Phobos
ポタッ……。
頬に冷たいものが触れる。その感覚で、深く沈んでいた俺の意識は引っ張られた。
「づっ……!」
薄く目を開いたところで、頭に刺すような痛みが奔った。おかげで、微睡んでいた頭が完全に覚醒する。なんだか景色が薄暗い。
ほのかな疑念を抱えたまま辺りを見回すと、乳白色の石で造られたコロッセオのような建物の中に俺はいるようだった。ところどころ壁が崩れたりひび割れたりしていて、かなりの年月放置されているように思える。
「どこだここ……」
体を起こしながら、寝ていた経緯を思い出す。
確か幻想空間から出るために鏡の中を通って……ああ、そこからの記憶がない。てなると、俺がここにいるのは、あの鏡が原因だと考えるのが自然か?ワープみたいな芸当ができるようだったし十分あり得る。
「クリムト」
「いるぞ」
隣から声がして、そちらを向くと、虚空からクリムトがひょいと降り立ってきた。
「何が起こった?」
「秋那の予測通り、原因はあの鏡だろうな。大方、秋那の嘘がバレて、正体を暴くために連れてこられたんだろう」
「知らぬ存ぜぬで当分はやり過ごせるって話は?」
「……言ってない
「言ってた」
「……」
半眼で睨む俺の視線を回避するように、クリムトは遠くを眺める。
「子供かよ……」
そういえば先に通ったレフィとシャルも来ているんだろうか。うーん……いや、多分ないな。これが俺の正体を暴くための罠なら、レフィとシャルがここにワープする理由はない。つまり助けは望めないってわけだな。
「出口を探すしかないか」
コツン。
足首に軽い痛み。見ると、クリムトが俺の足首を執拗に蹴り続けている。
「……クリムトさん?」
「なんだ」
「出口まで案内することってできます?」
「やだ」
「なんで怒ってらっしゃる?」
「怒ってない」
コツンコツンコツン。
怒ってんじゃねぇかよ。
昔小春を怒らせた姿と重なるその姿に呆れているとクリムトが小声で、
「子供って言ったこと謝れ」
そう言った。
「はあ?」
「子供って言ったことを謝れと言っている!」
「……」
めっちゃ子供じゃん。
「悪かったよ、もう言わない。これでいいか?」
「私はお前より大人か?」
「……ああ」
「ヒヒッ、よし。そうだ私は大人で年長だ。余裕を見せなきゃならない。手を貸してやろう!」
ぴたりと蹴るのをやめたクリムトは、唐突にやる気を出して胸を張った。こいつ、意外に扱いやすいのかもしれない。
「先に言っておくが、おそらく出口はないぞ。見ろ」
クリムトがクイっと顎を上に向ける。つられて俺も見上げてみると、垂れ下がった鍾乳石で覆われた天井があった。暗さの原因はこれか。
「ここは現実の空間とは切り離された幻想空間。天井、床、壁、全てが鍾乳石で覆われ密閉されている。脱出する方法は一つしかない」
「方法って?」
「トラップを仕掛けた者の解除だ。そいつが納得するまでこっからは出られないだろうな」
「ってことは……まさか俺の疑いが晴れるまでずっとここに閉じ込められたままか!?」
それはまずい。これじゃ記憶喪失だと言い張ることもできない……。
「そう慌てるな。大体こういうのはお約束があるものだ。たとえばそう、ボスを倒すとかな」
歩き出したクリムトの背中を追いかける。
「ボスって……もしそんなのが出てきても俺じゃ無理だぞ。倒せっこない」
「倒せるさ。くだらない意地を捨てて私の力を使えばいい。簡単なことだろ?」
振り向いたクリムトは、さも当然のように言い放った。
「……ねぇな。それだけはねぇ」
小春の命を弄ぶこいつと行動を共にしているだけでも反吐が出るのに、力を使うなんて無理だ。体を乗っ取られでもしたら取り返しがつかない。
だが、そんな俺の答えを予想していたように無言で前を向いたクリムトは、ポツリと静かにこぼした。
「思ったんだが……秋那は意外と小心者だよな」
「あ?」
「秋那が本当に妹を助けたいのなら、するべき行動は一つ。悪魔に魂を売ってでも必ず助けることだ。でも、実際のお前はリスクを嫌って安全で確実なマスを進もうとしている。もっとイカれたやつだと思っていただけに、少しガッカリだ」
諭すわけでもなく、怒るわけでもなく、思いをただ吐き出すように抑揚なくクリムトは言った。
こいつに失望されんのはどうでもいい。でも、分かったような口をきかれるのは癪だった。
「お前の思いなんて知るか。俺は俺のやり方で小春を救う。小春のことを一番知っていて、小春のことを一番考えてるのは俺だ」
「小春の思いを知ることはなかったのにか?」
「……っ!とにかく、お前の力は使わない!俺一人で────────」
それは言い終わる直前に起こった。右半身に、車にでもぶつかったのかと思うほどの衝撃が走ったのだ。そしてそれを感じた頃にはもう、俺の体は宙に浮いていた。
「────ガハッ!」
何かに吹き飛ばされた体が、勢いよく壁に打ち付けられる。老朽化したコロッセオの壁が石片となって落ちてくる。
「な……にが……」
ぼやける視界。その中で微かに見えたのは、上半身が女の胴体、下半身が蜘蛛の三メートルほどの大きな影だった。
まさかあれがボス……?ふざけんな、勝てるわけ……。
右半身は骨も肉も逝かれてる。しかも多分、肺に骨がぶっ刺さってる。呼吸すら、ままならない。
「アアァァ……」
まるで死体のように脱力しきった上半身がこちらを向く。そのハイライトのない瞳に射抜かれた瞬間、俺は汚染域で彫刻に睨まれた時と同じ感情に支配された。
怖い……怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!
見上げるほど大きい巨体。自分の身に降りかかる暴力の気配。その全てが、心臓のもっと深い奥底から拒否反応となって警鐘を鳴らしている。
逃げなきゃ。でもどうやって?無理だ。怖い。逃げられない。嫌だ。小春を助けなきゃ。罪滅ぼしができてない。生きなきゃ生きなきゃ生きなきゃ生きなきゃ……!
「ぐ……グリムと、力を貸」
「アアッ!」
ズドッ────。
「────っ」
刹那、異物感が腹の中で満ちる。蜘蛛の脚が腹を貫いたんだと理解するのは、自分の体を見下ろした瞬間だった。
「ガフっ……あ……ああ……」
血が口から際限なく吹き出してくる。
震えが止まらない。思考が断続的に途切れてその感覚がだんだんと長くなる。視界が────暗い。
「力を貸せか。散々拒絶していたのに死に瀕した途端にこれとは……。お前は一度、自分の望みを見つめ直せ。私への願いは変えられないが、道筋は変えられる」
意識が途切れる最中、クリムトのそんな声が聞こえた気がした。




