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俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜  作者: はるくぼ
2年生・春「同じままで」

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98食目 芽吹き、閉じる

 放課後のグラウンドは、夕暮れ前の熱をまだ色濃く残していた。


 ミニゲームを終えた選手たちが給水へ散り、ピッチにはスパイクの擦れる音とボールを片付ける乾いた音だけが残る。空になりかけたベンチ脇で、蓮はボトルの水を喉へ流し込みながら、昨日から胸の奥に置き続けていた結論をもう一度なぞっていた。


 焦る必要はない。

 だが、止まったままでもいられない。


 もっと知る。

 もっと知った上で、自分の意思で動く。


 それが今の最適解だった。


「桐生さん」


 呼びかけると、タオルを肩へ掛けた桐生がこちらを向く。


「ん?」


 蓮は数秒だけ言葉を選んだ。


「……椿のこと、もっと知ろうと思います」


 桐生の表情はほとんど動かなかった。

 ただ、その視線だけが少し柔らかくなる。


「そうかよ」


 返ってきたのは、それだけだった。


 理由は聞かない。

 茶化しもしない。

 余計な助言も挟まない。


 その短さが逆に、蓮には心地よかった。


「なら、ちゃんと見てやれよ」


 その一言だけが、夕方の風に乗って残った。


 帰宅後、玄関の扉を開けた瞬間、いつもの音が耳へ入る。


 ――トントン。


 包丁がまな板を叩く音。

 換気扇の低い駆動音。

 煮立つ鍋の小さな泡立ち。

 出汁の香り。


 リビングへ足を踏み入れた蓮は、そこで立ち止まった。


 キッチンに立つ椿の背中。


 エプロンの紐を腰の後ろで結び、髪を軽くまとめている。

 左手で鍋の蓋を少し持ち上げて蒸気を逃がしながら、右手ではフライパンの火加減を細かく調整していた。


 その動きに、一切の無駄がない。


 包丁を置く位置。

 調味料へ手を伸ばす角度。

 盛り付けへ移るまでの間。


 何度も見てきたはずの一連の流れが、今日はやけに鮮明に目へ入ってくる。


「……」


 蓮は何も言わず、その姿を見ていた。


 普段通りに食事を整え、自分の明日を支えている姿。

 その横顔を見た瞬間、別の光景が自然に重なる。


 熱で頬を赤く染め、ベッドへ沈んだ椿。

 額へ触れた時の高い体温。

 呼吸の浅さ。

 服の裾を掴んだ小さな指。


 あの夜、自分が部屋を出ようとした瞬間、引き止めるように僅かな力で布を掴まれた感触が、まだ残っている気がした。


 蓮は、ふと椿の手元に目が向いた。

 握られているフライパンは、去年の夏に一緒に買いに行ったもの。


 機能や材質を語る時だけ、普段より少し早くなる口調。

 店頭の鍋を見て、珍しく表情を崩していた笑顔。


 あの時、料理の話をしている椿は、競技を語る自分に少し似ていた。

 好きなものを語る時の熱。

 その熱量に、知らないうちに視線を奪われていた。


 そして、なにより鮮明に浮かぶのは、怪我をしたあの時。


 テーピングを巻くときに、まるで大切なものを扱うように触れてきた手。

 まるで自分のことのように苦しそうに、泣いていた姿。

 それでも次の瞬間には、回復のための行動を起こしていた。


 ——ちゃんと見てあげて


 あの時、病院で陽菜に言われた言葉。

 自分は、橘椿という、一人の女の子を見ていたのだろうか。

 管理士という、役割越しでだけ見ていなかっただろうか。


 思考は巡り、ドイツでの会話を思い返す。


 ——他の誰かに譲る気はない


 果たしてあれは、管理士として見ていただけだったのだろうか。

 あの時には、もう始まっていたのかもしれない。

 もしかすると、そのもっと前から。


「蓮くん?」


 椿が振り返る。


「……どうしたの?」


「ああ、いや」


 短く返しながらも、蓮は視線を逸らさなかった。

 椿は少しだけ不思議そうに首を傾げたが、すぐに食卓へ皿を並べ始める。


 食事の準備が終わり、二人は向かい合って席へ着いた。


「いただきます」


 いつもの声。

 いつもの食卓。


 だが今日は、すべてが少しだけ違って見えた。

 蓮は箸を取り、最初の一口を口へ運ぶ。


 温度。

 塩分。

 出汁の広がり。


 身体へ自然に落ちていく感覚。

 満たされる感覚。


 料理そのものだけではない。


 この空間。

 この時間。

 目の前に椿がいること。


 そのすべてが、胸の奥を静かに満たしていく。


 そう思った次の瞬間には、言葉が思わず口を突いて出た。

 ここ数日で見慣れた、あの言葉が。


「……好きだ」


 静かな食卓に、その一言だけが落ちる。

 椿の手が一瞬止まった。


「……え?」


 だが次の瞬間、小さく首を傾げる。


「今日の味付け?いつもとそんなに変えてないけど……」


 その反応に、蓮の思考が一拍だけ止まる。


 だが、すぐに理解する。

 今口を突いて出た言葉は、料理に向けたものではない。


 蓮は静かに箸を置いた。


 カチャ、と静かな食卓に小さな音が響く。

 その音に、椿の視線がこちらへ向いた。


「違う」


「……え?」


 蓮は真正面から椿を見る。

 もう逸らさない。


 ここまで見て、整理してきた。


 それでもなお残り続けた感情。

 それにはもう、名前が与えられている。


「料理じゃない」


 椿の手が止まる。

 蓮は続ける。


「俺は」


 胸の奥の熱が、そのまま言葉になる。


「椿が、好きだ」


 食卓の空気が止まった。

 換気扇の低い音だけが、やけに遠く聞こえる。


 椿の目が大きく見開かれる。

 箸を持ったまま、完全に動きを止めていた。


 蓮は視線を逸らさない。


 サッカーのように正解が見えるわけではない。

 それでも今、この言葉だけは間違っていないと確信できた。


 今日知ろうと決意したものすべてが、この一言へ繋がっていた。


 食卓の上に立ち上る湯気の向こうで、椿の唇がわずかに震える。

 その返答を待つ時間だけが、やけに長く感じられた。


 やがて椿が口を開く。


 ——寂しそうに、どこか申し訳なさそうに。


「……ごめんなさい」


 食卓に、いつもと違う静寂が流れた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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