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第一夜 トボネラ――男の影は、本人より疲れていた。

妖怪ネオン町、第一夜。今宵現れるのは、持ち主からこぼれ落ちた影を拾う小さな怪異――トボネラ。闇にまぎれ、疲れ果てた影にそっと灯りをともす、不思議な一夜の物語です。

妖怪ネオン町


第一夜 トボネラ――男の影は、本人より疲れていた。


ここは妖怪ネオン町。


どこにでもある、夜の街。


赤や青のネオンが濡れた路面に溶け、客を呼ぶ声と酔客の笑いが、細い路地の奥まで流れ込んでいる。


誰もが何かを忘れるために酒を飲み、忘れられない何かを抱えたまま家路につく。


この街には、そんな人間たちからこぼれ落ちたものを拾う、小さな怪異がいた。


その夜――男の影は、本人よりも疲れていた。


男の名は、ひとまず語らないでおこう。


名を聞いたところで、きっと覚えられない。


どこにでもいる会社員。どこにでもある会社に勤め、どこにでもある不満を抱えた、何者にもなれなかった男だった。


若い頃は、自分だけは違うと思っていた。


いつか大きな仕事を任される。誰よりも早く出世する。高い給料をもらい、広い部屋に住み、昔の友人たちを驚かせる。


根拠はなかった。


だが、未来だけはいくらでも残っていた。


その未来が一つずつ消費され、気づけば十年以上が過ぎていた。


朝は決まった時間に目を覚まし、満員電車に揺られ、上司の顔色をうかがいながら働く。部下と呼べるほどの後輩もできたが、彼らは男を慕ってはいなかった。


仕事ができないわけではない。


だが、誰かの記憶に残るほど、できるわけでもない。


失敗すれば名前を呼ばれ、うまくいけば部署全体の成果になる。


昼休みには同僚の輪から少し離れて弁当を食べる。夕方には肩が重くなり、帰る頃には、一日何をしていたのか思い出せなくなっている。


そんな男にも、一つだけ楽しみがあった。


金曜日の夜に、一人で酒を飲み歩くことだ。


その日も男は、どこにでもある飲み屋街の外れにある、古い居酒屋の引き戸を開けた。


「いらっしゃい」


店主は、男の顔を見るなり、いつもの席へおしぼりを置いた。


男はカウンターの端に腰を下ろし、ネクタイを緩める。


「とりあえず生。それと煮込み」


「はいよ」


一杯目の半分を飲み干すまでは、男も静かだった。


二杯目に入ると、言葉がこぼれ始めた。


「結局さ、上の連中は何も分かってないんだよ」


店主は煮込みの鍋をかき混ぜながら、「そうかい」とだけ答えた。


「現場を回してるのは俺たちなのに、数字だけ見て好きなことを言う。今日だって、部長の尻拭いをしたのは俺なんだ。それなのに、評価されるのはあいつでさ」


「大変だな」


「そうなんだよ。俺が本気を出せる仕事を任せてもらえれば、もっとやれるんだ。なのに、会社は人を見る目がない」


男は同じような話を、毎週少しずつ形を変えて繰り返していた。


店主は否定も肯定もしない。


ただ、男のグラスが空けば次の注文を聞き、煮込みの皿が空けば、少しだけ大根を足してやった。


カウンターの下。


男の革靴から伸びた影が、力なく床に伏せていた。


本来なら、店の明かりに合わせて形を変えるはずの影だった。


だが、その影は男の動きについていくのがやっとだった。ときおり身体の端から黒い雫をこぼし、苦しそうに震えている。


店の外から、大きな一つ目がそれを見つめていた。


黒い影のような小さな身体。


左右で大きさの違う二本の角。


ゆがんだ、少し不気味な笑顔。


手には、くすんだオレンジ色のランタンを提げている。


トボネラである。


トボネラは、持ち主からこぼれ落ちた影を拾う。


寂しさで薄くなった影。


怒りで形を崩した影。


悲しみに耐えられず、持ち主の足元から逃げ出した影。


そうした影をランタンの火で温め、ほんの少しだけ元気にしてやるのだ。


トボネラは、ここ数週間、男の影を見ていた。


男が居酒屋へ入るときも。


酒を飲みながら会社の愚痴をこぼすときも。


店を出て、もっと明るい通りへ向かうときも。


いつも男の後ろを、弱った影が引きずられるようについていた。


「ごちそうさん。また来るよ」


男は店主にそう告げ、三杯分の酒代を払った。


外へ出ると、夜風が赤くなった頬を撫でた。


ここで帰ればいい。


男自身も、頭のどこかでは分かっていた。


だが、まっすぐ部屋へ戻れば、待っているのは暗く静かなワンルームだけだ。


男は駅とは反対の方角へ歩いた。


たどり着いたのは、若い女性が客の隣に座って酒を作る店だった。


「久しぶりじゃん」


きれいに化粧をした女が、男の隣に腰を下ろす。


男は背筋を伸ばした。


先ほどまでの疲れた顔を隠し、値踏みするような目で女を見る。


「最近、仕事が忙しくてさ。大きい案件を任されてるんだ」


「へえ、すごいね」


「まあ、俺くらいになるとね。上も簡単には休ませてくれないんだよ」


女は笑顔で酒を作った。


男は、聞かれてもいない仕事の話を続けた。


部下に頼られていること。近いうちに役職が上がるかもしれないこと。今の会社にこだわっているわけではなく、本気になればもっと条件のいい会社へ移れること。


どれも、完全な嘘ではなかった。


ただし、真実でもなかった。


「君もさ、もう少し将来のことを考えた方がいいよ」


酒が回るにつれ、男の声は大きくなった。


「若いうちはいいけど、その仕事をいつまでも続けられるわけじゃないだろ。ちゃんとした仕事を探すとかさ」


女の笑顔が、ほんの一瞬だけ消えた。


それに気づかないふりをして、男は話し続けた。


女を見下している間だけ、自分が少し高い場所に立っているように思えた。


カウンターの下では、影がさらに小さく縮こまっていた。


トボネラは店の看板の陰から、それをじっと見ていた。


大きな一つ目に、店のネオンが青白く映っている。


夜が深くなり、男は店を出た。


財布は軽くなり、足取りは重くなっていた。


帰り道を一人で歩きながら、男の頭には先ほどの女の表情が浮かんだ。


――何を偉そうに言ってるんだ、俺は。


出世もしていない。


部下に慕われてもいない。


転職する勇気などない。


人生を立て直す方法も分からない男が、他人の将来に口を出した。


「馬鹿みたいだな」


誰もいない路地で、男は呟いた。


飲んでいる間は忘れられる。


だが、一人になると、酔いで緩んだ心の隙間から、押し込めていた言葉があふれ出す。


こんな人生のままでいいのか。


昔、なりたかった自分は、今の自分を見て何と言うだろう。


まだ間に合うのか。


それとも、もう何も変わらないのか。


問いかけても、答える者はいない。


男は街灯の下で立ち止まった。


そのときだった。


足元の影が、男から遅れて立ち止まった。


男は気づかない。


再び歩き出した男の足元から、影の端が少しずつ剥がれていく。


古い紙が破れるように、音もなく。


影は必死に男についていこうとした。


だが、もう力が残っていなかった。


ついに男の足元から離れ、路地の真ん中に崩れ落ちる。


男は影を置き去りにしたまま、歩いていく。


トボネラの大きな目が、さらに大きく開いた。


影から黒い雫が、ぽたり、ぽたりと落ちている。


トボネラは男の背中と、倒れた影を交互に見た。


それから影を小さな腕で抱え、男の後を追い始めた。


男の住むアパートまでは、歩いて二十分ほどだった。


酔った男は何度もよろめき、そのたびに電柱や壁へ手をついた。


トボネラは影を抱えたまま、一定の距離を保ってついていく。


ときどき男が振り返ると、さっと塀の陰に隠れた。


ランタンの灯りだけが、暗がりに小さな残像を残す。


部屋に着いた男は、靴を脱ぎ散らかし、明かりもつけずにベッドへ倒れ込んだ。


静かな部屋だった。


冷蔵庫の低い音だけが響いている。


男はスーツ姿のまま、天井を見つめた。


「明日も、何もないな」


休みの日に会う相手はいない。


目覚ましをかける必要もない。


楽しみにしていた金曜日は、もう終わってしまった。


次の金曜日まで、また同じ一週間が始まる。


男は目を閉じた。


窓の外で、小さな何かが動いた。


トボネラは、わずかに開いていた窓の隙間から部屋へ入り込んだ。


抱えてきた影を床にそっと広げる。


影はすっかり薄くなり、ところどころ穴が開いていた。


トボネラは影の隣に座った。


ゆがんだ口元は笑っているように見えたが、大きな一つ目は心配そうに揺れている。


トボネラはランタンを床へ置いた。


くすんだオレンジ色の火が、ゆっくりと大きくなる。


トボネラが影の端を火へ近づけると、冷え切っていた黒い身体に、淡い橙色がにじんだ。


影が小さく震える。


トボネラは、もう少しだけランタンを近づけた。


すると影の中から、いくつもの光景が浮かび上がった。


入社式の日、慣れないスーツを着て笑っていた男。


初めて給料を受け取り、両親へ食事をごちそうした夜。


失敗した後輩をかばい、自分が上司に頭を下げた日。


残業中の同僚へ、黙って缶コーヒーを置いたこと。


仕事を辞めたいと泣く新人の話を、終電まで聞いたこと。


男自身が忘れてしまった、小さな出来事だった。


特別な成功ではない。


出世にも、金にもつながらなかった。


誰かが今も覚えているかさえ分からない。


それでも、男が何もしてこなかったわけではなかった。


影はすべてを覚えていた。


男が恥じた日も。


耐えた日も。


誰にも見られないところで、少しだけ優しかった日も。


ランタンの火に温められ、影の穴がゆっくりと塞がっていく。


薄れていた輪郭が戻り、黒い雫も止まった。


やがて影は、自分から男のベッドへ近づいた。


床からベッドの脚を上り、眠る男の足元へ戻っていく。


ぴたりと重なった瞬間、男の呼吸が少しだけ深くなった。


トボネラは満足そうに目を細めた。


窓の外が白み始める前に、ランタンを持って部屋を出ていく。


その姿を、男が見ることはなかった。


翌朝。


男は昼近くに目を覚ました。


頭が痛い。


口の中は乾き、脱ぎもしなかったシャツには、煙草と酒の臭いが染みついている。


最悪の朝だった。


昨夜の記憶が戻る。


居酒屋での愚痴。


女に向かって吐いた、偉そうな言葉。


男は枕へ顔を押しつけた。


消えてしまいたいほど恥ずかしかった。


会社が変わったわけではない。


昇進が決まったわけでもない。


孤独が消えたわけでも、人生の答えが見つかったわけでもない。


それでも男は、いつもより少し早くベッドから起き上がった。


床に落ちたネクタイを拾い、窓を開ける。


冷たい朝の空気が部屋へ入ってきた。


「……掃除でもするか」


自分でも不思議だった。


たったそれだけのことだった。


未来に希望を持ったわけではない。


新しい人生を始める覚悟ができたわけでもない。


ただ、昨日よりほんの少しだけ、身体が軽かった。


今日という一日を、昨日とまったく同じにはしなくてもいい。


そんな気がした。


朝の光に照らされた男の足元で、影が静かに伸びをした。


男はそれに気づかない。


窓の外。


向かいの建物の屋根に、小さな黒い怪異が座っていた。


大きな一つ目を細め、ゆがんだ笑顔を浮かべている。


手にしたランタンの中では、くすんだオレンジ色の火が、朝日に負けず揺れていた。


やがてトボネラは屋根から飛び降り、まだ眠りの残る路地へ消えていった。


この街には今夜も、疲れた影が落ちている。


闇にまぎれて、影をひろう。


その小さな怪異の名は――トボネラ。

第一夜「トボネラ」をお読みいただき、ありがとうございました。

人生が劇的に変わらなくても、誰かの小さな優しさが、明日へ進む力になることがあります。

今夜、トボネラが拾ったのは、そんな疲れ果てた一つの影でした。

次の夜には、また別の妖怪と、別の人間の物語が始まります。

妖怪ネオン町の続きを見届けていただけましたら幸いです。

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