第三夜 ミツネラ――消えた看板の、最後のひかり
妖怪ネオン町、第三夜。
今夜は、三つの目を持つネオンサインの怪異「ミツネラ」が登場します。
雨に濡れた夜の街で、消えたはずの看板が再び光るとき――どうぞ最後までお楽しみください。
ここは妖怪ネオン町。
どこにでもある、夜の街。
雨が降る夜、この街のネオンは、いつもより鮮やかに見える。
濡れた路面に赤や青の光が映り込み、古びた店も、ひび割れた看板も、ひとときだけ昔の輝きを取り戻す。
男は黒い高級車を降りると、スーツの袖から腕時計をのぞかせた。
今夜のために選んだ一本だった。
車は会社名義のリース。時計は分割払い。仕立てのよいスーツも、まだ代金を払い終えていない。
だが、そんなことを知る者はいない。
通り過ぎる客引きが頭を下げた。
「社長、今夜も景気よさそうですね」
男は口元だけで笑う。
「まあな。忙しくて困るよ」
男は、本物の社長だった。
父親から受け継いだ看板製作会社を経営している。
従業員を抱え、事務所を構え、銀行とも取引がある。
売上だけを見れば、父親の代より増えていた。
周囲の人間は、二代目が古い会社を成長させたのだと思っている。
男自身も、つい最近まではそう信じていた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
銀行からだった。
男は画面を見て、着信を切る。
続けて、経理担当者からメッセージが届いた。
『明日の支払いについて、至急ご連絡ください』
その下には、数字が並んでいる。
仕入れ代金。
従業員の給与。
借入金の返済。
口座に残っている金では、どれ一つ満足に払えない。
男は画面を伏せた。
今から店へ入れば、皆が自分を社長と呼ぶ。
高い酒を注文すれば、女たちが集まってくる。
そこではまだ、自分は成功者でいられた。
キャバクラへ向かう途中、男は細い路地を横切った。
雨に濡れた建物の壁へ、壊れた縦長のネオンサインが立てかけられている。
赤、青、黄。
三つの小さな光が、一瞬だけ点滅した。
男は足を止めなかった。
古い看板など、見る価値もない。
だが、看板の方は男を見ていた。
赤い目は、通り過ぎた人を見る。
青い目は、忘れられた店を見る。
黄色い目は、まだ消えていない灯りを見る。
赤い目の奥に、幼い男の姿が浮かんだ。
小さな手を、作業着姿の父親に引かれている。
青い目の奥には、かつてこの路地で営業していた店が映った。
その入口で、父親が完成した看板を見上げている。
黄色い目だけは、現在の男をじっと見つめていた。
高級なスーツの奥。
借金と虚勢に覆われた胸の奥。
そこには、針の先ほどの灯りが、まだ残っていた。
垂れ下がったケーブルの脚が動く。
黒い煙のような影を引きずりながら、ミツネラは男の後を追い始めた。
店へ入ると、男はすぐにいつもの顔へ戻った。
「待ってた」
女が笑顔で隣へ座る。
彼女の耳には、男が贈った大きな石のピアスが光っていた。
「遅くなって悪い。商談が長引いてさ」
「また大きな仕事?」
「海外の投資家がうるさくてな」
嘘ではない。
海外の投資商品へ金を入れたことはある。
ただし、投資家と商談したことなど一度もなかった。
男が高いボトルを注文すると、女たちが集まった。
「さすが社長」
「景気いいね」
「今度、店を出すんでしょ?」
男は笑いながら答えた。
「この程度は遊びだよ。来月には、もっと大きい金が動く」
大きい金が動く予定だけは、本当にあった。
会社から出ていく金だった。
スマートフォンが何度も震えた。
銀行。経理。仕入れ先。
男はすべて無視した。
女が画面へ目を向ける。
「出なくていいの?」
「くだらない営業だよ」
グラスを持つ指が震えていた。
窓の外では、ミツネラの三つの目が明滅している。
男の背後には、黒い煙が集まっていた。
父親の代から付き合いのあった取引先。
支払いを待っている仕入れ業者。
給料日に家族との約束を抱えた従業員。
男が見ようとしなかった人々の影が、無数の手となって背中へ伸びていた。
店へ出勤していた女に、一本の電話が入った。
彼女の顔色が変わる。
母親が倒れたのだという。
「今すぐ行かないと」
女が店長へ頭を下げている。
男は面白くなかった。
自分が来ている夜に帰るなど、客を軽く見ている。
「母親なら、明日でいいだろ」
男は酒を飲みながら言った。
「今夜は俺が来てるんだぞ」
女は男を見た。
それまで憧れを向けていた目から、何かが消えた。
彼女は何も言わず、店を出ていった。
男は舌打ちをした。
「教育がなってないな」
別の女が曖昧に笑う。
男は新しい酒を注文した。
誰かに、自分がまだ価値のある客だと証明してほしかった。
深夜三時。
男は店を出た。
会計額を見なかった。
見るのが怖かった。
外では雨が強くなっている。
運転代行を待ちながらスマートフォンを確認すると、留守番電話が一件入っていた。
銀行の担当者だった。
追加融資は見送る。
明日の返済が確認できない場合は、今後の取引について協議が必要になる。
短い言葉だった。
男はもう一度再生した。
内容は変わらなかった。
続いて、父親の代から付き合いのあった元請けからメッセージが届いていることに気づいた。
『今月をもって発注を停止します』
男はすぐに電話をかけた。
「どういうことですか。うちは御社の仕事をずっと受けてきたでしょう」
『それは先代との信頼があったからです』
電話の向こうの声は冷静だった。
『納期の遅れ、品質のばらつき、担当者への態度。何度も改善をお願いしました』
「売上は伸びています。新しい設備も入れた。親父の頃より、うちは大きくなってるんですよ」
『売上の話をしているんじゃない』
その一言で、男は黙った。
『あなたは、先代が何十年かけて作った信用を、自分一人の実力だと思っている』
電話は切れた。
雨音だけが残った。
「分かったようなことを……」
男はスマートフォンを握りしめた。
親父のやり方は古かった。
頭を下げ、安い仕事でも断らず、困った取引先には支払いを待った。
そんな商売では大きくなれない。
だから自分は変えた。
高価な設備を入れた。
広告へ金をかけた。
投資家の集まりへ顔を出した。
利益率の低い昔からの客を切った。
もっと大きな案件を取るため、自分も会社も大きく見せた。
売上は上がった。
それなのに、なぜ金がない。
なぜ誰も、自分を助けようとしない。
雨の向こうで、赤、青、黄の光が点滅した。
路地の奥に、先ほどの壊れたネオンサインが立っている。
男はその形を見つめた。
どこかで見たことがある。
「……まさか」
幼い頃、父親の作業場に置かれていた看板だった。
男は父親が文字を組み、配線をつなぎ、何度も点灯を確認する姿を覚えていた。
納品の日には、この路地までついてきた。
店の主人が看板へ明かりが入ったのを見て、父親の手を握った。
『これで、また客が来てくれる』
父親は代金の封筒より、その言葉をうれしそうに受け取っていた。
男は、そんな父親が嫌いだった。
小さな仕事で満足する姿が、負け犬に見えた。
「こんなもの、まだ残ってたのか」
ミツネラの赤い目が光った。
雨の中に、幼い男と父親の姿が映し出される。
父親は重い看板を背負い、息を切らしている。
幼い男が聞いた。
『父ちゃん、なんでそんなに頑張るの?』
『この看板が消えたら、店があることを誰にも気づいてもらえないだろ』
父親は笑った。
『誰かの店の灯りを守るのが、父ちゃんの仕事だ』
青い目が光る。
今は閉店した店の、かつての夜が現れた。
看板の下を通り過ぎた人々。
店へ入る常連客。
主人と父親が酒を酌み交わす姿。
年末、仕事が少なかった父親へ、元請けの担当者が急ぎの案件を回してくれた夜。
機械が壊れたとき、仕入れ先が支払いを待ってくれた日。
店は、父親一人が守っていたのではなかった。
父親もまた、多くの人に守られていた。
男は、そのすべてを古いものとして切り捨てた。
黄色い目が光った。
そこには現在の男が映っていた。
高級なスーツも、腕時計もない。
作業着を着て、看板の配線を手にしている。
父親の隣で覚えた結線の仕方。
文字の間隔。
雨に耐えるための処理。
忘れたつもりだった知識が、指の中に残っている。
「俺は……親父より、でかくなるはずだった」
男の声が震えた。
「こんな小さな店で終わりたくなかった」
ミツネラは何も言わない。
三つの目で、ただ男を見ている。
「売上だって上げた。新しいこともやった。俺は間違ってない」
赤い目には、去っていった人々が映る。
青い目には、失われた店と信用が映る。
黄色い目には、それでも消えきらない一つの灯りが映る。
男は膝をついた。
濡れた路面に、高級なスーツの膝が触れた。
「……もう、無理だ」
初めて口にした。
誰にも言えなかった言葉だった。
「金がない。明日の給料も払えない。誰も、もう貸してくれない」
雨と一緒に、涙が頬を伝った。
「親父の店を、俺が潰すんだ」
ミツネラの黄色い目が、静かに点滅した。
光は路地の先へ続いていた。
そこには、古い看板屋の小さな作業場がある。
シャッターには、職人募集の紙が貼られていた。
男は光を見つめた。
社長ではなくなる。
車も、時計も、家も失うかもしれない。
家族に真実を話さなければならない。
従業員にも、取引先にも、頭を下げなければならない。
それでも、進む先が完全になくなったわけではなかった。
翌朝。
男は妻と息子を食卓へ座らせた。
中学生の息子は、不機嫌そうにスマートフォンを触っている。
「大事な話がある」
男は会社の状況を、初めて家族へ話した。
借金があること。
資金が回らないこと。
会社を閉じる手続きを始めること。
車も、時計も、今の家も手放す可能性があること。
妻は黙って聞いていた。
息子は顔を上げた。
「父さん、社長じゃなくなるの?」
「そうだ」
「じゃあ、俺、どうなるんだよ」
「すまない」
「学校で何て言えばいいんだよ。みんな、父さんのこと成功してるって――」
息子は椅子を蹴るように立ち上がり、部屋へ閉じこもった。
扉の向こうから、何かを投げる音がした。
男は追いかけられなかった。
息子をああしたのは、自分だった。
高いものを持つ人間が偉い。
頭を下げる人間は弱い。
成功しているように見せることが、信用なのだ。
言葉にしなくても、背中で教えてきた。
会社を閉じるまでの数週間、男は初めて逃げずに頭を下げた。
従業員へ事情を説明した。
払える限りの給与を払い、足りない分の手続きを専門家へ相談した。
仕入れ先へ謝罪した。
父親の代からの元請けにも出向いた。
許してもらえない相手もいた。
怒鳴られた。
電話を切られた。
それでも、言い訳だけはしなかった。
高級車を返し、時計を売った。
キャバクラからの連絡先を消した。
父親から受け継いだ会社の看板を、自分の手で下ろした。
最後の日。
看板の消えた事務所は、驚くほど小さく見えた。
男は空になった作業場で、父親の古い工具箱を見つけた。
錆びたペンチと、使い込まれたドライバー。
蓋の裏に、父親の字で短い言葉が書かれていた。
『灯りがつくまで、仕事は終わらない』
男は工具箱を抱え、長いあいだ動けなかった。
翌週。
男は、雨の夜に光が示した小さな看板屋を訪ねた。
高級なスーツではなく、量販店で買った作業着を着ていた。
店主は、男より少し年上の職人だった。
男の父親を知っていた。
「社長として雇ってほしいわけじゃありません」
男は頭を下げた。
「一から、働かせてください」
店主はすぐには答えなかった。
「あんたの会社から、仕事を横取りされたことがある」
「はい」
「安い金額を出して、うちの悪口まで言ったそうだな」
「はい。本当に、申し訳ありませんでした」
「信用は、頭を一度下げたくらいじゃ戻らないぞ」
男はさらに深く頭を下げた。
「分かっています。だから、働いて返します」
長い沈黙のあと、店主は作業場の隅を指した。
「まず掃除だ。仕事の話は、それからにする」
「はい」
男は箒を手に取った。
それが、一人の従業員として最初に与えられた仕事だった。
三か月後。
男は、小さな飲食店の看板を取り付けていた。
脚立の下から、先輩職人が声を飛ばす。
「右が下がってるぞ」
「すみません。直します」
かつてなら、そんな言い方をするなと腹を立てていた。
今は素直に金具を緩め、位置を調整する。
作業着は汗と塗料で汚れていた。
腕に高級時計はない。
昼食は、店主たちと同じ弁当だった。
給料は、社長時代に一晩で使った酒代より少ない。
それでも、看板へ電気が通った瞬間、男は息を止めた。
店名の文字が、夕暮れの中に浮かび上がる。
店の主人が外へ出てきた。
「いいね。これなら遠くからでも分かる」
その笑顔を見たとき、男は父親の言葉を思い出した。
誰かの店の灯りを守る。
父親は小さく終わったのではない。
自分の手が届く灯りを、一つずつ守っていたのだ。
男は完成した看板へ、深く頭を下げた。
少し離れたビルの屋上に、割れたネオンサインが立っていた。
赤い目には、かつて父親とこの街を歩いた幼い男が映っている。
青い目には、今はもうない店と、そこを照らした看板が映っている。
黄色い目には、作業着姿で新しい灯りを見上げる男が映っていた。
三つの光が、静かに重なる。
その中に、作業着姿の父親の面影が浮かんだ。
父親は、懸命に働く息子を遠くから見つめている。
そして、ほんの少しだけ、にこりと笑った。
男は何かを感じて振り返った。
屋上には、雨に濡れた古い看板が光っているだけだった。
「どうした?」
先輩職人が聞く。
「いえ……懐かしい光が見えた気がして」
ミツネラの小さな赤い電球が、夜風の中で揺れた。
男はもう一度、新しく取り付けた看板を見上げた。
社長ではない。
成功者でもない。
それでも今日、自分の手で一つの灯りをつけた。
それで十分だと思えた。
雨の夜、忘れられた店と、通り過ぎた人と、まだ消えていない灯りを見つめる。
消えた看板の、最後のひかり。
その三つ目の怪異の名は――ミツネラ。
第三夜「ミツネラ」をお読みいただき、ありがとうございました。
大きく見せることと、本当に強くなることは、きっと同じではありません。
積み上げたものを失っても、頭を下げて一から学び直すことで、もう一度灯せる光もあります。
次の夜には、また別の妖怪と人間の物語が始まります。
妖怪ネオン町の続きを、見届けていただけましたら幸いです。




