ギリギリ守れる程度
その夜の営業は、妙にざわついていた。
客の入りは普段通りなのに、話し声だけが多い。
どのテーブルも似たような話をしていた。
要塞都市の方で何かが動いたらしい、軍の艦が旧市街の上を通ったらしい、例の彼が誰それの拠点を落としたらしい——噂話というのは、集まると天気みたいな、大きな気配となる。
嵐の前の、湿った風みたいなやつだ。
閉店後、自室のテレビをつけたら案の定だった。
報道は昼の映像を流していた。空中要塞都市の外郭で黒煙が上がっている。
キャスターが「一連の事件の中枢に、当局と有志の戦力が接近しつつある」と原稿を読み、専門家が地図に丸を描き、決着は近いという意味のことを、決着とは言わずに言っていた。
気がついたら、彼女が後ろに立っていた。
正確には、ドアの横だ。部屋にまでは入ってこない。
一定の距離を保ったまま、壁際に立って画面を見ていた。
いつからいたのかは、わからなかった。
俺は画面に目を戻した。
客の噂とこの報道を足し合わせれば、答えはひとつしかない。
あの男の物語は、もう佳境に入っているんじゃないのか。
(どういうことだ。それならば、なんであいつはここに来ない?)
考えたくもない筋書きがひとつ頭に浮かんだ。
彼女はここにいる。脱走した軍の資産が、この店にいる。
もし戦いの都合が——回収だか追撃だか知らないが——彼女に及ぶなら、ドンパチがこの店で起こることになるんじゃないのか。
――いや、まさかな。
この地区は、まさにあの男のおかげで最近平和になったばかりだ。
自分が救った街を戦場にするなんて、あいつはそれを許すようなダサい男じゃない。
じゃない、が。
この店を失ったら、俺は生きていけない。
俺は物語の外にいるような人間だが、外の人間には外の人間の人生というものがある。
焦っている俺に対して、彼女は何も言わなかった。
テレビ画面の黒煙を、ただ見ていた。俺も何も訊かなかった。
その夜、彼女が二階に上がったのを確かめてから、俺はカウンターの裏に手を伸ばした。
布に包んだそれを、おもむろに取り出す。
「何をやっているの?」
心臓が跳ねた。
振り向くと、彼女が階段の途中に立っていた。上がったはずが、降りてきたらしい。俺の手元を見ている。
「……なんでもない」
「その包み、この前まで、そこになかった」
観察の成果、というやつだった。
こうなると、この女に誤魔化しは効かない。俺は諦めて布を開き、カウンターの上に置いた。
それは拳銃だった。
「High-mark S-7。旧世代の量産型だ」
彼女はカウンターまで来て、それを覗き込む。
しかし、触ろうとはしない。
それは、武器を扱う人間の距離の取り方だった。
「知っている。旧文明の護身用モデル。安価、単純構造、整備性重視」
「詳しいな」
「データにある。……でも、実物は初めて見た。博物館にもない」
「だろうな。残ってる方がおかしい代物だ」
「なぜ、あなたが持っているの?」
俺はグラスを一つ引き寄せて、自分用に安い方の酒を注いだ。
長くなる話をするときの、俺の癖だ。
「……俺の母親の遺品なんだ」
彼女は何も言わずに、いつもの窓際ではなく、カウンターの席に座った。
俺の話の続きを待つ姿勢だった。
「俺が育ったのは、文明再興のごたごたが残ってた頃でな。この街も今みたいに行儀がよくなかった。女が一人で子供を育てるには、あまりにも厳しい時代だった」
酒を一口飲んだ。
「母親はこいつを枕の下に置いて寝ていた。夜中に窓を試す音がしたら、天井に向かって一発撃つ。それで大抵は済んだらしい。撃たなかった夜の方が多かったと思うが、まあ……そういう使い方をされてきた銃だ」
「あなたを守るために?」
「自分と、俺をな」
俺はグラスを置いて、銃を見た。
「まあ、骨董品みたいなもんだ。ただ、俺が持っている銃はこれだけだ。それでも、俺の母親はそれで自分の身を守って俺を育ててくれた」
彼女は銃を見ていた。
「世界を救ったり、巨悪を薙ぎ倒せるような銃でもない。そう——自分の大切なものを、ギリギリ守れる程度の銃。それがこいつなんだよ」
「……ギリギリ守れる程度」
彼女は俺の言葉を、確かめるように繰り返した。登録するときの言い方だった。
High-mark。
高い刻印、なんて大層な名前だが、当時は一番安い銃だった。
ただ、後になって思う。他者に誇れることの無い人間が、それでもここまでは守れたという——水位の線みたいなものを、この銃は名前にしていたのかもしれない。
「それで、なぜ今夜、それを出したの?」
「なぜってこともない。その……手入れだ。道具は時々風を通さないと駄目になる」
「その割に、油の匂いがしない。長い間、しまいっぱなしだった匂いね」
「……匂いでわかるのか」
「わかるわ」
俺はグラスの酒を一口飲んだ。時間稼ぎにもならなかった。
「テレビ、観ていたでしょう」
俺は、何も言わなかった。
「それで銃を出した。違う?」
俺は大きく息を吐いて、グラスを置いた。
「……この店が厄介ごとに巻き込まれた時の、気休めってやつだ」
「弾は?」
「入ってない。撃ったこともない」
「それじゃ、気休めにもならないわ」
「うるさいな。そんなことはわかってる」
彼女は少しの間、黙っていた。それから言った。
「……でも、いい銃ね」
そして彼女は、少し首を傾げた。
「それで、その銃をこれからどうするつもり?」
「修理に出す。撃てるようにしておかないと、話にならんからな」
俺は銃を布の上に戻した。
「連射したらぶっ壊れるかもしれん。それでも、この店を守るには必要なことだ」
俺は彼女から、目を逸らした。
「今の俺には、他に何もないからな」
彼女はしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「大切な銃じゃない。あなたがそれを撃つ必要はないわ」
「しかしな。あの男はおそらく、あんたのために戦ってるんだぞ。戦いの都合がこの場にいるあんたに及ぶなら——」
「大丈夫。その必要はない」
彼女は繰り返した。いつもの確認の声ではなかった。
「彼は、今ここにいる私を、迎えにはこないわ」
「……何を言って——」
彼女の手が、首元の布にかかった。
布が、ずれた。
彼女が自分の意思でそれを解くのを、俺は初めて見た。
覗いたのは、首から肩にかけての皮膚だった。
皮膚、と呼んでいいのかもわからなかった。
引き攣れて、波打って、色の変わった面が、布の下から続いていた。火傷だ。
それも、治りかけているものではない。
もうこれ以上治りようのない傷だと、素人目にもわかった。
「この場所が戦いになることはない。彼は絶対にここには来ない」
彼女は布を戻しながら言った。声は、何も変わらなかった。
「……それじゃあ、なんでここに来た?」
それだけ訊くのが、やっとだった。
「今のうちに……彼のことを、彼の好きなものを、知っておきたかったから」
今のうちに。
その言葉の意味を訊き返す前に、彼女は立ち上がった。
「時期が来たのね」
それから、彼女は俺を見た。
布越しでも、まっすぐ見られているのがわかった。
「……ありがとう。クレイ」
それだけ言うと、彼女は裏口から路地へ出た。
俺が何か言うより早く、彼女は助走をつけて、隣の建物の屋根に跳び上がった。
助走ありの、三階分だった。
布の裾が翻って、次の屋根へ、そのまた次へ。あっという間に、夜の向こうへ消えていった。
俺は路地に立ったまま、しばらく屋根の縁を見ていた。
あの跳び方を、俺は知っていた。いつかの夜、あの男と仲間たちが消えていったのと同じ跳び方だ。
物語の速度。
俺が全力で走っても最初の屋根にも届かない、あの速度で、彼女は行ってしまった。
考えてみれば当たり前の話だった。彼女は軍用のクローンだ。
最初から、あっち側の身体を持っていた。
うちの二階で寝て、皿を洗って、猫に餌をやっていたのは、ずっと、あっち側の生き物だったのだ。
俺は店に戻って、鍵をかけた。
カウンターの上には、布に包んだままのS-7と、空になったグラスがひとつ残っていた。




