適正な比率
このごろ、布越しでもなんとなく表情がわかるようになってきた。
眉の動きが見えるわけでも、目が見えるわけでもない。
ただ、布の張り方というか、首の角度というか、沈黙の長さというか、そういうもので、いま面白がっているなとか、納得していないなとか、だいたい読めるようになった。
読めたところで何の得もないのだが、毎日顔を突き合わせていれば、そうなる。
そういえば、黒猫はあの雨の夜以降、ちらほら店に出入りするようになっていた。
もっとも営業中は入れない。
閉店後と朝、気が向いたときだけ現れて、気が済んだら出ていく。
誰のものでもない猫の、正しい暮らし方だと思う。
で、彼女はいつからか、その猫の世話をしていた。
最初は例の「配分」だった。自分の皿から取り分けて、床に置く。
それが、そのうち店の前に皿を出すようになった。
営業前の路地に屈み込んで、布まみれの女が猫に餌をやっている。
絵面だけ見れば完全に不審者である。
「店の前で餌をやるな。居つかれるだろ」
「……空腹状態を確認した。放置は非推奨よ」
「俺の店の前でやるな」
「他の場所では、私が確認できない」
「……勝手にしろ」
負けた。
というか、こいつに小言が通ったためしがない。共犯のときも、配分のときもそうだった。
彼女の理屈はいつも妙なところで筋が通っていて、こちらの常識のほうが分が悪くなる。
猫は皿に顔を突っ込んでいた。
彼女はその横に屈んだまま、食い終わるのを待っていた。
急かすでも撫でるでもなく、ただ確認するように見ている。
それが彼女の世話の仕方だった。
それからさらにしばらくすると、彼女は気がついたら店仕事を始めるようになった。
皿洗い。グラス磨き。床掃除。
例によって、宣言も相談も一切ない。
閉店の札を下げると、いつの間にか俺の隣に立って、いつの間にか手が動いている。
ただし、料理の仕込みは全然ダメだった。
知識だけはあるのが逆に悪かった。
手順も分量も頭に入っているものだから、自信満々にやる。
それで一度、酷い目を見た。
詳細は割愛するが、鍋がひとつ使いものにならなくなり、店中の窓を開けて一晩過ごすことになった。
「知識と経験は別物だ」
「……登録した」
以来、仕込みだけは教えることになった。
包丁の持ち方から。ぎこちない手つきで、それでも彼女は一度教えたことは二度と間違えなかった。
なんでこんなことを突然始めたのかといえば、居候しているがゆえの、せめてもの罪滅ぼしなんだそうで。
「滞在中の費用は、記録しておいて」
「私が後で、必ず返す」
とのことだった。
しかし、どうなのだろうか。
あの主人公みたいな彼が代わりに返すというのなら、まだわかる。
実際、彼の金回りは良い。
だが、彼女自身が返すというのが、どうにもしっくりこなかった。
今の彼女に収入があるとは思えないし、この先の当てがあるようにも見えない。
返すというのなら、いつ、どうやって——そこまで考えて、やめた。
いつもの詮索しない俺の技術だ。
ある日、二人で皿を洗っていたときのことだ。
「……どうして、請求書を作らないの?」
そう、詰められた。
俺は返事をしなかった。泡のついたグラスをゆすいで、伏せた。
すると彼女は自分で勝手にレートを調べ始めた。
この街の宿代、食事の相場、二階の物置の広さから算出した部屋代。
閉店後の労働分は時給に換算して控除する、とも言った。
数日後には、帳簿までつけ始めていた。
几帳面な字だった。
「役に立てた?」
皿を差し出しながら、彼女が訊いた。
俺は返事をしなかった。皿を受け取って拭いて、棚に戻した。




