99食目 実り開く
「……ごめんなさい」
その一言を口にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
言いたかったのは、そんな言葉じゃない。
嬉しかった。
とても、嬉しかった。
食卓の向こうから、真正面に想いをぶつけてくれたこと。
自分を管理士でも隣人でもなく、一人の女の子として見てくれていたこと。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
それでも、ここで頷いてはいけない。
彼は、もっと先へ行く人だから。
全国だけじゃない。
その先の、もっと高い舞台。
きっと自分の想像より、ずっと遠くまで届いてしまう人だ。
だからこそ、この気持ちで足を止めさせたくない。
椿は箸を持つ手に力を込めながら、もう一度視線を上げた。
「嫌、とかじゃないの」
声が少し震える。
「私も……嬉しい」
そこまで言って、唇が止まる。
言えば全部崩れる。
ここで気持ちを認めてしまう方が、遥かに楽だった。
それでも、逃げずに言葉を重ねる。
「でも、私は……
私は、蓮くんの邪魔になりたくないの」
その言葉を落とした瞬間、蓮の表情が止まった。
静かな食卓の空気が、わずかに変わる。
「……邪魔?」
低い声に、心臓が強く跳ねた。
椿は小さく頷く。
「あなたは、もっと先へ行く人よ」
インターハイ。
その先のクラブ。
いずれは世界。
その未来に、自分の感情が余計な重さになることだけは嫌だった。
「私は、ただ食事で支える立場でいたいの」
それがずっと、自分の答えだった。
けれど次の瞬間、蓮の声が静かに返ってくる。
どこか的を得ない、そんな回答。
「今年のバレンタイン、俺は告白された」
「……え?」
胸の奥に、ズキンとした痛みが生じる。
こんな感情を持ってしまうことさえ嫌だった。
「断ったんだが、その時の彼女の言葉は鮮明に覚えている。
彼女はこう言ったんだ、邪魔をしないからって」
返す言葉が出てこない。
蓮はそのまま続ける。
「今の椿と似たようで違う言葉だ。邪魔をしない、邪魔をしたくない……」
蓮の目は、真っ直ぐこちらを向いて離れない。
逸したいのに、どんどん引き込まれていくような感覚。
だがな、と蓮は言葉を紡ぐ。
「俺にとって、“邪魔にならない”基準が誰だと思ってる」
椿の呼吸が止まる。
「……え?」
蓮はなおも視線を逸らさない。
「食事」
「回復」
「練習強度」
「睡眠」
「怪我のケア」
一つずつ指折り、言葉が置かれていく。
「全部、椿が基準だ」
胸の奥が大きく揺れた。
言葉を返せない。
蓮はさらに続ける。
「三日間、お前がいなかった時でも、食事自体は成立してた」
レシピ通りに作った。
量も栄養も問題なかった。
それは椿にも分かっている。
そう、聞いているから。
「でも、満たされなかった」
その一言が、真っ直ぐ胸へ刺さる。
「お前が戻ってきた朝、初めていつもの感覚に戻った」
椿の指先が震える。
――食事幸福性。
蓮の言葉は、彼がそれを理解したということだった。
理論としてではなく、蓮の身体で。
それも、自分が作る食事で。
「邪魔どころか」
一拍置いて、蓮は言い切った。
「お前がいない方が、俺は崩れる」
椿の視界が揺れた。
涙が、じわりと滲む。
自分が必死に守ろうとしてきた理屈を、彼は真正面から崩してくる。
「言ったよな」
蓮の声が続く。
「ドイツで、お前にもオファーがあったって」
その言葉に、椿は小さく頷く。
あの日。
メディカルセンターでスタッフからかけられたという言葉。
ラボの一員として、海外で一緒にやらないか。
確かにそんな話があったと聞いている。
「俺は……いや。俺が、それを断った」
呼吸が止まる。
「……なんで」
ようやく絞り出した声に、蓮は迷いなく返した。
「他の誰にも譲るつもりはない」
その言葉が、時間を越えて椿へと届く。
「そう答えた」
椿の視界が、もう涙で滲んでいた。
「あれはきっと、管理士としてじゃない」
胸の奥が強く跳ねる。
「椿、お前自身を手放したくなかったんだ」
そこで、積み上げてきた理性が崩れた。
彼の未来を邪魔したくない。
支える立場でいたい。
そう言い聞かせてきた全部を、彼はその論理のまま上回ってくる。
「……ずるい」
思わず零れた声は、涙で震えていた。
蓮は何も言わず、ただまっすぐ見ている。
「そんなロジック、並べられたら……」
一度、言葉が詰まる。
胸の奥で、必死に押さえ込んできた感情が、音を立てて溢れ出していく。
「断れないじゃない」
ぽろりと涙が頬を伝った。
蓮の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「断らなくていい。
俺はもう、椿がいない前提で未来を考えられない」
その一言で、最後の壁も崩れた。
椿は唇を噛み、涙を拭いながら小さく笑う。
「……ほんと、ずるい」
こんなの、負けるに決まっている。
自分の理屈を、自分より正確に見抜かれて。
しかもその上で、必要だと言われて。
もう、逃げる理由がどこにもなかった。
椿はゆっくりと顔を上げる。
今度は、逃げずに。
「……私も」
声が震える。
それでも、今度こそ言葉にする。
「私も、ずっと好きだった」
食卓の上に立ち上る湯気の向こうで、蓮の目がわずかに揺れた。
けれどその視線は、やはりまっすぐだった。
「じゃあ」
蓮が静かに言う。
「これからも、俺の隣にいてくれ」
その言葉に、椿は涙を拭いながら頷いた。
「……うん」
いつもの食卓は、もう昨日までと同じ場所ではなかった。
料理の温度も、会話の距離も、そこに流れる空気も。
全部が少しだけ変わっていた。
でも、不思議と怖くはなかった。
むしろ、これがずっと欲しかった答えだったのだと、ようやく分かった。
――彼の未来を支えることと、隣にいることは、もう矛盾しない。
二人の食卓は、初めて同じ未来へ繋がった。
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