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俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜  作者: はるくぼ
2年生・春「同じままで」

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100食目 春に溶けて

 朝のキッチンには、いつもの音が満ちていた。


 包丁がまな板を叩く小気味よい音。

 鍋の中で出汁が静かに温まる気配。

 換気扇の低い駆動音。


 目を覚ました蓮は、寝室の扉を開けた瞬間、その音に足を止めた。


 この家に流れる朝の時間は、昨日までと何も変わっていない。

 それなのに、胸の奥に落ちる感覚だけが少し違った。


 キッチンには、いつものように椿が立っている。

 髪を後ろで軽くまとめ、エプロンの紐を腰の後ろで結び、フライパンへ視線を落としていた。


「おはよう」


 先に振り返ったのは椿だった。


 その声に、ほんの少しだけ柔らかさが混じっている。

 以前なら気づかなかったかもしれない。

 だが今は、そのわずかな温度差まで自然に伝わってくる。


「ああ。おはよう」


 蓮も短く返し、食卓へ向かう。

 椿は皿を並べながら、視線を一度だけこちらへ向けた。


「今日、午後かなり走るんでしょ?」


「ああ。ミニゲームの本数増えるらしい」


「そう」


 短く返しながら、弁当箱へおかずを詰める手は止まらない。


「じゃあお弁当は少し量を増やしておくわね」


 その一言に、蓮の視線が自然に弁当箱へ落ちる。


 ご飯の量がいつもより少し多い。

 副菜も、午後の負荷を見越した内容に変わっている。


「……ありがとう」


「当たり前のことよ」


 椿は少しだけ口元を緩めた。


「それに、昨日の帰り、足運び少し重かったわよ?

 程々にしないとまた怪我するわよ」


 その言葉に、蓮の胸の奥で小さく熱が灯る。


 見られている。

 ずっと、こうして見られてきた。


 ただ、それが今は以前よりも少しだけ、心地よかった。

 食卓につき、二人で朝食を取る。


 会話は多くない。

 けれど、沈黙がもう冷たくない。


 同じ空間にいること自体が、自然に満たされていく。

 食事を終え、蓮が立ち上がると、椿が弁当を差し出した。


「はい」


「ああ、ありがとう」


 受け取る瞬間、指先がわずかに触れる。

 以前ならすぐに離れていた距離が、今日は一拍だけ残った。


「……今日、一緒に行くか?」


「……ええ。すぐ準備するわ」


 2人揃って玄関の扉を開け、朝の空気へ踏み出す。


 放課後のグラウンドは、春の終わりを思わせる乾いた風が吹いていた。


「天根センパイ!」


 若葉から鋭い縦パスが差し込まれる。

 蓮は半身で受け、そのままワンタッチで左へ散らす。


 プレーの精度は落ちていない。

 むしろ身体は軽い。


 ミニゲームの合間、若葉がボトルを手に近づいてきた。


「……あれ?」


「なんだ」


「いや、なんか今日、天根センパイちょっと違うっす」


 蓮の眉がわずかに動く。


「何がだ」


「いや、なんて言うか……」


 若葉は首を傾げたあと、少しだけ目を細めた。


「いつもより、ちょっと機嫌いいっすか?」


 その言葉に、横で聞いていた桐生が小さく笑った。


「お、相変わらず鋭いな」


「え、やっぱそうっすよね?」


 若葉が食いつく。


 桐生はタオルで汗を拭きながら、蓮を一瞥した。


「……まぁ、そういうことなんだろ」


 それ以上は何も言わない。

 だが、その口元には少しだけ含みのある笑みが残っていた。


 若葉も桐生の表情を真似ている。


「へぇ〜。やっと、って感じっすね」


「ほんとにな。お前と違ってこっちは去年から見てんだぜ?」


「2人とも、うるさい」


 眉を寄せながら短く返すも、蓮は否定しきれない違和感を自分の中に感じていた。

 確かに、少し違う。


 景色は変わらない。

 練習もいつも通り。


 それでも、帰る場所を思い浮かべた時の感覚だけが、昨日までとは違っていた。


 夜、帰宅して玄関を開けると、すぐに出汁の香りが迎えた。

 リビングへ入ると、椿がいつものように食卓の準備をしている。


「おかえり」


「ああ、ただいま」


 自然に返る言葉。


 それだけで、胸の奥が静かに満たされる。

 椿は振り返るなり、すぐにこちらへ視線を向けた。


「もしかして今日、練習終わりに追加でかなり走った?」


「……分かるか」


「分かるわよ。しかも私が帰ったあとね、まったく……」


 椿は当然のように言った。


「昨日よりさらに足取り重いわ。見ていた感じよりもずっと」


 蓮は小さく息を吐く。


「やっぱり、お前には隠せないな」


「ちょっと。隠す必要なんてないでしょ」


 その返しに、二人の間で小さく笑みがこぼれる。


 食卓につく。

 湯気の向こうにいるのは、昨日までと同じ椿。


 けれど、その距離だけがほんの少し近い。


 会話の量は多くない。

 それでも、箸を置く音や、視線が合う間に流れる空気が柔らかい。


 食事を終えたあと、蓮はいつものように皿を手に取った。


「一緒に下げるな」


「ありがとう」


 短い言葉のやり取りも、もうどこか呼吸が合っている。


 シンクに水を流し、皿の汚れを洗い落としていく。

 背後では、椿が明日の献立ノートを机へ広げていた。


 ペン先が紙を走る音が、換気扇の低い音に静かに重なる。

 皿を拭く手を止めた蓮の視線は、自然とその横顔へ向いていた。


 ノートへ落ちる視線。

 時折わずかに寄る眉。

 考え込む時に、ほんの少しだけ唇へ力が入る癖。


 そういう細かな仕草が、今まで以上にはっきりと目に入る。


「……どうしたの?」


 視線に気づいた椿が顔を上げる。


「ああ、いや」


 蓮は小さく息を吐き、洗い終えた皿を水切りへ並べた。


「……見てると、落ち着くなと思って」


 一瞬、椿の手が止まる。


「……なによ、それ」


 そう返す声は呆れたようでいて、どこか柔らかかった。

 蓮はそれ以上言葉を足さず、静かに手を拭く。


 リビングに流れる時間は、昨日までと何も変わらない。

 それでも、この場所へ帰ってくる意味だけは、もう以前とは違っていた。


 何も変わらない日常。

 だが、その日常を包む温度だけが、確かに変わっていた。


 春の終わりは、静かに二人の日常へ溶け込んでいった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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