イレギュラー
その音がしたのは、レジを締めている最中だった。
裏口のドアに、何かが激突した。
強盗、という単語が脳裏に一瞬浮かんで、すぐに消えた。
ここ数年、ここら一帯の界隈の治安は劇的に良くなっている。
例の主人公さんが頑張ってくれたおかげだ。
強盗なんて商売は、この街ではとっくに割に合わなくなっている。
(しかし……だとすれば、何だ?)
俺は裏口のドアを、恐る恐る開けた。
外は路地だった。雨が石畳を叩いていて、排水溝が追いつかずに水が溢れかけている。
その路地のドアを開けた反対側の壁面に、誰かが座り込んでいた。
座り込んでいた、というのも正確ではない。
壁にもたれたままずるずると滑り落ちて、そこで止まったというような姿勢だった。
その状態のまま、全く動かない。
女、だと思う。
断言できないのは、全身が真っ黒な布で覆われていたからだ。頭から爪先まで、長い布が何重にも巻かれている。雨を吸って肌に貼りつき、それでもなお、顔の造作も体型もほとんどわからない。
背丈から、たぶん女なんじゃないかと思っただけだ。
布の何箇所かに、血が滲んでいた。
ひどい出血ではない。雨に薄められて、灰色の布に淡く広がっている程度だ。
ただ、滲んでいる場所が一箇所ではなかった。
その隣で、黒猫が鳴いていた。この路地で時々見かける野良のうちの一匹だ。
猫は俺を見て、もう一度鳴いた。
どこからどう見ても、やばい案件だ。
軍か、警察か、少なくとも俺の管轄などではない。
店に戻って通報する。それが正解だ。俺は正解を知っている側の人間だった。
「……関わらないで」
布の奥から、声がした。
「……放っておいて。無視して」
譫言だった。誰に向かっていっているか定かではない、掠れた声だった。
俺は少しの間、雨の音を聞いていた。
それから彼女を抱え上げて、店の中に入れた。
思ったより軽かった。
そのくせ、背中に回した腕に、布の下の何か硬くて長いものが当たった。
杖か、パイプか。詮索はしなかった。詮索しない技術で、俺はこの店を続けてきた。
「どう……して……」
その女の声を無視して、ソファに横たえる。
びしょ濡れの猫も一緒に入ってきた。追い出す気力はなかった。
それで、次に何をすればいいのかがわからなかった。
医者を呼ぶべきなのか。呼んだとして、この状態の何をどう説明するのか。
「関わらないで」と言った人間のために、誰をどこまで関わらせていいのか。
とりあえず、怪我だ。怪我をどうにかした方がいい。それくらいは俺にもわかる。
そう思い至って布を剥がそうとするが、なぜか剥がせない。
雨と血を吸った布は肌にとんでもない力で貼りついていて、引けば肉ごと持っていきそうだ。無理に剥がすのは素人でもまずいとわかる。
かといって濡らしてふやかせばどうにかなるような気もしないし、どこが傷でどこが無事なのか、外からはまるで見えない。
俺があたふたと手を出しかねているうちに、布の奥で彼女が身じろぎした。
「……酒」
掠れた声だった。
「酒が……ほしい」
「今は、それどころじゃ――」
「それだけで……大丈夫だから………………」
少し間があって、付け足すように言った。
「…………お願い」
酒。酒ならある。
この店には、酒しかないと言ってもいい。
俺は棚から度数の高いボトルを掴んで、栓を抜いてグラスも通さずに彼女に渡した。
彼女は布の上から、それを自分の身体にかけた。
呻き声がした。歯の間から漏れるような、痛みを噛み殺す声だった。
それと同時に、布の表面からうっすらと蒸気が立ちのぼった。
酒が蒸発しているのとは違う。もっと細かい、白い霧のようなものが布の目から滲み出ている。
蒸気が収まる頃には、血の滲みが広がるのをやめていた。
呼吸も、さっきより深くなっている。状態が良くなった――ように見えた。
そう思った直後、彼女は持っていたボトルを地面に落として動かなくなった。
一瞬ひやりとしたが、呼吸はある。どうやら、気を失っただけらしい。
俺はソファの前に立ち尽くしたまま、空になった酒瓶を眺めた。
それは、店で一番高い酒だった。
朝になった。
俺は結局、店の椅子を並べてその上で寝た。
自分の部屋は二階にあるのだが、階下に正体不明の他人を置いたまま眠れるほど俺は肝が太くない。
太くないなりに眠ってしまっていたのだから、どうかしていたとは思う。
身体を起こして、まずソファを見た。空だった。
彼女はいなかった。窓の外はもう明るくて、雨は上がっていた。
(あれは、夢だったのか?)
そう思いかけた直後、カウンターの上で黒猫が寝ているのが目に入った。
床には店で一番高い酒の空の酒瓶が転がっている。
しかしそこに彼女はいない。夢にしては、勘定が生々しすぎる。
まあ、出ていったのならそれでいい。むしろ話が早い。
俺は軋む首を回しながら、カウンターの中に戻ろうとした。
風を感じたのは、そのときだった。
ただ空気が動いて、次の瞬間、俺の首の手前に刃があった。
それは軍刀だ。布の下にあった、硬くて長いもの。
詮索しなかったものの正体が、俺の首筋の五センチ横で静止していた。
彼女は店の奥の暗がりに潜んでいて、最初から出ていってなどいなかったのだ。
彼女は軍刀を構えたまま、微動だにしない。
時間が止まったようだった。
こういうとき、あの主人公のような彼なら気の利いた台詞の一つも言えるのだろう。刃を向けられたまま不敵に笑って、場を掌握する類の何かを。
だが凡人の頭は、刃物を前にすると本当に何も出てこない。
それでも何か言わなければと思って、絞り出せたのはこれだった。
「げ……元気になって良かった」
それだけだ。我ながら間の抜けた声だった。
当然、格好良くもないし、まるで決まっていなかった。
布を纏った彼女が、かすかに首を傾げるのがわかった。
いかにも処理に困っている、という傾げ方だ。
そのときだった。カウンターで寝ていたはずの黒猫が床に降りた。
猫は刃物の下を悠々と横切って彼女の足元まで歩いていき、濡れて乾いた布の裾に頭を擦りつけた。
彼女の切っ先が、わずかに揺れた。
そして、その沈黙の中で、腹の鳴る音がした。
俺のではない。
「その……朝飯……食うか?」
軍刀の切っ先が、ゆっくりと下がった。
窓からは朝の光が差し込んでいる。
刃物を挟んで男と女が立っている店内で、猫だけがのんびりと伸びをして、最初から正しい朝を過ごしていた。




