雨の夜に
彼女が出ていって、元の日常が戻ってきた。
店を開けて、酒を作って、客の噂話を聞いて、閉店の札を下げる。
窓際の席には誰も座らないし、青いシロップの瓶は棚の奥で減らなくなった。
猫の皿は俺が出すようになった。
俺の生活は、彼女が来る前と寸分違わぬ形に戻った。
……戻ったはずだった。
ただ、嫌な予感だけが残った。
夜、グラスを拭きながら、彼女の最後の言葉を何度も転がした。
『——彼は、今ここにいる私を、迎えにはこないの』
おかしいだろう、と思うのだ。
俺はカウンター越しにだが、あの男のことはなんとなくわかる。
そんじょそこらの行き倒れにすら、まっすぐ礼を言うような男だし、悪い噂を聞いた試しがない。
羨望こそされど、本気で妬まれているようなこともない。
それは彼が相応の苦労を背負ってきたが故の結果なのだろう。
つまり、火傷くらいで人を追い返すような狭量な人間じゃない。
会いにいけば、受け入れてくれる。断言してもいい。
なのに、彼女の言い方には迷いがなかった。願望でも、卑屈でもなく、確認済みの事実を読み上げる声だった。
そして厄介なことに——俺の中の何かも、彼女に同意しているのだった。受け入れるはずだ、と考えたすぐ横で、それはありえない、と感じている。
理屈が通らない。あの男の性格に穴はない。
なら、この「ありえない」は、どこから来る?
考えて、やめた。
いつもの詮索しない技術だ。
ただ今回ばかりは、やめたはずの考えが夜中に何度も戻ってきた。
それからしばらくが過ぎた。
その日の夜、雨が降った。
今回も、夕方の予報にはなかった。
降り始めてすぐ、石畳を叩く音が強くなり、排水溝の追いつかない音に変わった。
あの夜以来の、大雨。
俺は看板の灯りを落とす手を止めて、しばらく雨の音を聞いていた。
猫が鳴いたのは、そのときだった。
裏口の方からだった。
それは普段の、飯をよこせという鳴き方ではなかった。
俺は急いで裏口のドアを開けた。
路地には、誰もいなかった。
雨が降っているだけだった。あの夜、彼女が座り込んでいた壁の前には、水が流れているだけだった。
「……脅かすな」
俺は猫を店に入れようと手を差し伸べる。
猫が、俺のズボンの裾を噛んで引っ張った。
猫はずぶ濡れだった。濡れるのが嫌いなくせに、雨の中に立って、俺の裾を路地の奥へ引っ張ろうとしている。
俺は店の鍵もかけずに走り出した。
雨はほとんど前が見えないくらいで、猫は先を走っては止まり、俺が追いつくとまた走った。
走りながら、冗談であってくれと思った。何がとは考えなかった。考えたら、現実になってしまう気がした。
あの夜の雨。予報になかった雨。
今のうちに、という別れ際の彼女の言葉。
嫌な予感には、とっくに名前がついていた。ついていたが、俺は最後までそれを呼ばずに走った。
猫が、止まった。
そこは、街灯の切れた路地の奥だった。
彼女は、壁にもたれて座り込んでいた。
初めて会った夜と、同じ姿勢だった。
壁にもたれたまま、ずるずると滑り落ちて、そこで止まった格好。布が雨を吸って、肌に貼りついていた。あの夜と違うのは、滲みの数と、広さだった。
一目見て、もう手遅れだと思った。
酒をかけてどうこうという段階は、とうに過ぎている。
救急に報せたところで、どうにかなる傷でないことは素人の俺にもわかった。
俺は彼女の前に立って、煙草を咥えた。
ライターを鳴らした。
火は、つかなかった。
もう一度鳴らした。この大雨の中では、つかなかった。
「……クレイ」
布の奥から、掠れた声がした。
「また、あなたに会えるとは思っていなかったわ」
「奇遇だな。俺もだ」
ここは、店への帰り道ですらなかった。うちからはだいぶ遠い。
彼女がどこへ行って、どこへ行こうとしていたのかは知らない。
俺を呼んだのは彼女ではなく、猫だ。
黒い猫は彼女の隣に座って、濡れたまま動かない。
「……私の任務は、完了した」
彼女は報告の声で言った。
「任務っていうのは、一体なんだ?」
「記憶の転送が、完了したわ。この火傷より、前の記憶を入れたの……だから、大丈夫」
大丈夫、と彼女は言った。
「次の私は、綺麗な身体と記憶で、彼のところに行ける」
俺は、しばらく何も言えなかった。
それが答えだった。
『——彼は、今ここにいる私を、迎えにはこないわ』
あの夜からずっと引っかかっていた言葉が、ようやく腑に落ちた。
この女は最初から、自分を助けてくれたあの男に、今の自分のまま会いに行くつもりなんてなかったのだ。
今の自分を、彼の物語の続きに置いていくつもりが、端からなかった。
そして本人が、それを誰より知っていた。
「……ねぇ、クレイ。お願いがあるの」
「なんだ」
「彼はきっと、いつか、あなたのお店に来る」
彼女は、ゆっくりと言った。
「そのとき、黙っていて」
「どのことをだ?」
「ここにいる私が、死んだこと。……あなたが、私を知っていたこと。全部」
「……………………ああ、わかった」
雨の音だけがした。
「新しい私を、彼は気に入ってくれるかしら?」
「わからんよ」
「……なぜ?」
「君の本来の姿を、俺は一度も見たことがないからね」
彼女はまた黙った。
雨が、布に染み込んでいく。
それから、布の奥で笑ったような気がした。
「不器用な人ね」
「冷たいとはよく言われるが」
「違うわ。不器用」
「……そう言われたのは、君が初めてだよ」
彼女は、返事をしなかった。
さっきまで言葉と言葉の間にあった呼吸が、少しずつ長くなっていた。
布の張りが、ゆるんでいく。俺にはそれが読めてしまう。読めるようになってしまっていた。
「ああ………それと…………」
彼女の手が、ゆっくりと布の合わせ目を探った。濡れて重くなった布の奥から、小さく折り畳んだ紙が出てきた。
「……請求書。作ったの」
受け取って、開いた。几帳面な字だった。宿代、食事、酒、部屋代。労働分の控除。あの帳簿の数字が、一枚にまとめてあった。
「無事に終わっていたら…………あそこに、戻るつもりだった」
彼女はゆっくりと言った。
「……返せる、あては……ない……けれど………………」
「…………それは、困るな。働いてでも、返してもらわないと」
返事はなかった。
猫が、一声だけ鳴いた。それから前脚を伸ばして、彼女の膝を、さするように触れた。
雨が、いっそう激しくなった。
石畳を叩く音が、世界の音を全部塗り潰していった。
俺は伏せて、彼女の手に、黙って自分の手を添えた。
雨が弱まり始めた頃、路地の先から車輌の音が聞こえてきた。
低い、重い、軍用のエンジンの音。まっすぐこちらへ近づいてくる。
位置がわかっているのだろう。損耗した資産の、正確な座標が。
俺は彼女の手から、手を離した。
立ち上がって、猫を拾い上げる。
猫は珍しく、抵抗しなかった。濡れて軽くなった身体が、腕の中でじっとしていた。
俺は振り返らずに、路地を出た。
翌日、あの路地を通った。
何もなかった。
血の痕も、布の切れ端も、何も残っていない。
石畳が濡れて乾きかけているだけの、ただの路地だった。




