101食目 肩紐
期末試験が終わり、校内にようやく夏休み前の空気が流れ始めた頃だった。
廊下では旅行や遊びの予定を話す声が増えているのに、グラウンドの熱だけは少しも軽くならない。むしろインターハイ本戦を目前に控えたサッカー部の空気は、去年のこの時期よりも静かに張り詰めていた。
練習後、給水に集まった部員たちの間で、自然と合宿の話題が上がる。
「そういや天根、今年も橘さん来るのか?」
二年のDFがタオルで首元を拭きながら何気なく尋ねた。隣にいた三年の控え組も、ああそれ気になる、と笑い混じりに乗ってくる。
「去年の合宿、マジで別物だったからな」
「食堂の空気まで変わったし。あのスープ、今でも覚えてる」
蓮はボトルの水を飲み干し、短く息を吐いてから視線だけを向けた。
「さあ」
「知らないのかよ」
「必要なら来るんじゃないか?」
いつものように淡々とした返答だったが、それ以上誰も深く突っ込まない。
去年の一週間を経験した部員たちにとって、橘椿の帯同はすでに特別な話題ではなく、チームの調整の一部として自然に認識されていた。
「まあ、橘さんならそうか」
「今年は去年以上に暑いらしいし、来てくれると助かるなー」
そう言いながら部員たちは部室へ散っていく。蓮もバッグを肩に掛けて歩き出したが、引っかかりを覚えて足が止まる。
そのまま踵を返し、校舎にいる監督の元へ向かう。
監督室の前にたどり着いた時、開いたままの扉の向こうに、見慣れた横顔が見えた。
机の前に背筋を伸ばして座り、手元の資料を相模へ差し出している。
去年の夏、初めてこの部屋に呼ばれていた時の、あの僅かな緊張感はもうない。そこにいること自体が、もう自然だった。
蓮は一瞬だけ足を止めたが、そのまま何も言わずに壁にもたれかかった。
監督室の中では、相模が日程表を机に広げながら椿へ視線を向けていた。
「改めてお願いするわ。今年も合宿に帯同してほしいの。去年の成果はもう誰も偶然だなんて思ってない。今年もインターハイ本戦前の最終調整になるから、Aチームの管理をお願いしたいわ」
椿は資料を閉じ、静かに頷いた。
「わかりました」
監督は呆気にとられたような表情を浮かべる。
「……いいのか?また天根を優先的に見ると言い出すと思っていたが」
「本心では、そうです。でもチームの底上げが彼の助けになると判断しました」
そこで相模も口を開く。
「ならなおさらAチームを任せたいわ。それ以外は私が他の実習生と見るわね。
去年よりも役割を絞った方が、あなたの強みも活きるでしょうし」
「ありがとうございます。ただ、サポートは必要です。仕込みとデータ管理を一人で回すのは非効率ですから」
「葛城くんは今年もいるから、彼と一緒にやって」
その名前に椿は小さく頷いた。
「分かりました。葛城先輩なら連携に問題ありません」
去年、半信半疑で自分を見ていた先輩。だが今は違う。
「去年のデータも残っているし、今年は初日からかなり詰められるわね」
「はい。気温と湿度の予測も更新済みです。去年よりも脱水リスクが高いので、水分補給のタイミングは前倒しします」
相模はその即答に小さく笑う。
「ほんと、あなたがいると話が早いわ」
話がまとまり、椿は資料を抱えて立ち上がった。
廊下へ出ると、すぐそばに蓮が立っていた。
夕方の赤い光が廊下に差し込み、窓の外からは自主練のボールを蹴る音が響いてくる。その中を2人は並んで歩く。
「決まったのか」
蓮が先に口を開く。
「ええ。今年も行くわ。
……今年はAチームを見ることになったわ」
「そうか」
相変わらず短い返答だったが、その言葉に含まれる当然さが去年とは違う。
椿は、蓮の肩に掛かったバッグの紐がねじれているのに気づいて、無言で整えた。指先が一瞬だけ制服の肩口に触れる。
だがそれもごく数瞬の話。誰かに見られることはなかった。
「水分、もう一本飲んでおいて。今日は気温高かったから」
「分かった」
「あと、夜更かしは禁止よ」
「わかってるって……母さんか、お前は」
たったそれだけの会話。
それでも去年の合宿前とは、明らかに空気の温度が違っていた。
椿が先を歩き、その背中を蓮は数秒だけ見送る。
去年は、合理的な契約関係の延長だった。
今年は違う。
それでも、形は何も変わらない。
食事の管理、補給の確認、睡眠への注意。言葉にしていることは去年とほとんど同じなのに、胸の奥に落ちる感覚だけが少し違った。
その違いを、蓮はまだ言葉にしない。
マンションへ戻った夜、食事を終えた蓮に椿が話しかける。
「これ、明日の移動中用。去年と同じだけど、今年は気温高いから少し成分を変えてるわ」
差し出されたのは小さな保冷バッグだった。
蓮が受け取ると、椿はそのまま自然に言葉を続ける。
「朝渡そうかと思ったけど、他の準備に時間取られるかもしれないから」
「分かった。いつもありがとうな」
短い確認だけで会話は終わる。
だが、椿はじっと蓮の顔を見つめていた。
「……どうした?」
蓮が問い返すと、椿はそこでようやく視線を逸らす。
「別に。ただ、去年も同じようにこうしてたなって思っただけ」
その言葉に、蓮も一瞬だけ去年の夏を思い出す。
初めての合宿前。
実習生として帯同する椿。
合理だけで成立していた距離。
そして今。
同じ景色のはずなのに、隣に立つ彼女の存在が、去年よりもずっと近い。
「同じではないだろ」
短く返すと、椿は小さく首を傾げる。
「去年よりは、椿のことも知ってる。
もう一方通行じゃない」
「……ほんと、ずるいわ」
それだけ溢すと、椿はそのまま自宅へと戻る。
ドアが閉まる音がして、廊下に静けさが戻る。
蓮は手元の保冷バッグへ視線を落とした。
去年と同じ準備。
去年と同じ合宿。
去年と同じ景色。
それでも、自分たちはもう同じではない。
夏の入口は、静かに開いていた。
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