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俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜  作者: はるくぼ
2年生・夏「変わったけど、変わらない」

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103/147

102食目 浮かぶのは

 合宿二日目の夜、食堂には昼間の喧騒が嘘のような静けさが落ちていた。


 三部練習を終えた選手たちはすでに各部屋へ戻り、消灯までの短い自由時間を思い思いに過ごしている。食器の片付けを終えた厨房には、換気扇の低い駆動音と、流しに落ちる水の音だけが規則正しく響いていた。


 椿は食堂の隅のテーブルにノートPCを開き、今日一日の摂取量と発汗量の差分を入力していく。Aチームの主力は去年よりも明らかに消耗が激しい。特に午後の紅白戦後、前線の数名に筋グリコーゲンの枯渇傾向が強く見られた。明日の朝食は糖質比率を少し上げ、塩分濃度も再調整する必要がある。


「まだやってるのか?」


 声に顔を上げると、葛城がトレーを持ったまま立っていた。


「葛城先輩。片付け、終わったんですか」


「ああ。相模先生は先に部屋に戻った。残りはもう明日の朝でいいってさ」


 そう言って、葛城は椿の向かいの席に腰を下ろす。


 去年の合宿では、ここに座る彼の視線には常に僅かな疑念が混じっていた。だが今、その目にあるのは純粋な信頼と、少しの疲労だけだった。


「今年は去年より手際がいいな」


「去年のデータが残っていますから。気温の変化だけ見れば十分調整できます」


「いや、そういう意味じゃない」


 葛城は小さく笑う。


「去年は全部一人で抱え込もうとしてた。でも今年は俺にもちゃんと振ってくる」


「効率の問題ですよ」


「そういうところ、ほんと変わらないな」


 椿は入力の手を止めず、画面に視線を落としたまま答える。


「変わる必要がないところは変えません」


 その返答に、葛城はしばらく黙った。


 流しの水音だけが空間を満たす。


 やがて、彼はぽつりと口を開いた。


「……卒業、もうすぐなんだ」


 椿の指が一瞬だけ止まる。


「進路、決まったんですか?」


「ああ。大学でスポーツ栄養を続ける。その先も、現場に入るつもりだ」


 彼らしい進路だと思った。


 去年の合宿を境に、葛城は明らかに変わった。教科書の正解だけを追うのではなく、現場でどう機能するかを考えるようになった。その変化を一番近くで見てきたのは椿でもある。


「葛城先輩なら、きっと良い現場管理士になれます」


「ありがとう。……でも、その前に言っておきたいことがあってさ」


 そこで初めて、椿は画面から視線を上げた。


 葛城の表情は真剣だった。

 軽い冗談でも、先輩としての助言でもない。


 それを理解した瞬間、空気の質が少しだけ変わる。


「橘さん」


 名前を呼ばれる。


「去年、一緒にやってきて、最初に思ったのは“すごい一年生だ”だった」


 葛城は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。


「でも違った。すごいのは知識でも理論でもない。君は、相手を理解しようとする視線が誰よりも深い」


 椿は何も言わない。


「選手の体調、食欲、疲労、考え方。全部見た上で、その人にとっての最適解を探してる。そこまで相手を見られる人、俺は初めて見た」


 葛城の声は静かだった。

 それでも、その一言一言はまっすぐ届いてくる。


「……だから、好きになった」


 言葉は、思っていたよりもあっさりと落ちた。


 劇的でも、衝撃的でもない。

 ただ静かに、そこへ置かれた。


 椿はしばらく言葉を失った。


 驚きはあった。

 けれど、迷いはない。


 胸の奥に浮かんだ顔は、一人しかいなかったからだ。


「ありがとうございます」


 まず最初に、そう返した。

 葛城は小さく笑う。


「やっぱり断られるか」


「はい。……すみません」


 椿はゆっくり息を整えた。


「私、もう向き合いたい相手がいるんです。

 その人を支え続けるって、もう決めています」


 その言葉に、葛城は一瞬だけ目を細め、それから静かに頷いた。


「その相手ってもしかして、天根くんか?」


「……はい」


 その返事だけで、自分の中の輪郭が一段はっきりする。


 去年なら、きっとここまで明確には言えなかった。

 合理とか契約とか、いくらでも言葉を置けた。


 でも今は違う。

 もう、それだけでは説明できない。


「......でも、なんでわかったんですか?」


「え? 逆に隠してるつもりだったのか?

 ......あれで?」


 今度こそ椿は赤面した。

 その様子に笑いながら、葛城は椅子から立ち上がった。


「元々、ダメなのはわかって言ったんだ。困らせてごめん。

 でも......うん。すっきりした」


「葛城先輩……」


「卒業前に言えてよかった。ありがとう」


 そう言って、彼はそのまま厨房の奥へ向かう。


 去っていく背中を見送りながら、椿は胸の奥に残る微かな熱を確かめていた。

 誰かに言葉として向けられたことで、逆に自分の答えがより鮮明になった。


 理解したい人。

 支えたい人。

 隣にいたい人。


 全部、同じ一人に繋がっている。


 食堂を出た廊下の先、窓の向こうには夜のグラウンドが静かに広がっていた。


 明日で合宿は終わる。


 その先には、全国の舞台が待っている。

 そして、その中心にいる彼の姿を思い浮かべた時、椿の足は自然と前へ向いていた。


 最初から迷いはない。

 この夏、自分が見るべき景色も、支えるべき相手も、はっきりと決まっているのだから。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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