psychose
ひやりとした手が額に触れた気がした。小春の手とは違う、細く長い大人の手の感触だった。
深く沈んだ意識を引き上げられた秋那は、その慣れない感触に目を開ける。そこには、整った顔立ちの白衣姿の女がいた。縁のない眼鏡の奥にある、切れ長の瞳は秋那を見下ろしている。膝枕の体勢だ。
「誰すか」
見覚えのない人物が自分を膝枕していることに疑問を覚えた秋那の問いに、白衣の女は目にかかった苔色の長い前髪を上げて微笑んだ。
「おはよう。体調はど?」
しなやかに伸びた長髪。眼鏡から覗く理知的で優しげな瞳と涙ぼくろ。芸能人顔負けの美形を持つその白衣の女からは大人な雰囲気が漂っている。
「どう見えます?」
「すごく良さそうに見える」
「んじゃそれで」
しかし未だ、秋那は状況を掴めずにいた。
この人は医者か?てゆうか俺、なんで寝てんの。ここは一体……。
不安に駆られながら白衣の女から視線を外し辺りを見渡すと、そこは西洋風のホテルの一室みたいな場所だった。教室くらいの大きさで、白黒の格子状のタイルにキングサイズのベッド、背の高いタンス、暖炉、そして秋那が今膝枕されているフカフカのソファが配置されている。
日本にしては趣味の悪い部屋。そこはとても病室には見えなかった。
その時、開け放たれた部屋の窓から心地のいいそよ風が吹いた。揺れるカーテンに透ける陽光は、今が昼間だと示している。
「やば遅刻っ!」
「あ、急に起き上がると傷口が────」
「づっ────!」
秋那が何かに駆られて白衣の女の膝から立ち上がった時だった。左脇腹の部分に激しい痛みが走った。
あまりの激痛に立っていられなくなった秋那が膝をつく。そして何事かとボタンが外されたシャツの下を見ると、腹の部分に包帯が巻かれ、そこには血が滲んでいた。
「んだ……これ……」
「もー動いちゃダメじゃない。お腹に穴空いてたのよ、君」
歩み寄って秋那の背中をさする白衣の女は、呆れ半分にそんなことを口にした。
腹に穴……?なんでそんなことに……。
「こんなことしてる場合じゃない……仕事……仕事に遅れる……」
「仕事って……」
「邪魔するぞ」
その声は扉の方から聞こえた。開かれた扉、そこから出てきたのは、赤い髪を高めに結った額にツノの生えた女だった。
現実では有り得ない相貌、だが秋那はそれを見ても不思議と驚くことはなかった。それどころか、既視感すら覚えていた。
俺はこの女をどこかで見た気がする。
「……起きたか。体調は?」
床に手をついて腹を押さえる秋那に気づいたその女は、静かに言った。まるで何かを知っているような言い草に秋那は苛立ちを募らせる。
「次から次へと……誰だよお前ら、さっきからうるせぇな……。こっちはやらなきゃならないことあんだよ……」
腕をついて激痛に耐えながら扉へにじり寄る秋那。それはまるで、何かに囚われ続ける亡霊のようだった。
その様子にツノの女は首を傾げて白衣の女に問いかける。
「……これはどういう状態だメイゼ」
「覚醒したばかりで記憶が混濁してるのよ。ほら、落ち着いて!」
「触んな!」
再び止めようとした白衣の女の腕を秋那は振り払う。そして口から血を吐きながら、荒い呼吸で叫ぶ。
「一体なんなんだお前ら!この傷はお前らがやったのか!?どうしてくれんだよ!これじゃ……これじゃ働けない!部品になれない!」
「ぶ、部品?」
「アキナお前、どこまで覚えてる?」
それはツノの女が問いかけた。必死の形相で扉に向かう秋那は、ふいに呼ばれた自分の名前に驚愕し、ツノの女を見上げる。見覚えのある、そのツノの女を。
「あ?なんでお前が俺の名前知って……あ……」
秋那の嗚咽にも似た声が水滴のように静かに落ちる。そこで、秋那は思い出した。小春の死を、この世界に来た理由を、汚染域のとこを、助けてくれた仲間を、そして、秋那が殺されかけた、あの時の光景を。
「あ……ああ……あああああああああああああああああああああああああああ!!!」
思い出した。全部、全部!俺は、俺は……そうだ、俺はあのバケモンに殺されかけた!人間かも蜘蛛かもわかんねぇあの怪物に腹を腹を……!!
「何事ですかこの声は!?」
「アキナが起きたのか!?」
秋那の絶叫を聞きつけたヴィルとヒーニアが部屋に飛び込んでくる。しかし、秋那はそれに気づかないまま、頭を抱えてうずくまり叫び続けていた。
その様子を見て、秋那のそばで座り込む白衣の女は説明口調でバーゼリアに言う。
「死に際の記憶が戻って強いショックを受けてるみたい。それと、見せてもらった映像通り、この子には精神的疾患があるわ。まず、出自など汚染域で倒れていたまでの『記憶喪失』。一人なのに、まるで誰かが見えているかのように振る舞う『幻視』。それと……たった今『トラウマ』もプラスされた」
「そうか……。”あっち”の方はどうだった?」
「白よ。この子の体は正真正銘人間。バーゼちゃんが懸念していた、幻血獣の特徴は皆無だった」
「分かった」
頷いた、バーゼリアがしゃがみ込んで秋那の肩に優しく触れる。
「秋那」
「はあはあはあはあはあ……」
「私の話を聞いてくれ秋那。すまなかった。私はお前のことを信じきれず、自分の勘だけで危険な場所に放り込んでしまった。浄化司教である前に人間として許されないことをしたと思ってる。本当に申し訳ない」
「嫌だ。嫌だ。もうこんな世界嫌だ。怖い怖い怖い怖い!!」
だがもはやバーゼリアの声は、秋那には届かなかった。
「……今はやめておきましょう」
「……ああ」
白衣の女は立ち上がり、バーゼリアと部屋から出る。そして、残されたヒーニアとヴィルも、トラウマに苛まれ続ける秋那に後ろ髪を引かれながら背を向ける。
「行くぞ。今は、一人にしてやった方がいい」
「秋那……」
「ぐぅぅぅぅ……」




