「クレイ」
その日は一通りの仕事が終わっていて、彼女はいつもの窓際の席にいた。俺が作った青いやつを飲みながら、足元の猫に餌をやっている。
気がつけば、そこが彼女の定位置になっていた。
青いやつも、いつからか閉店後の定番になっている。
よほど気に入ったらしい。彼の好みの酒と違って、安いからというのもあるだろう。
彼女が帳簿につける額が小さくて済む。
「ねぇ、マスター」
「なんだ」
「マスターというのが業種の呼び名だとは、知っているけど」
彼女はグラスを明かりに透かしながら言った。
「あなたには、名前があるの?」
「なんだそりゃ。当たり前のことを訊くな。俺にだって名前くらいある」
「でも、誰もあなたのことを名前で呼んでいないわ」
観察の成果、というやつだろう。
彼女の言う通り、客は俺をマスターと呼ぶし、常連はおっさんと呼ぶし、酔っ払いはあんたと呼ぶ。
この店で俺の名前が発音されたことは、たぶん一度もない。
「場末の酒場の、都合のいい情報屋だ。マスターで済む。誰が名前なんか知りたがるかよ」
「そういうものなのね」
彼女はグラスを置いた。
「でも、名前があるのって、羨ましいわ」
……そういえば彼女には名前がないのか。
軍用のクローンなのだから。
「私にあるのは、No.5という識別番号だけだから……」
「そうかい」
俺はグラスを拭きながら言った。
「ま、あんたも彼に名前をつけてもらえばいい。その上で、あの男ならあんたを引き取ってくれるさ。お人好しだし、聞いた話じゃ、似たような境遇の娘をちゃんとした待遇で迎えたこともあるらしいし」
「……そうね」
短い返事だった。布の張り方で、笑っていないのがわかった。
それから彼女は、少しの間、黙っていた。猫が皿を舐める音だけがしていた。
「ねぇ」
「なんだ」
「あなたの名前を、教えて」
「なんでまた、そんなことを聞きたがるんだ?」
彼女は答えなかった。ただ、こっちを見ていた。
はーっ、と我ながら大きなため息を出して俺は観念した。
「……クレイ」
グラスを置いて、俺は言った。
「クレイ・パッカーフィールドだ」
口に出してみて、変な感じがした。
自分の名前を、自分で名乗ったのは久しぶりだった。
「なら、クレイで登録するわ」
「登録って何だ」
「呼称リスト」
「なんだよそのリストは。……まあいい。好きにしろよ」
どうせ、ことが終わればすぐに忘れられる名前だ。
あの男が迎えに来て彼女が物語のほうへ帰れば、その呼称リストとやらに刻まれた俺の名前も用済みになって消えるのだろう。登録なんて言うから、余計にそう思った。
その夜、彼女は青いやつを半分残したまま、しばらく黙っていた。
「……ねぇ、クレイ」
「なんだ」
「彼の隣には、いつも誰かがいるのよね。軍服の人と、ドレスの人。他にも、色んな素敵な人が」
俺が話したことの復唱だった。
彼女の記憶に抜けはない。
「……彼の周りには、綺麗な人が多い」
質問の形をしていなかった。だから俺は答えなかった。グラスを拭いて、棚に戻した。
「私は見劣りするかしら?」
「さぁ、どうだか」
俺は次のグラスを取った。
「俺はあんたの顔を見たことがないからな。わかるわけがない」
「……そう」
「そうだ」
彼女はグラスの青を、明かりに透かした。
それから残りを飲み干して、おやすみ、と言って二階に上がっていった。
いつもより、少しだけ早い時間だった。
それから彼女は、俺をクレイと呼ぶようになった。
ここら一帯で彼女だけが唯一、俺を名前で呼ぶようになった。




