幸福のありか
涼しい風が肌を撫でた。湿度が全て消えたかのような、乾いた空気だ。柚子と鉄の混ざる香りもすでに消えている。だんだんと収まっていく視界の歪み。すると、瞳の奥に淡い蒼の光が差した。
浴室の灯りじゃない……。
ほのかな違和感。そして目を開いた次の瞬間、視界に飛び込んできた景色は、あの凄惨な浴室とは全く別の……そう、まるで夜の砂漠のような、灰が一面に積もった場所だった。
「ここは……」
立ち尽くす俺の手には、あの浴槽で拾った包丁が握られたままだ。着ている服も一緒。場所だけが異なる今の状況は、俺の体ごとワープしたみたいだった。
足元の灰色は、砂のようにサラサラとしていた。多分、灰であることは間違いない。こんな場所に見覚えなんてない。だけど、なんとなく元凶は分かった気がした。あの山羊の頭蓋骨を被った少女だ。俺の記憶が確かなら、あいつは最後にこう言っていた。
『お前が幸福になれる世界に招待してやるよ』
その言葉通りに推測するなら、ここが俺が幸福になれる世界ってことなのか?いや、有り得ないな。このおかしな世界に瞬間移動したこともそうだが、小春が死んだことも、小春の体から這い出てきたあいつのことも、何もかも現実じゃ説明がつかない事ばっかりだ。ああそうだ。だからつまりこれは、
「夢か」
そう、きっとこれは明晰夢のようなもので、俺は今夢を見てる。それなら納得できないことも納得できる。きっと最初から全部夢だったんだ。この灰色の砂漠も、山羊の頭蓋骨を被った子供も、小春の死も、全ては夢。そうに違いない。最近は仕事続きで疲労が溜まっていたし、いつの間にか寝てしまったんだろう。
「よかった……」
しゃがみ込んで深く息をつく。その時だった、
「そうだな、よかったな。これは現実だよ」
正面から声がした。顔を持ち上げると、視界いっぱいに山羊の頭蓋骨が飛び込んできた。
「おわぁっ!」
バクンッと心臓が跳ねて、尻餅をつく。そこには、山羊の頭蓋骨を被った少女が、上半身を横に折り曲げて立っていた。
垂れる長い白髪。山羊の頭蓋骨の下から覗く暗雲のような灰色の肌。黒いセーラー服を持ち上げ揺れる恐竜のような骨の尻尾は、尾てい骨ら辺か生えているように見える。何よりこの山羊の頭蓋骨だ。下顎のない頭蓋骨から覗く、不気味な笑みには既視感がある。間違いない、あいつだ。
「お前……!」
「久しぶりだな。再会のハグでもするか?」
余裕ある話し方は、自分を別格の存在だと誇示するようにも聞こえた。自分の夢ながら、こいつは得体が知れない。小春が死ぬ光景をまた見せられるのはごめんだ。こんな夢、とっとと終わりにしてやる。
俺は握っていた包丁を、自分の首元に当てる。あとはもう簡単だ。この包丁で首を掻っ切って夢から無理やり抜け出してやる。
「あ……?おい待て!」
「じゃあな」
山羊頭が気づいて制止してくるが、もう遅い。俺は手から離れないように包丁を強く握りしめ、迷いなく自分の首に向けて引いた。だが、
パンッ。
「ッ!?」
手首に衝撃。それと同時に、包丁が後方へ吹き飛んだ。
何が……!?
「おいおい……七織小春も大概だったが、お前も十分イカれているな。夢だと思い込んでいたとしても、人はそう簡単に自決なんてできないはずだろ」
上半身を戻した山羊頭が、骨の尻尾を揺らしながら、呆れ返るように言った。この夢はまだ、俺が起きることを許してはくれないらしい。
「ちくしょうっ!」
俺はたまらず山羊頭に背を向けて灰の上を駆け出した。自傷行為で覚醒しようとしても、あいつがいる限り邪魔される。だったら、離れて舌を噛み切ってやる!
「まったく世話のかかる……。こうなったら身をもって体感してもらう方が早そうだ」
背後から、そんなため息交じりの声が聞こえたのは、きっと気のせいだろう。
「はあ……はあ……」
灰の上はとにかく走りずらかった。抵抗なく足が沈むのはいいが、持ち上げるのが一苦労。靴下なのも相まって、すでに疲労度はマックスだ。
夢だってのに体力があって、肺の痛みまで感じるなんて、まるで現実世界にいるみたいじゃないか。明晰夢なんて初めて見たけど、こんなにしんどいもんなのか……。
2kmくらいは走っただろうか、振り返ると、もうあの山羊頭の姿は見えなくなっていた。
「いや、もう少し離れておこう……いつまた現れて邪魔されるか分かったもんじゃない」
しかし、不気味な景色だ。上空には青色に光る月。少し視線を落とせば、遠くに背の高い峡谷地帯が見える。そして、今いる灰色の砂漠には、あちこちに体の半分まで埋まる、大きな彫刻がある。
その彫刻は翼の生えた修道風の女の像で、両腕を広げて天を仰いでいる奴もいれば、悲観するように顔を覆っている奴もいる。目の前の彫刻に至っては、弧を描いた刃を持つハルパーを片手に、張り裂けんばかりの笑みを浮かべている。
記憶にもないこんな不気味な世界の夢を見るなんて、どうやら俺は相当病んでいるみたいだ。
真っ白なハルパーを撫でながら、そんなことを思う。すると、そのハルパーが突如としてグンッ、と持ち上がった。
「え?」
彫刻が動き出したのだ。彫刻はまるで湯船から上がるかの如く、灰の中に埋もれた下半身を持ち上げる。赤い瞳と目が合った。
「お前……動くのね」
立ち上がった彫刻が持ち上げたハルパーで、蒼い月に影ができる。俺は、ほぼ反射的に横に飛んだ。刹那、真横でドパンッ、と灰の弾けた音が鳴る。回避した安堵も束の間、舞い上がった灰の中、赤い瞳がまた光った。
「そういうのは先に言っとけよ!」
その赤い光に本能的な恐怖を感じた俺は、これが夢だということも忘れて、灰の上を駆け出した。
「キャハハッ!」
不気味な笑い声が背後から響く。振り返れば、彫刻が翼を打って追いかけてきている。
「クソみたいな夢だ!早く覚めろ!」
正面には灰の積もる小さな丘。そこを足を取られながらも登り切った時、俺はふと、冷静になった。
待てよ、逃げる必要なんてあるのか?
ピタリと足が止まる。そうだ、俺はこの夢を終わらせたいんだった。じゃあ逃げる必要なんてない。ちょうどいい化け物が、そこにある。やっとだ、やっと終わる。この夢がやっと終わる!小春に会える!
「そうだ……小春に会わなきゃ。小春のためにまだやらなきゃいけないことが残ってる……!」
振り向いて、両手を広げて彫刻に体を差し出す。
「こいよ、こんな夢終わらせてやる!」
「キャヒャヒャ────ヒャアッ!」
「づっ!?」
ハルパーが胸を斜めに薙ぐ。瞬間、胸にとんでもない熱さが迸った。……なんで?
「が……あああああああああ!!!!」
熱が痛みに変わるのはすぐだった。膝をついて丘のてっぺんで蹲るしかできなくなる。
痛い痛い痛い!なんだこの痛み!これは夢のはずだろ!!終われよ!早く終われ!!
「キャハッ!」
「────ごはっ!!」
脇腹に殴るような重たい痛み。彫刻に蹴り上げられた俺の体は、宙に浮き上がった。ほのかな浮遊感を感じた後、なだらかな丘を転がり落ちる。容赦無く訪れる痛みは、なおも俺の体を駆けずり回っていた。
「ヒューヒュー……ヒュー……」
おかしい絶対におかしい。呼吸が上手くできない……痛みがリアルすぎる。どうして覚醒しない……!夢のはずだろ!
その時、這いつくばった灰の上に、真っ黒なシミが広がっているのに気がついた。
血だ……。誰の?俺のか?そういえば体が寒い。……まさか。
「夢じゃ……ない?」
「だから最初に言ったじゃないか」
蒼い光に影ができた。顔を上げると、山羊頭が俺を見下ろしている。
「や、また会ったな」
「お前……いつの間に……」
「都合の良い夢から覚めた気分はどうだ?清々しい?それとも、怖いか?」
揶揄うように山羊頭が笑う。
嘘だ……。俺は信じない。これは夢だ。今までの全部は夢だ。だって、あの光景が現実なわけないんだ。小春は死んでいない。そうだ……きっと、こいつの腹の中に……。
「いいかげん諦めろ」
「うっ……」
伸ばした手は、山羊頭の足に踏みつけられた。ああ、痛い。
「目を覚ませ秋那、これは夢じゃない。お前はずっと、現実の中にいる」
そいつの言葉は、冷たい水をかけたように脳の熱を急速に冷やしていった。だんだんと理解が追いついてくる。
嫌だ……理解したくない……。冷めるな、覚めるな。起きたらダメだ。理解したらダメだ。逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ……!
「ぐぅぅ……」
だが、記憶に永遠と流れつづける小春の死体は、俺が夢の中を漂うのを許してくれなかった。熱は、完全に冷めていた。
「じゃあ小春は……」
「ああ。七織小春は、もういない」
「────っ!」
小春はもういない。その言葉が頭の中で反響して鳴り止まない。体が硬直する。口の震えが止まらない。何か言おうとしているわけじゃないのに、喉から生暖かい空気が迫り上がってくる。その時だった。
「ヒャアアアア!!」
背後で、耳障りな叫声が鳴り響いた。振り向くことはできない。でも、それが俺の背中を切り裂いた彫刻のものであることはすぐに分かった。
山羊頭もそれに気づいたようで、佇んだまま俺の後方を見上げる。その様子からは一切の動揺は見られない。それどころか軽く舌打ちまでして、圧するように言い放った。
「うるさい」
「ギャッ……」
山羊頭の唸るような言葉。背後で成り損ないの断末魔が聞こえたのは、山羊頭の尻尾が微かに揺れたように見えた直後だった。
生暖かい液体が背中にかかる。すぐ隣からゴトッ、という鈍い音。落ちてきた彫刻の頭と目が合った。
「……ッ!」
「私はクリムト。七織小春との契約に応じ、七織秋那、お前をこの世界に招待させてもらった」
俺を見下ろす山羊頭は自らのことをクリムトと名乗り、そんなことを口にした。
「契約……?」
「七織小春は、私にある願いを口にした」
動けないでいる俺に視線を合わせるように、膝を抱えてしゃがみ込むクリムトは、愉快げな口調で続ける。
「願ったのは、兄である秋那の幸せ。地球ではない別の世界で、お前が幸せに生きることだった」
クリムトの手が、俺の口元に伸びてくる。死人のように冷えた手が触れた。
「つまらない望みだったが、慈悲に溢れる私はその願いを承諾してやった。だからお前はここにいる」
「嘘だ……。小春がそんなこと願う訳ない。そもそも別の世界ってそんなことできるわけ……」
「ああ、もちろんきっちり代償は頂いたさ」
俺の血を拭い舐めとったクリムトは、ギザギザな歯を覗かせ、
「────七織小春の命をな」
そう、不気味に笑った。
「今なんて……?」
「秋那を幸せにする代償に七織小春の命をいただいた。そう言ったんだ」
「……」
聞き間違いじゃなかった……。願いの代償。小春が死んだのは……こいつのせいだったのか……?
「そんな顔するな。当然のことだろ?一人の人生を変えるには、別の一人の人生を犠牲にしなきゃならない。それが等価ってもんだ」
「等価……?等価だって?ふざけんなよお前……俺と小春の命は平等じゃない……!俺は小春に幸せになってもらうための小さな部品だ!交換可能な、取るに足らない歯車だ!だから小春のために学校もやめたし、小春のために働いた!全部小春の人生のためだ!なのに……お前の言い方じゃまるで、小春が俺のために人生を捧げたみたいじゃねぇか!そんなことあってたまるか!」
そうだ、小春には自分のことだけ考えて生きて欲しいんだ。俺のことは都合の良い道具として扱って、踏み躙って、命を命と思わないで、情けないと笑って、素晴らしい人生を歩んでもらいたかった。だから……俺がそれを台無しにしてしまったなんてこと……あっちゃいけないんだ……。
「小春のため小春のためとやかましい……。いいか、教えてやる。彼女の動機は100%秋那だ。秋那のためなら命すら惜しまないほどに、お前を大切に思っていた。これを聞いてもまだ、自分は七織小春の人生の部品だとほざくか?」
「……」
「無視か。しかし、ふふ……あの時は笑ったなぁ。あいつ、自分の命が代償と聞いても、一切の動揺を見せずに頷いてきたんだ。兄妹揃ってイカれてるよ。教育が良いのか?」
「てめぇ……」
こいつだ。こいつのせいで小春は死んだ。この化け物が小春の命を代償に望んでいなければ……!ああ反吐がでる!こいつの思い通りになるくらいならここで────
「舌を噛み切って死ぬ、か?愚かな奴だ、忘れたのか?秋那の幸福を願ったのは私ではなく、七織小春。彼女が命を天秤にかけられてなお望んだ意思を、お前は踏み躙ることになるぞ」
小春の望みを踏み躙ることになる。その言葉で俺は止まった。唐突に、救いだった自殺が許されないものへと変わったのを感じる。ここで死ねば、小春の死が無駄になる。
「それは、嫌だ……」
「なら、すべきことが自殺じゃないことくらい、理解できるだろ?」
「でも……でも分からない……!なんで小春はそうまでして俺の幸せを願ったんだ……?そんな素振り一度も……」
「表にださないだけで彼女はずっと悩んでいたんだ。自分のせいでだんだん弱っていく兄の姿に。兄の人生の重荷になっている自分自身に。だから自らを消す選択をした。分かるか?七織小春は、秋那のことを部品だなんて思っていなかったのさ」
「……っ!?」
小春が……そんなことを……。じゃあ俺のせいで、小春は……。
「違う……そんなつもりで俺は……。小春のためだと思って……」
「お前のその独りよがりな思考こそ、小春が苦しんだ原因だ。だが感謝していいぞ、これ以上苦しむ前に、私が死という救いを与えて解放してやったんだから」
違う違う違う違う。これは独りよがりじゃない。全部小春のためなんだ。小春が俺のために死ぬはずない……。そんなのは小春じゃない……。
「消えかかっていた小春の命で秋那を救う……これぞ命の有効活用……!ああ、なんてエコなんだろうか!良いことをすると言うのは気持ちがいい!」
両手を広げるクリムトの、高らかな笑い声が脳に響いて不愉快に反響する。
……こいつだ。こいつが小春を唆したんだ。そのよく回る舌で、純粋な小春を操って命を奪ったんだ。……許せない。
いつの間にか奥歯噛んでいたらしく、歯が擦れて低く鳴った。同時に、クリムトのため息が落ちる。
「はあ……なあもう良いだろ?いい加減メランコリックは終わりにして、一緒に七織小春の願いを叶えに行こうじゃないか。ほら、私が導いてやる」
項垂れる俺の目の前に、クリムトの手が伸びてくる。
病的に骨ばった灰色の小さい手。俺は導かれるようにその手を握った。その手からは、およそ生き物特有の温かさは感じられない。だが、今のクリムトには、確かに実体があった。
「良い判断だ」
繋いだ手に安心したのか、クリムトの口角が上がる。その瞬間、俺は力一杯にその手を引いた。
「なっ!」
クリムトの動揺した声。腕を引かれ、体勢を崩したクリムトが倒れ込んでくる。そして、俺は目の前の細くくすんだクリムtの喉に、迷いなく噛みついた。
「がっ……!?」
ビクン、とクリムトの体の痙攣が、食い込んだ肉越しに伝わってくる。痛みを感じたのか、はたまた動揺からか、いずれにしろ、もうどうでもいい。ただ今は、小春の命を奪ったこいつを殺せればいい。
「ぎ……ざまぁっ!」
激しく叫んだクリムトに乱暴に突き飛ばされた。視界がグルンと反転する。蒼く薄暗い空が視界いっぱいに広がった。
「は……はははははは……!あ〜まっず!」
仰向けに倒れ込んだ俺は、肉を吐き出して笑う。噛みちぎった喉は、ゴムみたいな食感だった。口の中には、まだ鉄の匂い充満して残っている。
生き物を生きたまま食いちぎるなんて初めてだけど、やっぱ良いもんじゃねぇな。焼かないとダメだ。
「お゛い……ぁにをず……る……!」
血まみれになった喉を押さえ、強く歯を噛むクリムトは、明らかに余裕を失っていた。きっと山羊の頭蓋骨の下では、鬼気迫る様子で俺のことを睨んでることだろう。あー良い気味だ。スカッとした。
「はは、良い顔できんじゃねぇか。小春の願いは、この世界で俺が幸せに生きることだったな。なら、お前の助けなんていらない。先にあの世で小春に土下座でもしとけ」
思いっきり喉を噛みちぎってやった。灰の上に手をついて口から血を吐くクリムトは、見るからに出血多量。もうじき死ぬだろう。
「ひゃ……ははっ……!一切の躊躇なじか!ほんどうに……お前はイガれでる……ガフッ……」
だが、おかしい……。
「だが……わ゛るいな、彼女どの契約は……絶対な゛んだ……」
地面にこぼれ、灰に滲んでいたはずの血が、逆再生するように起き上がるクリムトの体に向かって浮かんでいくように見える。
「何が起こって……」
目を疑った俺は、仰向けになった体を捻り、無理やり腕をついて顔を上げた。
「私はグリムと……七織ごはると契約をかわ゛ず者……。わだじは……」
やがて吹き出した鮮血を全て回収したクリムトは、ゆらりと立ち上がり、俺を見下ろす。
「私は……秋那の意思に関係なく、秋那を幸福にする」
「お前……なんで……」
「私は人とは一線を画す存在。噛み付いたくらいで傷は付かない」
コキっとクリムトが首を鳴らす。傷はもう完全に元通りだ。
あれ……でもなんでだろ……クリムトの姿が、二重に見える……。寒気もしてきた。これ……やばい……かも……。
腕に力が入らなくなって、顔が灰の上に落ちる。
「だんだん痛覚が麻痺して、意識も混濁してきた頃か。死が近いな」
クリムトの言う通り、とうに胸の痛みはなくなっていた。体温が下がっていくのを感じる。体に力が入らない。呼吸も浅い。本当に死が近いのかもしれない。
「怖いな……」
それは死の恐怖というより、小春の人生を幸せにしてやれなかったことへの後悔だった。俺は小春のためにまだ何もしてやれてないのに、このまま死んだら合わせる顔が無い……。
「怖いか、ならとっておきの情報をくれてやる。七織小春は────生きている」
その言葉に俺は耳を疑った。体を起こす体力などとうにない。瞳だけ動かしてクリムトを見る。
「なん……だって」
「この世界で七織小春は生きている。とはいっても、転生という形でだがな。秋那のように地球の頃の体のまま転移させたわけじゃないから、見た目も名も異なる」
「でも、小春はいないって……」
「七織小春という存在は消失したという意味だ」
自然と涙が溢れた。小春が生きている。その事実に俺は心の底から安堵した。
「まじ……か……」
「涙か、やはり人ってのは不思議な生き物だ」
呆れるように言いながら歩み寄ってきたクリムトは、灰に横たわる俺の顔を持ち上げた。山羊の頭蓋骨の闇色の瞳と目が合う。
「さて、七織小春からはすでに代償を受け取っている。これから私は、秋那を幸せしてやらなきゃならない。だから……教えろ。秋那の────幸福のありかを」
俺の幸せ。俺の生きがい。そんなの、聞かれるまでもなかった。地球の頃から変わらない俺だけの幸福、それは────
「小春が幸せに生きてる姿を……一目見たい……」
呼吸が浅くなっていく。ちゃんと言葉を発せたかすら怪しい。だけど、クリムトは満足そうに口角を上げた。
「分かった。それでいこう」
パシュンッ。
またクリムトの尾が揺れた。クリムトの背後に現れた彫刻が、起き上がったと同時に縦に両断され、地に落ちる。
「私のことは、この世界の案内人とでも思っておけ。基本的な知識を授け、たまに助言もしてやるが、従うも従わないも秋那次第、道はお前が選ぶんだ。そのためなら三度だけ、私の力を使わせてやる。それじゃあおやすみ秋那、幸せになろうな」




