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時間は8時半を超えた頃、出勤ラッシュで人の多い武蔵小杉駅で電車を降りた。この時期の朝はもうやや肌寒いくらいだが、まだコートを出す必要な無い程では無いな。程良い冷気が心地いい。スーツを着ているとこれくらいの季節が一番過ごし易い物なのかなと思う。
意中の人に連絡する為、ジャケットから携帯を取り出した。メモリから相手先の電話番号を表示させる。周りに人が居ない事を確認し、電話をかける。市場はもう少しで開くし、あの人は、もう起きているだろう。
「瑞希さんですか?起きてます?ちょっと今から寄らせていただきたいのですが」
「パードゥン?」
「あの瑞希さん…」
「パードゥン?」
あぁ…。メンドクセー。
「瑞希、ちょっと今日良いですか?」
この人は下の名前を呼び捨てにしないと俺には返事をしてくれないんだった。
「なんだい?今日来てくれるのかい?君に閉ざす扉はうちには無い!いつも通りエントランスについたらインターフォンを鳴らしてくれたまえ!なんなら迎えに行っても良いんだよ?」
声を張り一気に瑞希さんは言い切る。
テンションの高さに慄くが、起きていたみたいだし話を続ける。
「いや、大丈夫。では着いたら鳴らすので、そしたら施錠を解除しておいてください」
「OK、もう着くのかい?」
「いや、今小杉で降りたところだからもう少し。歩いて行きます」
「んー。それなら、できたら少し時間潰してもらえるかな?30分くらい」
「それは構いませんが忙しいのですか?」
迎えに行っても良いって言っていたので、大丈夫だと思ったが間が悪かったか
「いや、君が来てくれると分かったからにはもう少しメイクに気合を」
「いつも通りのナチュラルで良いです!いまさらそんな仲でも無いでしょう」
以前アポイントを取って瑞希さんと会った際1時間待たされて、これから何処へ行くつもりだよって感じに完璧に極められた事があった。まぁ綺麗だったけど。
「君は女心が分かって無い!好きな人の前ではいつだって第一種戦闘配備になるのが女というものだ!」
「もう市場が開く頃でしょ?そこが一番値が動くから重要な時間なんだって言っていたじゃないですか!」
こっちも声を張り言い返す。
お互い子供かとため息をつく。だいたい何だよ?第一種戦闘配備って。
「なら、こんな時間では無くゆっくりできる土日祝日に来てくれれば良いのに…」
市場の閉まる暦上の休みは瑞希さんはオフになる。時々チームの事が突発で入ったりするが基本的にチームの通常業務(情報の吸い上げ)は平日夜に終わるし、それだって毎日入るわけじゃない。
「それについては謝ります。できれば早く瑞希に話を訊きたかったから」
と言うと、少し機嫌を直したのか落ち着いた声に戻る。
「では要望通り、いつもの化粧水と薄いファンデ程度にしとくよ。スッピンは流石に勘弁してね」
別にスッピンでも構いませんよ。と言ったら、女がスッピンで勝負できるのは中学生までだと怒られた。今は高校生でも化粧するのだろうか、高校には通っていなかったのでわからない。取りあえずここは瑞希さんの希望通りにするしかない。こちらの我儘に突き合わせてしまうわけだし。
「では少し時間つぶして行きます。瑞希はもう朝食は食べました?何か買っていきますよ」
「それならロー〇ンでロールケーキとマウ〇トレー〇ア無糖と果物の入ったヨーグルトお願い」
「了解しました。じゃ9時半過ぎくらいに着くよう調整するからよろしくお願いします」
電話を切った。正直あの人との会話は疲れる。もう少し真面目なトーンで会話がしたい。
携帯をジャケットのポケットにしまってすぐメールを受信した。携帯画面を確認する。
桐原瑞希
Sub:もうひとつ願い
本文:小悪魔ag〇haも買ってきて
・・・はいー?
到着した事をインターフォンで伝えオートロックを解除して貰う。エントランスから正面のエレベーターを使い最上階を目指す。いつもここに来るたびにここのマンションの最上階の値段を想像しため息をつく。高層マンションで部屋数も多く一部屋あたりの面積も広い。たぶん俺が今住んでいる慧のマンションより高い。前に宮川浩名義で住んでいた部屋に至っては1Kで六万五千円だったというのに。
瑞希さんの部屋の扉の前に着き扉に手をかける。鍵は空いていたので、そのまま中に入る。
「瑞希、お邪魔します。頼まれた物買ってきましたよ」
瑞希さんがモニターから目を外しこちらを見る。
そしてしばし固まった後に口を開く。
「君のスーツ姿は初めて見た。そんなフォーマルな服装でうちに来たって事はついに良い返事を聞かせてくれるのかい!それならやっぱりこっちもそれなりの準備をしたというのに!」
さっきの電話よりもテンションの高い声を張り上げる。
…違う。
このあとマンションには戻らず会社に行くから着てきただけだと答える。
「そうか。君のスーツ姿はもう少し見ていたかったがしょうがない。本当に口惜しいが、それを脱いでさっさとシャワーを浴びてきたまえ!」
「脱ぎませんし、シャワーも浴びてきません!」
ああ。疲れる。
「えっと…それは着たままでってこと…?」
瑞希さんが恥ずかしそうに顔を赤らめるような仕草をする。
「いい加減そっちの腐れ脳味噌から切り替えてください!」
はぁ…腐女子でスーツ萌えですか。俺はこの人に助言を求めに来たのは間違っていたのかも知れないと本気で思い始めた。
「冗談はこれくらいにして、今君がぶら下げている物をこっちに渡してくれ。いくらだった?払うよ」
と、平静な声で俺が買ってきたものを渡す様に促す。
「いえ、良いですよ。そんな高いものじゃないしおごりで」
と瑞希さんの近くに寄り袋を手渡す。瑞希さんはというと受け取りつつも、スーツ姿の自分から目を離さない。
「瑞希、さっきのは冗談なんだよね?」
「うん。冗談、冗談」
「本当に?」
「ふぃふてぃーふぃふてぃー?」
「勘弁してください…」
「だから、冗談だよ。これありがとう」
と瑞希さんは受け取った袋を軽く持ち上げるジェスチャーをして笑顔をになる。
「いやーさっきも言ったけど君のスーツ姿なんて初めて見たからテンションあがってしまってね。それに君のリアクションが可愛かったからつい調子に乗ってしまった。申し訳ないね」
「今年25になる男に可愛いと言わないでください!」
「そうやってムキになるところも可愛いと思うよ?」
はぁ…勝てない…。話を逸らそう。
「そう言えば瑞希、そんな雑誌読むんだね」
と瑞希さんの持った雑誌『小悪魔ag〇ha』を指さす。表紙の女性の化粧は男の目から見たら正直ケバくて髪型も所謂『盛り』が効いていて凄まじい。今時キャバ嬢でもそこまでしないのではという髪型だ。瑞希さんはというとすっきりした素材を生かしたメイクと背中が半分隠れる黒髪ストレートといった容姿で共通項が無い。
「ああ、これ?馬鹿っぽくて下手な雑誌よりも笑えるよ。チームの皆と、この前読んで大爆笑したものだよ」
瑞希さんの言葉に得心する。笑うのが目的だったのか。
「てっきり瑞希、こんなメイクやるのかと。昇天ペ〇サスMIX盛りとか」
「やるわけ無いだろう」
とあっさり言う。
「こんなに髪を盛ったら、君に髪を撫でられても楽しめないじゃないか。それに本当は私はちょっと癖のある髪質だけど、君の手櫛に絡まないようこうやってストレートかけているんだよ?」
…重い。
「まぁ、君がそれをしてくれたのはあれっきりだけど、気持ち良かったし」
こんなとき男としてなにを言っていいやら。黙るしかない。
「まぁ君が見てみたいならやってもいいんだよ?」
「いえ、そのままでいてください」
話をそらしたら、ますます口を開きにくい話題になる。何だろうこの袋小路。頭を抱えたくなる。
「でも、この髪形も結構前から変えて無いから変えてみようかとも思うんだよね」
「良く似合っていますけど?」
瑞希さんの想定していなかった発言に少し動揺する。
「そう言ってくれるのは嬉しいけどベリーショートとかもやってみたいとも思うんだ」
「今、瑞希の持っている服とか着られなくなっちゃいますよ?」
「確かにね。今の髪型に合わせた服で揃えているからね。でも君がなかなか靡いてくれないから『いめちぇん』でもと」
「しなくていいです。良く似合っていますから」
これは俺の本心。
「でもなんでベリーショートなんです?瑞希、背が高くてスタイル良いからかっこいいとは思いますが」
ここで瑞希さんの顔が意地悪なものに変わる。
「夢妃ちゃんっぽくならない?」
「なんでそこで夢妃の名前がでてくるんですか!」
「君が掛け値無く優しくしていたのって施設の小さな子供しか記憶にないんだよね。夢妃ちゃんとか葵人君とか。浩にーちゃんって懐かれて夜になるとトイレに連れてってあげたり面倒みてあげていたね」
もう本当に勘弁してください・・・
「あれは向こうが勝手に懐いてきただけで」
「同世代の人たちにはあれだけ近づくなオーラ出していたのにね」
私も優しくされたかったなー。と瑞希さんが繋げる。
「分かりました。分かりました。子供は好きです」
「このロリコンが!」
「ちげぇから!」
法廷にいくしかないのか?訴えたら勝てそうな気がする。
「まぁ冗談はそれくらいで、ちょっと話は変わるけどコウは枕草子読んだことある?」
「いえ、中学の教科書で冒頭を読んだぐらいです。春はあけぼのってやつですよね」
なんだろう?いきなり。瑞希さんの話の先が読めない。慧の時はいくらでも読めたのに。
「その中でこういう文があるんだ」
「八つ、九つ、十ばかりなどの男児の、声は幼げにて文読みたる、いとうつくし。 鶏のひなの、足高に、白うをかしげに、 衣短なるさまして、 ひよひよとかしがましう鳴きて、人のしりさきに立ちてありくもをかし。また、親の、共に連れて立ちて走るも、みなうつくし。 かりのこ。瑠璃の壺。」
と瑞希さんはそらで、すらすら読み上げる。
「枕草子の第百五十一段、うつくしきものって文章の一文だよ」
「へぇ。意味は?」
なんか嫌な予感がする。
「うん。現代語訳にするとね」
『八歳・九歳・十歳ぐらいの男の子が,声はまだ幼い感じで漢籍を読んでいるのも,本当にかわいらしい。鶏のひなが,足長で,白くかわいらしい感じで,短い着物を着ているようで,ぴよぴよとやかましく鳴いて人の歩く前後に立って歩き回るのもかわいらしい。また,親鶏が,ひなといっしょに連れ立って走るのも,すべてかわいらしい。雁・鴨などの卵。ガラスの壺もかわいらしい』
「つまり、小さい者はみんな可愛いって事。これが千年前から変わらない日本人の感性だ。だから君の子供を可愛いと思う気持ちはなにも間違って無い」
「…つまり?」
「ロリコンで有る事を恥じるなコウ!」
「死ね!」
前降り長すぎるし、古文の引用なんてそれは先を読めるわけがない。振り返ってみたら話も全然変わって無いじゃないか。




