まで誰の後ろにいても気づかれなかった自分が、初めて輪郭を持った気がした。


 だから、誘われるままについていった。


 自分で選んだつもりだった。

 けれどそれもまた、誰かに選んでもらった道だった。


     ◆


 グループでのユウの役目は、いつも決まっていた。

 飲み物を買う。荷物を持つ。呼ばれれば夜中でも出ていく。先輩の機嫌が悪ければ殴られない距離で黙り、機嫌が良ければ誰より大きく笑う。


 それでも学校では、不良たちと付き合いがあるというだけで一目置かれた。

 教師は腫れ物を見る目をし、同級生は無用な喧嘩を避けた。ユウはそれを強さだと思った。


 彼女だけは、ときどき違うことを言った。


「あんた、あの人らといるとき、全然笑ってないよ」


 夜の公園で、彼女はブランコに座りながら言った。制服はほとんど着なくなり、薄いパーカーの袖から細い指だけを出していた。


「笑ってるだろ」

「口だけ。目は、帰りたそう」

「どこにだよ」

「知らない。あたしに聞かないで」


 彼女はそう言って笑った。鞄の中で薬のシートが小さく鳴ったが、ユウは聞こえないふりをした。

 彼女も学校へ行かない理由を説明しなかったし、ユウも先輩から受けた扱いを話さなかった。二人は互いの傷に名前をつけないことで、そばにいることができた。


「ユウは、何したいの」

「別に。何でもいい」

「それ、嫌い」


 彼女は、ひどく寂しそうな目をした。

 ユウには、その理由が分からなかった。


 少し前まで、グループには中学生の少年が出入りしていた。

 高価な靴を履き、財布にはいつも何枚もの札が入っていた。父親が社長であることを鼻にかけ、ユウを下っ端と呼んで笑った。


 先輩たちは彼を可愛がっているように見せながら、食事代も遊び代も払わせていた。ユウには最初から分かっていた。自分が足として使われるのと同じで、あの少年は財布として使われている。


「あんた、金があるから呼ばれてるだけだぞ」


 一度だけ忠告した。


 少年は鼻で笑った。


「お前みたいなパシリと一緒にすんなよ」


 腹が立った。けれど同時に、胸の奥が冷えた。

 少年の言葉が、半分は正しかったからだ。


 やがて少年の父親の会社が潰れたという噂が広がった。少年が金を出せなくなると、先輩たちの態度は露骨に変わった。


「もうお前、来なくていいよ」

「前に出した分、返してもらってない」

「何言ってんの。勝手についてきたんだろ」


 夜の路地で、少年はひとり取り残された。

 ユウは一歩だけ前へ出た。何か言わなければと思った。自分もいつか同じ場所に立つ。そんな予感が、喉元までせり上がっていた。


 そのとき、リーダーが振り返った。


「ユウ。行くぞ」


 たったそれだけだった。


 ユウの足は、少年ではなく先輩の方へ動いた。

 角を曲がる直前に振り返ると、少年は暗がりの中で拳を握っていた。その足元には、奇妙な影が立っていたように見えた。猫の耳にも似たフードと、かすかな灯り。


 酔っていたのだと思うことにした。


 その夜から、ときどき少年の背中を思い出した。

 助けなかったのではない。助けられなかったのだ。

 先輩に逆らえなかったのだから、仕方がない。


 何度もそう言い聞かせた。


 けれど、言い訳を重ねるたび、胸のどこかから小さな光がこぼれていった。


     ◆


「軽い仕事がある」


 リーダーがそう言ったのは、中学生を追い出してから一週間ほど後だった。


 閉店したスナックの前だった。赤い看板は半分だけ切れかけ、濡れた路面に歪んだ文字を映していた。


「人のいないところに入って、ちょっと持ってくるだけ。誰も傷つかねえよ」


 先輩たちは笑っていた。

 その笑い方を見れば、ユウも笑うべきだった。


「お前、見張りな。なんかあったら連絡」


 軽い仕事。

 誰も傷つかない。

 みんなもやる。


 言葉を並べれば、善悪の境目はぼやけていった。自分で考えるより、先輩の言葉を信じる方が楽だった。


 けれど、その夜はいつものように笑えなかった。


「嫌ならいいけど」


 リーダーの声が低くなった。


「使えねえやつ、置いとく意味ないし」


 胸が縮んだ。

 グループから捨てられた中学生の姿が浮かんだ。金を失った瞬間、何者でもなくなった少年。自分も断れば、同じになる。


「やります」


 答えは、驚くほど簡単に口から出た。


 その晩、彼女から何度も電話が来た。


『今日、会える?』


「無理。先輩といる」


『また?』


「仕事みたいなもん」


『何の仕事』


「お前には関係ない」


 沈黙のあと、彼女は小さく息を吸った。


『行かないで』


 普段なら、彼女はそんな頼み方をしなかった。

 ユウは返事に詰まった。行かないと言えば、先輩たちから外される。行くと言えば、彼女の声に混じった恐怖を無視することになる。


「もう決まったから」


 自分で決めたわけではないのに、そう答えた。


『誰が決めたの』


 電話が切れたあとも、その問いだけが耳に残った。


     ◆


 事件の夜は、雨だった。


 先輩たちは車の中で、遠足へでも行くように笑っていた。ユウも二度ほど笑った。何がおかしいのかは分からなかった。


 目的の建物が近づくにつれ、胃の奥が硬くなった。

 やめようと言う機会は何度もあった。信号で車が止まったとき。先輩が煙草を買いに降りたとき。現場近くの路地で役割を告げられたとき。


 そのたびに、次で言おうと思った。

 次の角で。次の合図で。まだ何もしていないうちに。


 だが、次は来るたびに過去になった。


具体的に何が起きたのか、後になってもユウの記憶は途切れ途切れだった。

濡れた塀。暗い窓。先輩の短い指示。自分の荒い呼吸。


建物の奥には、誰かの暮らしがあった。

玄関脇に置かれた小さな傘。窓辺に並んだ植木鉢。雨戸の隙間から見えた、家族写真らしい四角い影。

先輩たちは「人はいない」と言った。だから傷つく人もいないのだと、ユウも思おうとした。


けれど、そこに誰もいないことと、そこが誰のものでもないことは違う。

その当たり前の区別を、ユウは自分の都合で見ないふりをした。


塀の外で待つあいだ、ポケットの中の携帯電話が一度だけ震えた。画面には彼女の名前が出ていた。

出れば、まだ戻れたかもしれない。

助けてくれと言えたかもしれない。


ユウは画面を伏せた。

誰かに止めてもらうことさえ、また誰かへ決断を預けることだとは、そのときの彼には分からなかった。


 そして、不意に灯った明かり。


「逃げろ!」


 声が飛んだ。


 先輩たちは一斉に走った。誰もユウを見なかった。いつも荷物を持たせる手も、肩を組んできた腕も、その夜は一度も彼へ伸びなかった。


 足が動かなかった。

 怖かったからではない。どちらへ逃げればいいのか、誰の後を追えばいいのか分からなかった。


 赤と青の光が雨粒を染めた。

 制服姿の警察官に腕を押さえられたとき、ユウは最初にこう言った。


「俺じゃないです。先輩に言われただけです」


 その言葉は、雨の中へ転がった。

 どっちでもいい。

 何でもいい。

 言われたからやった。


 いつも自分を守ってくれた言葉が、その夜だけはひどく空っぽに聞こえた。


     ◆


 取り調べでも、ユウは同じ説明を繰り返した。


 誘ったのは先輩だ。計画したのも先輩だ。自分は断れなかった。自分だけが悪いわけではない。


 嘘ではなかった。

 だが、全部でもなかった。


「君は、嫌だと言ったのか」


 向かいの大人にそう聞かれた。


 ユウは答えられなかった。


 少年鑑別所へ移されると、毎日は決められた時刻で区切られた。起きる時間。食べる時間。運動する時間。眠る時間。


 皮肉なことに、誰かが全部決めてくれる生活は、ユウにとって苦痛ではなかった。


 指示どおりに動けば叱られない。

 余計なことを考えなくていい。


 けれど、夜だけは違った。


 灯りが消えると、雨の路地が戻ってきた。置き去りにされた瞬間。中学生を置いて歩き去った自分。電話の向こうで「誰が決めたの」と尋ねた彼女。


 枕元の暗闇に、同じ問いが浮かんだ。


 自分は、一度でも自分で何かを選んだことがあっただろうか。


     ◆


 最初の面会に来たのは両親だった。


 母はガラスの向こうで何度も唇を結び直した。目の下に濃い影があった。


「ちゃんと食べてる?」


 出てきたのは、それだけだった。


 父は怒鳴らなかった。拳を膝に置いたまま、長いあいだ俯いていた。


「お父さんたちの育て方が悪かったのかもしれない」


 父の言葉を聞いた瞬間、ユウは腹が立った。


「俺だって、やりたくてやったんじゃない」


 母が顔を伏せた。

 父は何も言い返さなかった。


 面会が終わってから、ユウは自分の言葉を何度も思い返した。

 やりたくなかった。

 なら、誰が自分の足を現場まで運んだのだろう。


 次に来たのは、中学時代の同級生だった。

 頻繁に遊ぶ仲ではなかった。美術部の前で夕焼けを見ていたユウに、「絵、好きなの」と声をかけたことがある少年だった。


「先生から聞いた」

「笑いに来たのか」

「いや」


 彼は迷ったあと、小さな封筒を係員へ預けた。


「昔、お前がノートに描いた絵、まだ持ってたから。渡せるか分かんないけど」


 ユウは覚えていなかった。

 自分が絵を描いたことも、それを誰かが取っておいたことも。


 不良グループの先輩たちは、誰ひとり来なかった。

 連絡もなかった。


 自分が軽く扱ってきた人間だけが、重い足取りで会いに来た。

 自分が価値を認めてほしかった人間は、最初からユウを数に入れていなかった。


 その事実は、怒りより静かに、彼の中を壊した。


     ◆


 彼女が来たのは、何度目かの面会の日だった。


 ガラスの向こうの彼女は、いつもより顔色が悪かった。髪は整っておらず、指先は落ち着きなく袖口をつまんでいた。それでも目だけは、ユウから逸らさなかった。


「来なくていいって言っただろ」

「言われたから来ない、とか嫌だから」


 彼女は少し笑った。


「あたしが来たかったから来た」


 ユウは黙った。


「先輩たちは?」

「知らない」

「連絡、あった?」

「ない」

「そっか」


 彼女は勝ち誇らなかった。ほら見ろとも言わなかった。ただ、悲しそうに頷いた。


「あたし、あんたが何したか、全部分かってるわけじゃない。待ってるって言ったら、きれいごとかもしれない。あたし自身、ちゃんとしてないし」


 袖口からのぞく手が、わずかに震えていた。


「でも、やったことをなかったことにしてほしいとは思わない」


 ユウは顔を上げた。


「ちゃんと戻ってきて。誰かの後ろじゃなくて、自分で歩いて」


 その瞬間、面会室の蛍光灯が一度だけ明滅した。


 ガラスに、彼女とは別の影が映った。


 白い、小さな人影。

 猫の耳のように尖ったフード。その奥に浮かぶ二つの紫色の目。手には、古びているのに真珠のような光沢を持つランタンが提げられていた。


 ランタンの中央は鏡になっていた。


 ユウは振り返った。

 背後には誰もいない。


 もう一度ガラスを見ると、白い怪異はそこに立っていた。

 彼女には見えていないらしい。


 鏡ランタンの中で、小さな光が揺れた。


 映ったのは、知らない景色ではなかった。


 美術室の前で見た夕焼け。

 誰にも言えずに描いた、紫と橙色の空。

 中学生へ「金があるから呼ばれてるだけだ」と忠告した自分。

 見捨てられた少年へ、一歩だけ踏み出した足。

 夜の公園で、彼女の冷えた手を黙って握った記憶。

 母の誕生日に、少ない小遣いで菓子を買った日のこと。


 どれも立派なものではなかった。

 誰かに褒められるほど強い意思でもない。


 それでも確かに、自分がそうしたいと思って動いた瞬間だった。


「……俺にも、あったんだな」


「何が?」と彼女が聞いた。


 ユウは答えず、ガラスへ手を触れた。

 向こう側から彼女も同じ場所へ手を重ねた。


 鏡ランタンの光が、二人の手のあいだで細く伸びた。


 白い怪異は何も言わなかった。

 正しい道を選べとも、彼女を救えとも、家族に謝れとも言わなかった。


 ただ、ユウが落としてきた光を映し返した。


 帰り道とは、誰かが運んでくれる道ではない。

 どちらへ行くか、自分で決めたときに初めて生まれるものなのだと告げるように。


 面会終了を知らせる声が響いた。


「また来る」と彼女は言った。


 以前のユウなら、どっちでもいい、と答えただろう。


「来てほしい」


 それはひどく小さく、情けないほど震えた声だった。

 だが、ユウが自分で選んだ言葉だった。


 彼女は泣きそうな顔で笑った。


     ◆


 家庭裁判所の審判の日、ユウは何度も手を握り直した。


 聞かれたことへ、格好よく答えることはできなかった。

 先輩たちが怖かったこと。仲間だと思われたかったこと。悪いと分かっていながら、考えることをやめたこと。現場まで行ったのは、自分の足だったこと。


「先輩に言われました」


 そこまで口にして、ユウは続けた。


「でも、行くって答えたのは俺です」


 それで罪が軽くなるわけではない。

 被害を受けた人の恐怖が消えるわけでも、両親の夜が戻るわけでもない。


 少年院送致という処分が告げられたとき、母は泣いた。

 ユウも怖かった。


 けれど、仕方ないとも、どっちでもいいとも言わなかった。


「分かりました」


 その言葉の重さを、初めて自分で引き受けた。


     ◆


少年院での日々は、簡単に人を変えてはくれなかった。


 朝は決められた時刻に始まり、学習や運動、作業が続いた。自分の行為を振り返る時間には、何度も鉛筆が止まった。


 なぜ事件へ加わったのか。

 被害を受けた人は何を感じたか。

 同じ場面に戻ったら、どうするか。


 最初のころ、ユウは模範解答を探した。

 先生が望みそうな言葉。両親が安心しそうな言葉。彼女が喜びそうな言葉。


だが、それでは以前と同じだった。


被害者について考える課題では、もっと苦しんだ。

自分が奪おうとした物の値段ばかりを考えていたが、壊したのは金額だけではないと教えられた。自宅という安全な場所を踏みにじられた人は、物が戻っても、夜の小さな音に怯えるかもしれない。


ユウは初めて、顔も知らない相手の夜を想像した。

謝罪の言葉を書いては消した。許してほしい、という一文は自分を楽にするための願いに思えて、最後まで書けなかった。

代わりに、自分がしたことを一つずつ書いた。先輩のせいにせず、怖かったという言葉で薄めず、自分が選んだ行動として。


紙を埋めても、償いが終わるわけではない。

それでも、目を逸らさないことだけは、ここから選べると思った。


 ある日、担当の先生が白い紙を机へ置いた。


「正しい答えじゃなくていい。君の答えを書きなさい」


 ユウは長い時間、何も書けなかった。


 やがて、紙の隅に小さく線を引いた。

 次に紫色の空を描いた。橙色を重ね、暗い建物の間に細い道を残した。


 何年ぶりかに描いた夕焼けは、上手くなかった。

 それでも、誰にも選ばれずに置いた色だった。


 職業指導では、看板や内装に関わる作業へ興味を持った。将来それを仕事にできるかは分からない。彼女との関係が続くかも、家族が以前のように接してくれるかも分からない。


 許される日が来るのかさえ、ユウには決められない。


 ただ、決められることが一つだけあった。


 次に誰かから「こっちへ来い」と言われたとき、まず自分の足元を見る。

 怖くても、考える。

 分からないなら分からないと言う。

 嫌なら、嫌だと言う。


 その程度のことを、ユウは今まで一度もしてこなかった。


     ◆


 消灯前、細い窓へ夕闇が映る。


 紫と橙色の境目に、白い影が立っていた。


 猫耳のようなフード。二つの紫の目。手の中の鏡ランタンには、あの日より少しだけ強くなった光が揺れている。


 ヨイメナは、窓の向こうから静かにランタンを傾けた。


 光は細い道になって、遠い町の方角へ伸びた。


 そこが本当の帰り道かどうか、まだ誰にも分からない。

 出院したあと、ユウがまた迷わない保証もない。弱さが消えたわけでも、過去が清算されたわけでもない。


 けれどユウは、光の先を見つめた。


「俺が決めるよ」


 誰に聞かせるでもなく、そう言った。


 ヨイメナの二つの目が、わずかに細められた。


 鏡ランタンから小さな光が離れ、夜気を渡り、ユウの胸元へ戻っていく。


 迷い光を、鏡へかえす。


 そして鏡から、その人自身へ。


 妖怪ネオン町の夜番は、道を選ばない。

 ただ、選ぶための光だけを返す。


 少年がいつか、自分の足で最初の一歩を踏み出せるように。


 宵の終わり、ヨイメナは音もなく闇へ溶けた。


 窓に残った夕焼けだけが、誰かに決められたものではない明日を、静かに照らしていた。

第五夜「ヨイメナ」をお読みいただき、ありがとうございました。


誰かの言葉に流され続けていると、自分が本当に進みたかった方向さえ分からなくなることがあります。


過去は消えず、犯したことへの責任もなくなりません。それでも、自分の弱さと向き合い、もう一度自分の意思で道を選ぶことはできるのかもしれません。


ヨイメナが映し返した小さな光が、少年の新しい一歩につながることを願っています。


次の夜も、また別の妖怪と人間の物語をお届けします。

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