第二夜 ツヅラビ――借り物の光が消える前に
妖怪ネオン町、第二夜。
今夜は、古びた提灯の怪異「ツヅラビ」が登場します。
ネオンが消える頃、街の片隅で何が起きるのか――どうぞ最後までお楽しみください。
ここは妖怪ネオン町。
どこにでもある、夜の街。
陽が落ちれば、古びたビルも、汚れた路地も、色とりどりのネオンに覆い隠される。
赤。青。紫。桃色。
本当は傷だらけのものまで、ここでは美しく輝いて見えた。
女が目を覚ましたのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
遮光カーテンの隙間から差し込む細い光が、散らかった部屋を照らしている。
脱ぎ捨てたワンピース。空になった化粧品の箱。飲みかけのペットボトル。テーブルの端には、開封していない公共料金の封筒が重なっていた。
枕元で、スマートフォンが震えた。
女は画面も見ずに手を伸ばし、通知を止める。
頭が重い。
喉が乾いている。
昨夜、何時に帰ったのか、よく覚えていなかった。
「……だる」
誰に聞かせるでもなく呟き、また目を閉じる。
眠ろうとしても、今度は別の通知音が鳴った。
店のグループ連絡だった。
『本日二十時出勤。遅刻厳禁』
その下には、昨夜の売上順位が並んでいる。
女は四番目だった。
悪くはない。
けれど、安心できる順位でもない。
上位の女たちは、朝方まで客へ連絡を送り、昼には美容院やエステへ行き、夜には何事もなかったように笑っている。
少しでも手を抜けば、客は別の女へ移る。
若くて、きれいで、話がうまい女など、この街にはいくらでもいた。
女はベッドの上で身体を起こした。
床に置かれた紙袋が目に入る。
昨日買ったブランドバッグだった。
店で人気の女が色違いを持っていて、負けたくないと思った。分割払いにすれば大丈夫だと、自分に言い聞かせた。
その隣には、支払期限を過ぎた電気料金の封筒がある。
女は封筒を裏返した。
見えなければ、まだ払わなくてもいいような気がした。
冷蔵庫には、ミネラルウォーターと栄養補助食品しか入っていなかった。
女は水を飲み、鏡の前に立つ。
化粧を落とした顔は、店で見せる顔より幼く、ひどく疲れていた。
目元。鼻筋。顎の輪郭。
少しずつ金をかけ、少しずつ変えてきた顔だった。
最初の整形をしたとき、客はすぐに気づいた。
「前よりきれいになった」
その言葉がうれしかった。
きれいになれば、もっと指名が増える。
指名が増えれば、もっと稼げる。
もっと稼げば、いつかこの生活から抜け出せる。
そう考えていたはずだった。
けれど、稼ぎが増えるほど、化粧品も服もバッグも高くなった。美容院へ行く回数が増え、次に直したい場所も増えた。
金は入ってきた分だけ、形を変えて出ていった。
大学へ通っていた頃、女は昼間も起きていた。
講義へ出て、空いた時間に課題を進め、夕方から店へ向かった。
学費のためだった。
母親にこれ以上負担をかけたくなかった。
そのはずだった。
夜遅くまで働き、朝の講義に遅れるようになった。
眠気に負けて欠席し、提出期限を忘れた。
店では、学校を理由に早く帰ろうとすると嫌な顔をされた。大学では、仕事を言い訳にするなと言われた。
どちらにも居場所がない気がした。
結局、女は大学を辞めた。
退学届を出した日は、肩の荷が下りたような気がした。
もう無理に朝起きなくていい。
課題も試験もない。
夜の仕事だけなら、もっと稼げる。
あれから二年。
女は今でも、ときどき大学の近くを避けて通った。
午後六時を過ぎると、女はようやく動き始めた。
シャワーを浴び、髪を乾かし、鏡の前へ化粧品を並べる。
下地を塗る。
肌の色を整える。
目の下のくすみを消す。
鼻筋に光を置き、頬へ影を入れる。
まつ毛を上げ、唇に色を重ねる。
一つ工程を進めるたび、鏡の中から疲れた女が消えていく。
代わりに現れたのは、客が金を払って会いに来る女だった。
新しいバッグを持ち、身体の線がきれいに見えるワンピースを着る。
耳元には、太客から贈られた大きな石のピアスを飾った。
部屋を出る頃には、女は光っていた。
廊下の蛍光灯でさえ、彼女の周りだけは店の照明のように見えた。
だが、玄関の明かりが消えた瞬間。
女の胸元から、針の先ほどの小さな光がこぼれた。
女は気づかず、鍵を閉めて歩き去る。
床に落ちた光は、しばらく震えていた。
やがて黒い煙のような尾が暗がりから伸び、そっとその光を拾い上げた。
古びた青灰色の提灯。
左右で形の異なる二つの目。
ひび割れた身体の奥で、消えかけの火が揺れている。
ツヅラビは拾った光を見つめた。
片方の目には、今も残っている灯りが映る。
もう片方の目には、すでに消えてしまった影が映る。
光のかけらの中には、安い弁当を二人で分けて食べる母娘の姿があった。
幼い娘が笑っている。
母親も、疲れた顔で笑っている。
ツヅラビは、くすみオレンジ色の房を揺らした。
そして光のかけらを、自分の提灯の内側へ静かに縫い留めた。
店へ着くと、女はいつもの笑顔になった。
明るい声で挨拶をし、ロッカーで香水をつける。
「そのバッグ、買ったの?」
同僚が目を丸くした。
「うん。かわいくない?」
「高かったでしょ」
「まあね。でも今月、社長が来てくれるから」
女は平気な顔で答えた。
社長。
そう呼ばれる男は、女の一番の太客だった。
何の会社を経営しているのか、女は詳しく知らない。
聞くたびに話が少し変わった。
不動産だと言ったこともある。投資関係だと言ったこともある。最近は海外で新しい事業を始めるのだと話していた。
それでも男は、いつも高い酒を注文した。
ブランド品を贈り、会計のときには金額を見ない。
女にとって、それが成功者の姿だった。
自信に満ち、誰にも頭を下げず、欲しいものを迷わず手に入れる。
いつか自分も、そんな側へ行きたいと思っていた。
開店から一時間ほどして、最初の客についた。
くたびれたスーツを着た会社員だった。
以前にも何度か接客したことがある。
男は席へ座るなり、仕事の話を始めた。
「最近、忙しくてさ。大きい案件を任されてるんだ」
「すごいね。頼りにされてるんだ」
女は笑顔で相づちを打ち、酒を作った。
男が何を話すかも、だいたい分かっていた。
自分は本当ならもっと評価されるべきだ。
会社は人を見る目がない。
部下は頼りない。
そのうち、もっと条件のいい会社へ移るかもしれない。
女は一つずつ、男が欲しがる言葉を返した。
「やっぱり分かる人には分かるんだよな」
男は満足そうに笑った。
酒が進むと、男は女の将来を心配し始めた。
「君もさ、もう少し将来のことを考えた方がいいよ」
「うん、そうだね」
「若いうちはいいけど、この仕事をいつまでも続けられるわけじゃないだろ」
「心配してくれてるの?」
女は笑った。
笑いながら、テーブルの下で爪を強く握った。
――そんなこと、自分が一番分かってる。
この仕事を何歳まで続けるのか。
辞めた後に何ができるのか。
大学を中退した自分を、昼の会社が雇ってくれるのか。
考え始めると息が苦しくなるから、考えないようにしていた。
男が帰ると、女は笑顔のまま頭を下げた。
「また来てね」
店の外へ消えていく男の背中は、入ってきたときより少しだけ軽く見えた。
その足元の影も、以前よりわずかに濃くなっている。
店の向かいの暗がりで、ツヅラビの二つの目がその影を追った。
やがて視線を女へ戻す。
女の周りには、シャンデリアとネオンの光が降り注いでいた。
けれど、ツヅラビの片方の目に映る彼女の灯りは、今にも消えそうだった。
深夜近くになり、社長が現れた。
仕立てのよいスーツ。磨かれた靴。強い香水。
店長まで入口へ迎えに出た。
「待ってた」
女はそれまでで一番明るい笑顔を見せた。
「遅くなって悪い。商談が長引いてさ」
社長は女の腰へ手を回し、席についた。
高いボトルが入り、女たちが集まる。
社長は新しい事業の話をした。
近いうちに大きな金が動くこと。海外の投資家も興味を持っていること。今のうちに乗れば、周りの人間も豊かにできること。
「お前も、いつまでもここで働かなくていいんだぞ」
社長は女の耳元で言った。
「俺が店を持たせてやってもいい」
女の胸が高鳴った。
「本当に?」
「俺が嘘をついたことあるか?」
社長は笑った。
そのとき、テーブルに置かれた社長のスマートフォンが震えた。
画面には、知らない番号から何件もの着信が並んでいた。
社長は一瞬だけ顔を曇らせ、すぐに端末を伏せる。
「出なくていいの?」
「くだらない営業だよ」
そう言いながら、社長の指は落ち着きなくグラスの縁を叩いていた。
女は気にしなかった。
成功者にも面倒な相手はいるのだろうと思った。
店の窓の外では、ツヅラビの「消えた影」を見る目が、社長の背後にまとわりつく黒い煙を見つめていた。
煙の中から、いくつもの手が伸びている。
だが、女には見えない。
見えるのは、社長の腕時計と、テーブルを埋める高価な酒だけだった。
午前一時を過ぎた頃。
女のスマートフォンに着信が入った。
『お母さん』
画面を見た瞬間、女は通話を切った。
母親からの電話は、ここ数か月、ほとんど取っていなかった。
生活は大丈夫なのか。
身体を壊していないか。
大学を辞めて、本当に後悔していないのか。
電話に出れば、いつも同じ話になる。
店の中で聞きたい言葉ではなかった。
すぐに、もう一度かかってきた。
女は眉をひそめた。
今度は、母親の番号ではなかった。
知らない市外局番。
なぜか胸騒ぎがして、女は席を外した。
「もしもし」
『娘さんですか』
電話の向こうは、病院だった。
母親が自宅で倒れ、近所の人に発見された。
意識はあるが、詳しい検査が必要だという。
説明を聞いても、言葉が頭に入ってこなかった。
「母が……倒れた?」
自分の声が、遠く聞こえた。
女は店長へ事情を話した。
「今すぐ行かないと」
店長は店内を見回した。
「でも、社長まだいるよ。せめて帰るまで待てない?」
女は一瞬、席の方を見た。
社長は楽しそうに別の女と笑っている。
今日の売上。
今月の順位。
社長に嫌われたら、新しいバッグの支払いさえ苦しくなる。
足が動かなかった。
そのとき、女の耳の奥に、昔の母親の声が蘇った。
『あんたは、自分の人生まで安売りしちゃだめだよ』
大学を辞めると伝えた夜、母親が泣きながら言った言葉だった。
女はあのとき、何も分かっていないと怒鳴った。
電話を切り、それから距離を置いた。
母親は、ずっと自分を否定しているのだと思っていた。
違ったのかもしれない。
母親はただ、自分と同じように、娘にも苦しい人生を歩ませたくなかったのかもしれない。
「すみません。帰ります」
女は店長へ頭を下げた。
社長にも事情を伝えた。
「母親なら、明日でいいだろ」
社長は酒を飲みながら言った。
「今夜は俺が来てるんだぞ」
それまで輝いて見えた腕時計も、スーツも、急に薄っぺらく見えた。
女は何も言わず、店を出た。
外では、ネオンが一つずつ消え始めていた。
派手な看板から光が失われるたび、古びた壁と汚れた路面が姿を現す。
女はタクシーを探して走った。
だが、大通りへ出るはずの道を曲がったのに、知らない路地へ迷い込んだ。
焦るほど方向が分からなくなる。
高い靴の踵が、濡れた路面に引っかかった。
女は転び、ブランドバッグを落とした。
中身が路地へ散らばる。
化粧品。財布。美容外科の診察券。未払いの請求書。
女はその場に座り込んだ。
「私、何やってるんだろ……」
母親が倒れた。
それなのに、自分は店を出るかどうかさえ迷った。
大学へ入ったのは、何のためだったのか。
夜の仕事を始めたのは、誰のためだったのか。
いつから、欲しいバッグを買うために、払うべきものから目をそらすようになったのか。
頬を涙が伝った。
きれいに作った顔が崩れていく。
つけまつ毛が外れ、涙で化粧がにじんだ。
ネオンが消えた路地には、もう彼女を輝かせるものがなかった。
そのとき。
足元に、くすんだオレンジ色の光が差した。
女は顔を上げた。
路地の先に、古い提灯のようなものが浮かんでいる。
左右で異なる二つの目。
ひび割れた青灰色の身体。
黒い煙のような尾。
近づけば逃げ出したくなるほど不気味なのに、その光だけは、なぜか懐かしかった。
「……なに?」
提灯の怪異は答えない。
身体のひび割れから、一つの光のかけらを取り出した。
女が昼間、部屋の前へ落とした光だった。
光の中に、幼い自分と母親の姿が見えた。
母親は疲れた顔で笑い、娘の皿へ、自分の分の卵焼きを一つ移している。
『いっぱい食べな。あんたはこれからなんだから』
忘れていた声だった。
女は光へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、冷え切っていた胸の奥に、かすかな温かさが戻った。
何も解決していない。
母親の病状も分からない。
大学へ戻れるわけでもない。
借金も、未払いの請求書も、明日になれば消えているわけではない。
それでも、今どこへ行くべきかだけは分かった。
ツヅラビは身体の向きを変えた。
くすんだ灯りが、暗い路地の先を照らす。
女は散らばった荷物をバッグへ押し込み、立ち上がった。
怪異の後を追う。
曲がり角を一つ、二つ。
やがて大通りの明かりが見えた。
ちょうど一台のタクシーが、信号で止まっている。
女は振り返った。
路地には、もう誰もいなかった。
ただ、地面に細い光の糸が残り、女の足元まで続いていた。
病院へ着くと、母親は眠っていた。
命に別状はないと医師から聞き、女はその場に崩れそうになった。
ベッドの脇の椅子へ座り、母親の手を握る。
小さく、硬い手だった。
自分を育てるために働き続けた手。
女は朝まで、その手を離さなかった。
窓の外が明るくなった頃、母親が目を開けた。
「来たの」
かすれた声だった。
「うん」
女はそれ以上、うまく言葉にできなかった。
母親は娘の顔を見た。
涙で崩れた化粧も、片方だけになったつけまつ毛も見えているはずだった。
それでも何も責めなかった。
「あんたが元気なら、それでいいんだけどね」
女は首を振った。
「元気じゃなかった」
初めて、正直に言えた。
「ずっと、どうしたらいいか分からなかった」
母親の手を強く握る。
「でも、もう少しちゃんとする。すぐ全部は無理だけど……逃げるの、やめる」
母親は、ほんの少し笑った。
数日後。
女の生活は、まだほとんど変わっていなかった。
昼過ぎに起き、夜になれば化粧をして店へ向かう。
大学へ戻る予定も決まっていない。
仕事を辞める決心もついていない。
社長からは何度も連絡が来ていた。
『この前は勝手に帰って感じ悪かったな』
『店の話、なかったことにするぞ』
女は画面を見つめたあと、返信せずに閉じた。
テーブルには、欲しかった新作の化粧品が表示された通販画面と、期限の過ぎた請求書が並んでいる。
女はしばらく迷った。
それから通販画面を閉じ、請求書を手に取った。
たった一枚。
それを払いに行っただけだった。
帰り道には、母親が入院している病院へ持っていく果物を買った。
何者かになれたわけではない。
過去を取り戻せたわけでもない。
ただ、昨日まで後回しにしていたものを、今日は一つだけ先に選んだ。
夕暮れの道を歩く女の胸元で、弱い光が揺れていた。
それは化粧品の艶でも、宝石の反射でもない。
まだ頼りなく、風が吹けば消えてしまいそうな、小さな灯りだった。
ビルの屋上。
古びた青灰色の提灯が、その光を見つめていた。
片方の目には、女の中に残った灯りが映る。
もう片方の目には、彼女がようやく置いてきた、古い迷いの影が映っていた。
ツヅラビの二つの目が、やわらかく細められる。
ひび割れた身体の奥で、くすんだオレンジ色の火が、少しだけ明るくなった。
喜んでいるように、房飾りが夜風に揺れる。
女は気づかず、病院へ向かって歩いていく。
けれど、その足取りはもう、迷ってはいなかった。
夜のネオンが消える直前。
消えかけの灯りを、ひそかに縫いとめる。
その古びた怪異の名は――ツヅラビ。
第二夜「ツヅラビ」をお読みいただき、ありがとうございました。
華やかな光の中にいるからこそ、自分自身の灯りを見失ってしまうことがあります。
すぐに人生を変えられなくても、昨日まで後回しにしていた何かを一つ選び直す。それもまた、前へ進むための小さな一歩なのかもしれません。
次の夜には、また別の妖怪と人間の物語が始まります。
妖怪ネオン町の続きを、見届けていただけましたら幸いです。




