Never Happy Ending
花畑が目の前に広がっている。俺は海を臨める家のテラスに座り、暖かい日差しを避けながら妹がはしゃぎ回っている姿に微笑んでいる。
花の甘い香り。涼しい海風。満腹の腹。瞬きがゆっくりな瞼。襟付きの純白のシャツを着る俺とカーテンのように揺れる真っ白な妹のワンピース。
これが俺の思う幸福な景色。この二人だけの世界には、頭で念じるだけでいつでも潜ることができる。ただし潜りすぎれば、
「おい秋那ぁ!手ぇ動かせ!!」
「づっ……!」
こんな風に後頭部を殴られて弁当が並ぶレーンに顔を打ちつけることになってしまう。
「たくっ、使えねぇにも程があんだろ。中卒のテメェを雇ってやったのは誰だと思ってんだ?真面目に働け」
「じゃあ休みをくださいよ。何連勤目だと思ってるんだ」
「ああ!?」
持ち上げた顔をまたレーンの上に押さえつけられる。ひんやりとした金属が傷口に当たって
「秋那ぁ……テメェもう一度言ってみろや。このまま働けなくしてやってもいいんだぞおい」
「……すみませんでした」
「チッ」
頭を押さえつけていた太い手が離れる。上司の乱暴な足取りは、そのまま遠ざかっていった。
「35連勤目だっつの」
俺の名前は七織秋那。田舎の弁当工場で働く17歳だ。本来は高校に通う歳だが、訳あって中学を卒業してすぐに、このクソッタレな職場に身を置いている。
朝早くから夜遅くまで工場のレーンを流れる弁当に米を盛り付ける日々。正直頭がおかしくなりそうだ。限界だって何度思ったことか。それでも俺は辞められない理由があった。
家に帰ったのは21時ごろだった。夕飯用のカップ麺が一つ入ったレジ袋をぶら下げ、玄関を開ける。築三十年の木造アパート。間取りは1k。狭い廊下に靴を脱いで上がると、ギシッと不安になる音が鳴る。
奥の部屋には、ちゃぶ台の上に教科書とノートを広げて勉強をする少女がいた。少女はこちらに気づくと、ふっと柔和な笑みを浮かべた。
「お帰りなさい。お兄ちゃん」
「ただいま。小春」
瑞々しい黒のセーラー服に身を包み、宇宙色の長髪を揺らしてこちらを見上げるこの少女は七織小春。俺の妹だ。
端正な顔立ちで、凛とした顔には少し幼さが残るものの、日本人形のような美しさがある。対して、兄の俺はというと特徴もない平々凡々な顔。連れ子の義兄妹とはいえここまで落差があると中々に凹むものがある。
「今日もお疲れ様です」
「ありがと。夕飯は食ったか?」
「ダイエット中なので小春はいりません」
小春の言葉はすぐに嘘だと分かった。カリカリに痩せた小春の体に、落とす肉などないのだから。常にギリギリな家計を気遣ってくれたのだろう。
だが、兄である俺としては、小春にそんな我慢はしてほしくはない。
「そう言うなよ。ほら、これ」
小春の横に腰を下ろして、小春のために買ったカップ麺が入ったレジ袋を持ち上げる。
「小春の好きなカレー味だ。蓋を開けていないのにもう美味そうな匂いがしてきた気がしないか?う〜む」
目を閉じて、わざとらしく鼻で大きく空気を吸い込んでみせると、目を丸くしていた小春がクスッ、と小さく笑った。
「ふふ、確かにそんな気もしますね。でも小春は大丈夫です。仕事で疲れているお兄ちゃんが食べてください」
目を細め、なんとも優しい顔で遠慮する小春。その姿は、怒りに任せて上司に突っかかる俺よりもずっと大人に見える。だが、15歳がしていい笑顔にも思えなかった。やるせ無い気持ちを抱えながら努めて無邪気な笑顔を返す。
「じゃあ半分こにしようか」
「半分ですか」
「そ、今日もお互い頑張ったんだし二人で乾杯するんだ」
「じゃあ……そうしましょうか」
呆けた顔をしていた小春だが、最後には少し呆れ気味に折れてくれた。台所のやかんに水道水を注いで温める。
「それで、勉強の方はどうだ?」
小春は来年の冬に高校受験を控えている。彼女自身は中学を卒業した後は俺のように働くつもりだったらしいのだが、俺が大学まで行ってほしい意思を何度も伝えてようやく頷いてくれた。俺が毎日休むことなく働いているのはそういった理由からだ。
「それがここの問題で行き詰まっていて……」
「どれどれ」
小春が数学の問題を指した。中学の範囲までなら俺でも分かるので、小春に分からない問題があるときは時々教えてやっている。
その時、洗面所のドアがバタンと乱暴に開かれた。ぬうっと影から現れたのは、すっかり光を失った血色のドレス姿の義母だった。ケバケバしい化粧の顔がギョロっとこちらに向く。俺は反射的に手元のノートと教科書を隠した。
「お前、また小春に勉強教えてんの」
「……まあ」
俺がそう答えると、義母は深いため息をついた。
「やめてよね。高校も出てないバカが私の小春に物を教えられるわけないでしょ。あんたはあのクズが作った借金を返すために黙って働いていればいいのよ」
低い舌打ちが鳴る。
義母の言うあいつとは小春の義父であり、俺の実父だ。二年前に再婚し、そして一年前、借金を大量に抱えた末に薬物中毒の禁断症状で自殺した。
借金は義母が背負うことになり、そのせいで義母は実子である俺をずっと目の敵にしている。この扱いにも、もう慣れたものだ。
「義母さんは仕事?」
「分かりきってること聞かないでよ。どれだけ借金抱えてると思ってんの。ああもう、本当、再婚なんてしなきゃよかった。とんだお荷物残していきやがってクソクソクソクソ」
義母はボロボロになった手の爪をガジガジと噛んで忌々しそうに顔を歪めている。
「……」
「何黙ってんのよ。お荷物ってのには、あんたも入ってんだからね。言っとくけどあんたは一生幸せになっちゃダメだから。どんな人間と関わっても、どれだけ努力をしても、どんな世界に行っても、絶対に邪魔してやる!」
「分かってるよ」
これは義母が俺にかける呪いだ。
自分よりも幸せになるんじゃない。必ず不幸にしてやる。死んでしまえ。父が借金を抱えて死んだあの日から、そんな呪いを浴びせられ続けている。
「チッ、なんで私がこんな思いしなきゃいけないのよ!死ね全員死ね!」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい……」
玄関に向かう母の背中を、俺と小春は見送った。そしてバタンと玄関が閉まったのと同時に、ピーッというやかんの音が狭い木造の部屋に鳴り響いた。
「いつまた癇癪起こすか分からない。次勉強するときは母さんが仕事に行ってからにしよう」
カップ麺を持って立ち上がり、コンロの火を止めて、お湯を注ぐ。
母は夜の店で働いていて毎日遅い時間に家を出ていく。帰ってくるのは俺が仕事に行った後なので会話もほとんど交わさない。でも、呪いだけは毎日欠かさずかけてくるのだ。まるで途切れさせれば、その効果がなくなってしまうかのように。
お湯を入れたカップ麺をちゃぶ台まで持っていって、小春の隣に座る。
「小春?」
違和感を感じたのは、いつも母さんに怯えた態度をとっていた小春が、どういうわけかぼーっと黄ばんだ正面の壁を見つめて念仏のようにぶつぶつと何か話していたからだ。
「大丈夫か?」
「お兄ちゃん。先にお風呂に入ってきてもいいですか?」
俺が顔を覗き込むと、小春は顔を動かさないままにそう言った。
「え、もうお湯入れちゃったんだけど」
「全部食べていいですよ。もういらなくなったので」
「どういうことだ?」
俺が首を傾げるのを無視して、小春はすくっと立ち上がり、台所まで歩いていったかと思うと、包丁と冷蔵庫から柚子が何個か入ったネットを取り出した。
「柚子なんて買ってたのか」
「お兄ちゃんからのお小遣いで。これは全部柚子湯にしようと思います」
「柚子湯……」
まあ季節的には合っているし、自分の小遣いで買ったものだからとやかくは言わないが、珍しいな。
「包丁まで風呂場に持っていくのか?」
「はい必要なので」
小春は、柚子の入ったネットと一緒に包丁を持って洗面所のドアを開けた。風呂場で柚子をカットする気なのだろうか。
「ま、いいか」
その時の俺は、普段とは違う行動を珍しいと思いながらも、特に考えることもなくカップ麺を啜っていた。
一時間ほど経っただろうか。小春はまだ出てこなかった。それどころか、一度もシャワーの音が聞こえてこない。これ以上はのぼせてしまう思い、一声るために立ち上がって洗面所のドアを開ける。浴室のドアの奥は明かりが付いていた。
「そろそろのぼせるぞ」
だが返事が返ってこない。コンコンと浴室のドアを叩く。
「小春?寝てるのか?」
その時、浴室のドアの下から赤い液体が滲んできているのに気がついた。ゾクっと背筋に悪寒が奔る。俺は急いでドアを開け放った。
「小春!!」
途端、柚子の香りに混じって鉄の香りがふわりと鼻を通った。水色のタイルの壁が囲む浴室。水垢がついた正面の鏡には、ドアに滲んでいたものと同じ赤い液体がびっしりと付着していた。
浴槽に目を移すと、小春がいた。四等分にされた柚子がいくつも浮かんだ真っ赤なお湯の中、まるで棺桶に横たわるように目を閉じる小春が。
「小春!!」
信じられない気持ちで湯に手を突っ込み、小春の体を持ち上げる。お湯で温かくなった皮膚の下から伝わる体の冷たさ。小春の体はとても軽くなっていた。
小春を床のタイルに下ろすと、腹が縦に裂けていた。
まさか、この赤い液体は血……!?自分で、自分でやったのか!?有り得ないだろ有り得ない……一体何が……。
「うっ……おげぇぇ」
腹から熱いものが込み上げてきて排水溝にそれを吐いた。ずっと何が起こっているのか分からないままだ。
「小春……何でだ……俺が絶対に幸せにしてやるって、そう誓ったのに。どうしてこんなこと……」
「代償は受け取ったぞイラヴェチカ────願いを聞き入れよう」
どこからか声が聞こえた。まさか自分から出た声かと信じられない気持ちになったが、違った。
切り開かれた小春の腹。そこから羊の頭の骨がぬるっと顔を出したのだ。
「は……?」
「よいしょ」
そいつは、白い手袋をした手で小春の腹から這い出てきた。小春と同じ背丈で、小春と同じ黒いセーラー服を身に纏い、小春の体の上に立ち上がると、スッと羊の頭をこちらに向けて静かに言った。
「よお七織秋那。この世界に生きるお前は幸福か?」
「は……?」
「この世界で生きていて、お前は幸福になれるのか?」
そいつは小春の腹から降りて、ヒタヒタと俺に近づいてくる。
「何……言って……」
「なれない。少なくとも、こいつはそう断言していた」
まるで小春がそう話したかのように、そいつは小春の体を一瞥して笑った。
こいつは何か知っている。理解の及ばない脳みそで、それだけは理解できた。腹の底が熱で満たされていく。
「断言していただと……?そもそもお前は誰なんだ……小春をどこへやった!」
「そう怒鳴るな。全ては契約を果たすため。イラヴェチカの願いを叶えるために、私は今ここにいる」
「イラヴェチカ?何だそれは!答えろ!俺の質問に答えろ化け物!!」
だが、そいつは俺の問いには答えず、大きく両手を広げた。
「ヒヒッ、それじゃあ行こうか。お前が幸福になれる世界に────招待してやるよ」
その言葉と同時、視界が渦巻いて歪んでいき、俺の身体は地球を置いてけぼりにした。




