102食目 浮かぶのは
合宿二日目の夜、食堂には昼間の喧騒が嘘のような静けさが落ちていた。
三部練習を終えた選手たちはすでに各部屋へ戻り、消灯までの短い自由時間を思い思いに過ごしている。食器の片付けを終えた厨房には、換気扇の低い駆動音と、流しに落ちる水の音だけが規則正しく響いていた。
椿は食堂の隅のテーブルにノートPCを開き、今日一日の摂取量と発汗量の差分を入力していく。Aチームの主力は去年よりも明らかに消耗が激しい。特に午後の紅白戦後、前線の数名に筋グリコーゲンの枯渇傾向が強く見られた。明日の朝食は糖質比率を少し上げ、塩分濃度も再調整する必要がある。
「まだやってるのか?」
声に顔を上げると、葛城がトレーを持ったまま立っていた。
「葛城先輩。片付け、終わったんですか」
「ああ。相模先生は先に部屋に戻った。残りはもう明日の朝でいいってさ」
そう言って、葛城は椿の向かいの席に腰を下ろす。
去年の合宿では、ここに座る彼の視線には常に僅かな疑念が混じっていた。だが今、その目にあるのは純粋な信頼と、少しの疲労だけだった。
「今年は去年より手際がいいな」
「去年のデータが残っていますから。気温の変化だけ見れば十分調整できます」
「いや、そういう意味じゃない」
葛城は小さく笑う。
「去年は全部一人で抱え込もうとしてた。でも今年は俺にもちゃんと振ってくる」
「効率の問題ですよ」
「そういうところ、ほんと変わらないな」
椿は入力の手を止めず、画面に視線を落としたまま答える。
「変わる必要がないところは変えません」
その返答に、葛城はしばらく黙った。
流しの水音だけが空間を満たす。
やがて、彼はぽつりと口を開いた。
「……卒業、もうすぐなんだ」
椿の指が一瞬だけ止まる。
「進路、決まったんですか?」
「ああ。大学でスポーツ栄養を続ける。その先も、現場に入るつもりだ」
彼らしい進路だと思った。
去年の合宿を境に、葛城は明らかに変わった。教科書の正解だけを追うのではなく、現場でどう機能するかを考えるようになった。その変化を一番近くで見てきたのは椿でもある。
「葛城先輩なら、きっと良い現場管理士になれます」
「ありがとう。……でも、その前に言っておきたいことがあってさ」
そこで初めて、椿は画面から視線を上げた。
葛城の表情は真剣だった。
軽い冗談でも、先輩としての助言でもない。
それを理解した瞬間、空気の質が少しだけ変わる。
「橘さん」
名前を呼ばれる。
「去年、一緒にやってきて、最初に思ったのは“すごい一年生だ”だった」
葛城は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「でも違った。すごいのは知識でも理論でもない。君は、相手を理解しようとする視線が誰よりも深い」
椿は何も言わない。
「選手の体調、食欲、疲労、考え方。全部見た上で、その人にとっての最適解を探してる。そこまで相手を見られる人、俺は初めて見た」
葛城の声は静かだった。
それでも、その一言一言はまっすぐ届いてくる。
「……だから、好きになった」
言葉は、思っていたよりもあっさりと落ちた。
劇的でも、衝撃的でもない。
ただ静かに、そこへ置かれた。
椿はしばらく言葉を失った。
驚きはあった。
けれど、迷いはない。
胸の奥に浮かんだ顔は、一人しかいなかったからだ。
「ありがとうございます」
まず最初に、そう返した。
葛城は小さく笑う。
「やっぱり断られるか」
「はい。……すみません」
椿はゆっくり息を整えた。
「私、もう向き合いたい相手がいるんです。
その人を支え続けるって、もう決めています」
その言葉に、葛城は一瞬だけ目を細め、それから静かに頷いた。
「その相手ってもしかして、天根くんか?」
「……はい」
その返事だけで、自分の中の輪郭が一段はっきりする。
去年なら、きっとここまで明確には言えなかった。
合理とか契約とか、いくらでも言葉を置けた。
でも今は違う。
もう、それだけでは説明できない。
「......でも、なんでわかったんですか?」
「え? 逆に隠してるつもりだったのか?
......あれで?」
今度こそ椿は赤面した。
その様子に笑いながら、葛城は椅子から立ち上がった。
「元々、ダメなのはわかって言ったんだ。困らせてごめん。
でも......うん。すっきりした」
「葛城先輩……」
「卒業前に言えてよかった。ありがとう」
そう言って、彼はそのまま厨房の奥へ向かう。
去っていく背中を見送りながら、椿は胸の奥に残る微かな熱を確かめていた。
誰かに言葉として向けられたことで、逆に自分の答えがより鮮明になった。
理解したい人。
支えたい人。
隣にいたい人。
全部、同じ一人に繋がっている。
食堂を出た廊下の先、窓の向こうには夜のグラウンドが静かに広がっていた。
明日で合宿は終わる。
その先には、全国の舞台が待っている。
そして、その中心にいる彼の姿を思い浮かべた時、椿の足は自然と前へ向いていた。
最初から迷いはない。
この夏、自分が見るべき景色も、支えるべき相手も、はっきりと決まっているのだから。
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