彼女の味
ちなみに、彼女が纏っている布は、彼女自身の意思でしか外れないらしい。
一度、洗い物のついでに「洗濯するなら布も出せ」と言ったら、「これは装備。着脱権限は私にある」と返された。
つまりあれは服というより、鍵のかかる箱に近いものらしく、彼女が解かない限り誰にも開けられない。
風呂も着替えも、彼女は一人で済ませる。
俺の前では口元をずらす以上のことはしない。一度も。
ともかく、彼女は布を解いた姿を一度も見せなかった。
おかげで、顔はおろか体型すらあやふやなままだ。
ただ、こういう話には覚えがあった。
お約束の型としてはなく、実際にこの街で起きたことだ。
何年か前、まさにあの主人公のような男が助け出した娘の話だ。
俺も客の噂で聞いただけだが——どこかの研究施設だか収容所だかから、全身を外套で覆った娘を連れ出した。
人前に出られない事情持ちだったのが、あの男の周りで暮らすうちに人並みの生活に戻って、いざ外套を脱いだら、そこらの舞台女優が裸足で逃げる別嬪だったらしい。今じゃあの男の仲間の一人として、隣で戦っているとかいないとか。
それは紛れもない実話である。
あの男の周りでは、お約束が実話になるのだ。
だったら、きっと今回もそうなるのだろう。
あの男がどこかのタイミングでふらりと彼女を迎えに来て、布の下から美少女でも飛び出してくる、という寸法だ。
まあ、確かなことがひとつだけある。
その布を開ける役目は、俺じゃない。
だから、布を纏っている理由は訊かなかった。
訊く筋合いもないだろう。
見られたくないものに鍵をかける権利くらい、クローンだろうが誰だろうが持っている。
しかし、その意思を尊重した上で、こんな外見の彼女を堂々と表に出しておくわけにもいかないのも事実だ。
だから、営業中は奥に引っ込んでいてもらうことにした。
二階の物置を片付けて、そこを当面の寝床にした。
彼女は文句を言わず、ただ「配置を確認した」とだけ言った。
配置、というのが軍の言葉なのか彼女の言葉なのかは、わからなかった。
そして、店はいつも通り開けた。
あの男が来るのを待つには、いつも通りにしているしかない。
ただ、どうにも視線を感じる。
客と話している最中、酒を作っている最中、勘定をしている最中。
階段の陰、厨房の戸の隙間から彼女の視線を感じるのだが、振り向くともういない。
だが見られていたことだけはわかる。
それは監視というより、観察に近かった。
心当たりはあった。軍用のクローンというのは、たぶん知識はあっても経験がない。
酒場も、客も、世間話も、頭の中の情報でしか知らないのだろう。
だとすれば、酔っ払い相手に愛想を売っている俺は彼女にとってさぞ物珍しい生き物なのかもしれなかった。
動物園の飼育員を見る目だと思えば、腹も立たない。
そして閉店後になると、彼女は決まって降りてきて、訊くのだった。
「……彼は、どんな人なのかしら」
彼、というのはもちろんあの男のことだ。
俺はグラスを拭きながら、知っている範囲のことを話した。
常連であること。金払いがいいこと。礼はまっすぐ言うこと。屋根を跳ぶこと。俺が知っているのは、カウンター越しの彼だけだ。
それでも彼女は、毎晩少しずつ訊いてきた。
その夜も、彼女はカウンターの端の暗がりに座っていた。
「あなたは、いろんな飲み物を、いろんな人に薦めている」
「そういう仕事だからな」
「……見ていたわ」
「知ってるよ。視線が痛かったからな」
「それなら、質問」
彼女は少し身を乗り出した。
「彼の好みって、何?」
その質問は、いつか来ると思っていた。
そりゃそうだ。行き倒れの美少女が、恩義がどうのと言いながら、あの男の話ばかり訊きたがる。
目の前の彼女もきっと、彼にお熱なのだろう。
そして、その答えを俺は知っていた。
カウンター越しに何十回も注いできたのだから、知らないはずがない。
問題は、あの男の「いつもの」が高いことだった。
年代物のシングルモルト。グラス一杯で、そのへんの家庭の夕食が三日分は飛ぶ。居候に気安く注ぐ酒ではない。
「教える前に確認だが、聞いてどうする」
「……飲んでみたい」
即答だった。
「彼が好きなものなら、私もきっと好きになれるから」
彼女は当然の手順のようにそう言った。
俺は何も言わず、棚からボトルを下ろした。
「値段は?」
彼女が訊いた。
俺は答えることなく、グラスに注ぐ。
琥珀色が、カウンターの明かりを吸って光った。
彼女は少しの間こちらを見ていたが、やがてカウンターの隅のメニューを引き寄せた。
布の奥の目が、上から順に走って、下の方の段で止まる。
「……高い」
「まあ、気にするな。うちの棚では二番目だ」
そして、その一番高いやつは、あの雨の日の夜に彼女を助けるために開けてしまった。
彼女はグラスを両手で持ち、布の口元をずらして、一口飲んだ。
しばらく、動かなかった。
「……美味しい」
その声の雰囲気が、これまでと違った。
布の隙間から見えた口元が、笑っている。
それは初めて見る顔だった。
いや、顔なんてほとんど見えていないのだが、それでも笑ったのだとわかった。
布越しでもわかるくらい、彼女は笑っていた。
気がついたら、つられてこっちも笑っていた。
しかし、翌日になっても、その翌日になっても、あの男はやってこなかった。
ある晩、営業を終えたあとにテレビをつけたら、報道番組がクローンの話をやっていた。
軍用クローンの人権だとか、運用の闇について。
コメンテーターが深刻な顔で何かを言い、画面が切り替わり、次は要塞都市の天気だった。
あれ、と思った。
(おかしくないか?)
当の脱走クローンは、うちの二階にいるのだ。
あの男の目的が彼女を助けることならば、ここに来れば一件落着ではないのか。
しかし、来店してきた客の噂によれば、あの男はまだどこかで仲間と戦っているらしいのだ。
だとすると、あいつが追っている事件と、うちの居候は、別の話なのか? それじゃあ彼女は、一体——
考えて、やめた。
詮索しない技術で俺はこの店を続けてきたからだ。
だからテレビを消して、寝た。
そうやって、数日が過ぎた。
閉店後の日課は続いていた。
ただ、様子は少しずつ変わっていた。
俺が答えられることが、減っていったのだ。
彼の好みの酒は教えた。
金払いも、礼の言い方も、屋根の跳び方も話した。
しかし、カウンター越しの情報など、そもそも大した量がない。
「彼は甘いものは食べる?」
「知らん」
「休みの日は何を?」
「知らん」
——在庫は、とっくに底をついていた。
かといって、彼女の側にも話すことはなかった。
考えてみれば当然だ。
彼女は軍用のクローンなのだ。
任務と施設と、それから彼。
それが全部で、それ以外がない。
俺が「君は何が好きなんだ」と訊き返したところで、返ってくるのは沈黙だけだろう。
彼のことを訊き尽くしたら、彼女にはもう何も残らないのだ。
その晩、俺は閉店の札を下げてから、カウンターの端の暗がりではなく、店の真ん中あたりを指した。
「今日は客として扱う。好きな席に座れ」
「……どういう風の吹き回し?」
「あの男のことは一旦置いておけ。今日は自分が好きになれるものを、自分で飲んでみたらどうだ、という話だ」
彼女は少しの間、動かなかった。
それから店の中を見回して、窓際のテーブル席を選んだ。
カウンターでも、暗がりでもなかった。
そこは彼女が自分で選んだ、自分の席だった。
座ってから、彼女は言った。
「それなら、あなたのおすすめは?」
あなたのおすすめは、と来たか。
弱ったな、と思った。
店主を何年もやっているが、この質問が一番難しい。
おすすめというのは相手の好みから逆算するものだ。
甘いのが好きか、強いのが好きか、何を食ってきて、どんな夜にしたいのか。
ところが目の前の客ときたら、好みの在庫が空っぽなのである。
逆算のしようがない。
「注文が難しいな、あんたは」
「難しい?」
「おすすめってのは、あんたの好みに合わせて出すもんだ。だが、あんたはその好みをこれから探すところなんだろう。……合わせる先が、まだない」
「では、不可能?」
「そうは言ってない」
俺はしばらく棚を眺めた。
それから、酒ではない瓶に手を伸ばした。
青いシロップの瓶だ。カクテルの色付けに使うやつで、単品で出番はほとんどない。それをグラスの底に沈めて、ソーダで割って、レモンを少し。
出来上がったのは、ひどく青い一杯。
ノンアルコールのブルーキュラソー・ソーダだ。
「これはなに?」
「メニューにはない。ありもので作った」
彼女はグラスを持ち上げて、明かりに透かした。青が揺れて、テーブルの上に淡い色が落ちた。
「……綺麗」
「言っとくが、その青は嘘の色だぞ。天然にこんな色の飲みものはない。人工の着色料だ」
返事をすることなく、彼女は布の口元をずらして一口飲んだ。
それから二口目を飲んで、グラスを置いた。
置いたまま、また明かりに透かした。飲むのと眺めるのを、交互にやった。
マッカランのときとは、飲み方がまるで違った。
「どうだ」
「……わからない」
「わからないか」
「美味しい、とは違う気がする。でも」
彼女はグラスを見たまま言った。「なくなるのが、もったいない」グラスには、あと一口ぶんだけ残っていた。
彼女はそれをしばらく残したまま、しばらく窓の外を眺めたり、じっと色を見つめたりしていて、閉店作業が終わる頃になって、ようやく飲み干した。




